装置と言えば聞こえがいいが、結局は意図的に仕組まれた演出だろうと言われるとそれまでなのだが、観客の興味を集めるための演出というにはフィリベールの映像はあまりにも静かで淡々としすぎていて平凡な印象なのだ。私たちが一歩外に出れば見つかるような、もしくは誰もの記憶に焼きついているような、ごくありふれた時間と風景を切り取っているのである。
2012-01-31
ニコラ・フィリベールによるドキュメンタリー映画について
装置と言えば聞こえがいいが、結局は意図的に仕組まれた演出だろうと言われるとそれまでなのだが、観客の興味を集めるための演出というにはフィリベールの映像はあまりにも静かで淡々としすぎていて平凡な印象なのだ。私たちが一歩外に出れば見つかるような、もしくは誰もの記憶に焼きついているような、ごくありふれた時間と風景を切り取っているのである。
2012-01-29
私の好きなソフト・ロックのアルバム(1)ミレニウム『ビギン』(1968)
ところで私の両親はいわゆるビートルズ世代であるのに我が家にはビートルズの、というか洋楽のレコードが一枚もない。母親がまだ若い頃、大事にしていたのは舟木一夫の「高校三年生」のレコードだったし、テレサ・テンと美空ひばりを彼女はよく聴いていた。父親にいたっては出稼ぎのような状況だったのでまるで嗜好がわからない。そんなわけで、洋楽にかぶれた親しい友人もない私は、グランジ、ブリットポップ、オルタナ、我が日本においては渋谷系...そんな実り多き90年代を生きながら音楽に対してあまりにも無頓着で、というか、今思えば私という人間はすべてにおいて晩熟だったのである。いまだにそうであるように。
私が影響を受けるのはいつも誰かの書いた小説のなかであった。はじめにビートルズがやってきた。ほとんど同時にビーチボーイズもやってきた。そしてドアーズが真っ暗闇のなかから扉を叩いた。夜空ではデヴィッド・ボウイが妖艶な笑みを浮かべてこちらを見下ろしており、ルー・リードが数多の言葉をたずさえて私の部屋に居座った。そんなある日、トレンチコートのポケットに眠る切符の穴からゲンスブールが這い出て来た......
という前置きはこのくらいにして、私はソフト・ロックというジャンルに属する音楽が好きである。ビートルズほどやかましくもなく、限りなくポップスに近い美しいメロディーで、時には美女によるウィスパー・ヴォイスに出会えたり、見事なコーラスワークを聴くことができる。それらはすべて輝かしき60年代の賜物である。あの時代に登場したグループは数知れず、うみおとされた名曲もまた浜辺の砂の数ほどであろう。
ミレニウムの『ビギン』(1968)はソフト・ロックの名盤中の名盤と言われるほど名高いアルバムだ。私が初めて買ったソフト・ロックのアルバムはこれである。まずこのジャケットが好きなのだ。内側から窓の外をながめているようにもとらえることができれば、ツバメかなにかの鳥が部屋のなかに迷い込んできたようにも見えるし、静寂という額縁のなかに解放的なイメージを流しこんだというようなジャケット。
ミレニウムというグループを率いたカート・ベッチャーという人はコーラスの魔術師と言われたほど、彼のコーラスアレンジは聴く人をうっとりさせるほど美しい。そしてこの『ビギン』というアルバムは、ミレニウムが唯一残したアルバムでもある。一曲目から目が回るようなサイケデリックなサウンド全開と思えば、動物の鳴き声がきこえてくる実験的な内容ぶり。しかし二曲目にしてすでにコラースの魔法にかかってしまう。ソフト・ロックに位置づけられているが、アルバム一枚をとおして聴くとわかるのだけれど、後半はプログレのような流れになり、ビートルズの『サージェント〜』やはたまたクリムゾンの『21st〜』にも引けを取らないアルバムだと、というか、それに匹敵するほど私は好きなアルバムなのである。
カート・ベッチャーという人は父親の仕事の関係で日本にも滞在していたことがあり、琴の音色をフィーチャーした、ザ・正月的サウンドがあったり、特に13曲目の「語りつくして」というナンバーは日本人の耳にとても馴染みやすいようなメロディーで、私の大好きな曲である。
このアルバムの製作にはコロンビア史上最高の金額が注ぎ込まれたのだが、前衛的すぎるという理由で宣伝にはほとんどお金をかけてもらえなかったので、結果的に売れなかった。しかしスポンサーである「コロンビア」を賛美歌のように歌い上げた面白いナンバーもあったりして、カート・ベッチャーという人はユーモアのセンスにも長け、リスナーを飽きさせることのない巧みな仕掛けを考え出す天才でもあっただろうと推測している。これを超えるソフト・ロックのアルバムに私はまだ出会っていない。
2012-01-28
Les Masques『brasilian sound』(1969)
2012-01-27
au revoir simone(オー・ルヴォワール・シモーヌ)ガーリーな佇まいもまた、良し
au revoir simone http://aurevoirsimone.com/(音楽が流れます)
au revoir simone(オー・ルヴォワール・シモーヌ)はNY、ブルックリンを拠点に活動するガールズトリオによるエレクトロバンド。メンバーはエリカ・フォスター、ヘザー・ディアンジェロ、アニー・ハートの3人で、2003年に結成された。バンドの名前からてっきりフランスの女の子たちだと最初は思っていたのだが、au revoir simoneというバンド名はティム・バートンの『ピーウィーの大冒険』にでてくる台詞からとったものだという。現在までにミニアルバム1枚、フルアルバム2枚、remixアルバム2枚、Kitsuneというフランスのレーベルから出ているコンピアルバムにも参加している。
彼女たちのサウンドは、ひとことで言うと「ノスタルジア」ということになるのだそうだ。アニエス・ベーやデヴィッド・リンチが早くから注目し、彼女たちのサウンドを絶賛しているところをみると、「ノスタルジア」というも表現もあながち間違いではないだろう。
もしかすると私はまだ彼女たちが言うところの「ノスタルジア」を感じるほどの年齢ではないのかもしれないが、初めてau revoir simoneのサウンドを耳にしたときのことを想い出すと、今でも胸がワクワクするようなときめきをおぼえる。きらきらと光の中を降りて来たあたたかな音のなかに、ときおり氷雪をふきつけたような冷たさが入り混じり、ドリーミィーなサウンドが一転してミステリアスな顔をのぞかせる。しかしそれは長くは続かず、センチメンタルな気持ちとともに再び心地良い夢のなかに誘うのであった。
Our Secret Record Co (2009-05-19)
2012-01-25
60s幻のフレンチ・ヴィンテージ・シネマ『アイドルたち』
しかし主演の3人によるパフォーマンスがすごい。歌もド下手ながらほぼトランス状態でメロメロな踊りもかなりぶっ飛んでいるのだが、特に小柄で可愛らしいビュル・オジエの全身を駆使したパフォーマンスは爽快ですらある。歌も本家のフランス・ギャルと互角という感じであるところもまた面白い。初めて観たときはフレンチ・ポップ好きの私も若干の拒否反応を起こしたが、回を重ねるごとに中毒性が増し、今では拍手を送っている有様だ。
パフォーマンスに負けず劣らず、そのネーミングセンスにもロクでもない魅力を感じさせる。コケティッシュな「狂乱ジジ」、元ストリートの不良だった「短刀のチャーリー」、元占い師の「魔術師シモン」!個人的には落ち目アイドルである魔術師シモンの存在感が一際輝いて見えた。知的でまともなことを喋っておきながら、腐った卵の割れた匂いで未来を占うとか、やってることは相当胡散臭いというあたりがこの映画のどうしようもない魅力をそのままあらわしたかのようである。どちらにしろ、若者たちは反体制を掲げつつも、なんでもありのノーテンキな、まさにあの時代の雰囲気たっぷりといった感じの映画ではあります。バンドによるガレージぽいサウンドも素晴らしい!サントラがないのが残念ではありますが。
映画のなかで、アイドルとは神のような神聖な存在でなければならない、人々の願望を形にする存在でなければならない、と言うのだが、60年代のアイドルたちは実際に若者たちの見本となるような絶大な影響力を持っていたことは確かなのだ。残念ながら?現在そのようなアイドルは少なくとも日本にはおらず、いたとしても心のなかでひそかに自分のヒーローを崇めるだけだ。いわれてみれば、わたしの愛するアイドルたちは皆60年代に青春時代をおくり、活躍した方々である。もはや60年代そのものが現在からみれば底知れぬエネルギーに満ちあふれた輝かしい羨望の時代となりつつあるのかもしれない。
それにしても若き日のビュル・オジエの可愛いこと!可愛いのに演技派で個性派で、多くの作品に異なったイメージを残されている。年を重ねられた今も好きな女優さんの一人です。
アイドルたち
製作年:1968年 製作国:フランス 時間:108分
原題:Les Idoles
監督:マルク'O
出演:ビュル・オジエ、ピエール・クレマンティ、ジャン=ピエール・カルフォン ほか
2012-01-24
ミュゼット『datum』ダートゥム
Musette『datum』2009 |
ミュゼットはスウェーデン人、Joel Danell(ヨネル・ダネル)によるソロユニットで、主にピアノ、アコーディオン(ミュゼットという名前も狭義の意味で由来している)、口笛、ギター、バイオリン、ウッドベース、オルゴールといった楽器を使用した環境音楽である。
彼の紡ぎ出す作品の特徴はなんといっても、最近のヴォーカルのないインストルメントとしては珍しくコンピューターでの加工をいっさい行っていない録音方法である。と、このように書くと地味な印象を持たれるかもしれないのだが、いや、ノスタルジックなあたたかみのあるピアノの音などを再現するために、ピアノの中に毛布を入れて叩き出しているというのだから、実際に地味な作業はしているのであるけれども、アコースティックな楽器だけによる演奏の素朴さというか素直さというか、彼の音楽に取り組む姿勢が気取らず、誠実でなものであることがなによりもシンプルに伝わる作品となっている。
そんな優しさに溢れた音ばかりを集めたのがこの『datum』(ダートゥム)というアルバムである。「datum」とはスウェーデン語で「日付」を意味する。その名のとおり、アルバムに収録された曲名はすべて日付である。ヨネル自身がカセットテープに日々録り溜めておいた四季折々の記録を、仲間とともに録音しなおしたのがこの『datum』なのである。
ピアノの音がクッションのように心地良く響く、川原で春の日差しをあびて寝そべっているような感覚をおぼえる作品もあれば、どことなく西部劇の乾いた荒野を放浪する場面を思わせるような口笛を主役にした作品もあり、サイレント映画のモノクロの世界を軽快に揺らすような作品もある。すべての作品に共通しているのは羽根のようにやわらかなピアノと、ざらついたノイズがかすかに含まれているような、クリアではないどこかくぐこもった音であることだ。これらはアナログの懐かしさを感じさせ、アコーディオンの音はレトロな雰囲気を醸し出し、繊細なピアノにほんのすこしセンチメンタルな気持ちになる。
タイトルの日付から連想される季節の記憶をたどって音に耳を澄ませて懐かしむのも、やさしい子守歌として眠りに落ちるのも、様々な顔をのぞかせる音から空想世界の映像を思い描くのもまたよいであろう。このアルバムにはそんな多種多様の楽しさや癒し、懐かしさ、情緒的なシーンがぎゅっとつまっている。
2012-01-22
ほんとうの馬鹿、失われた眼鏡と編上げブーツについての馬鹿のたわごと
ブログを書き始めて20日ほど経過したが、あまりこれといって面白い内容は書いていない。面白いというか、自分自身が気に入った記事というか、上手く書けたと思えた日が一日もないのである。私が好きなものについて書いたところで、このブログよりもずっと深く掘り下げた内容で私の好きなものを論じているブログが数多くあるのだから、わざわざ毎日このブログを書くために映画の一部を観直したり、本を引っ張り出して調べものをしてまで書くこともないと思うのだ、今更ながら。
その日、何について書くかは毎日お風呂に入っているときに考えている。すんなりタイトルまで決まるときもあれば、悩みに悩んでなにひとつ決まらないままお風呂を出るときもある。ひとつの記事を書くのに、お風呂から上がって髪を乾かして一息ついて寝る前までの3時間近くを費やしているのだが、これはほんとうに馬鹿のすることである。今日もはじめに頭が痛いと嘆きつつも、嘆きの理由、もしくはその言い訳についてだらだらと書いているのだから私はほんとうのほんとうに馬鹿なのであろう。
私はいつも書きすぎる。いつのまにか部屋の時計も狂っている。コンタクトレンズを買いに眼科へ行かなくてはならない。定期検査も兼ねて半年に一度は診てもらうことにしているのだが、前回の検査が去年の何月だったのかも忘れてしまったので、実際のところもう一年以上行っていないのかもしれない。コンタクトレンズのストックはだいぶ前に切れており、この三ヶ月は眼鏡ですごしている。
眼鏡といえば、高校生の時に眼鏡を盗まれたのである。私が眼鏡をかけるのは授業中に黒板を睨みつけるときだけで、それ以外の時間は立派な黒塗りのケースにしまって机の中に入れておくか、机の上に出しっ放しであるかのどちらかであった。その日はおそらく机の上に出しっ放しであったのだと思う。昼休みを学食ですごして教室へ戻ったら机の上に置いたはずの眼鏡がなくなっていた。黒塗りのケースだけは机の中にしまわれたままであった。なぜなくなったのか?盗まれたのか?その理由がいまもよくわからないままである。眼鏡のゆくえを誰にたずねれば正しい情報が得られたかもまるでわからない。私のことが単に気に食わなかったのか、眼鏡が欲しかったのか、とにかく教室中にいる人間にわたしの眼鏡の行方をたずねたが、だれも知らないと言い張ったので、けっきょく私の眼鏡はわたしが学食でカレー蕎麦かチーズカツ丼かアジフライ定食を食べているほんの数十分のあいだになくなってしまったのであった。
私はその日の放課後にさっそく眼科へ行き、盗まれた眼鏡とまったく同じものを作ってもらった。カルバンクラインの、セル・フレームは薄いオレンジ色で、フォックスよばれる形のフレームであった。次の日学校に行き、なくなったものと同じ眼鏡をかければ何らかの変化が私に訪れるのかと思ったが、けっきょく何も起こらなかった。私はいま、まさにその眼鏡をかけてパソコンの画面を見つめているのである。十二、三年前のものである。
盗まれたといえば、中学生のときに下駄箱から編上げのブーツを盗まれたことがあり、大雪のために徒歩で帰れなかったため音楽の先生に家まで車で送ってもらったことがある。なぜ盗まれたのかは今でもわからない。しょっちゅう身の回りの物がなくなるということはなくて、眼鏡の件もブーツの件もある日とつぜん何の前触れもなく、なくなってしまったのである。私のことが気に食わない人間は実際のところ私が知らないだけで身近に多くいたのかもしれないのだが、腑に落ちない部分があるとすれば、物がなくなった翌日もその翌日も、その数週間後も、数ヶ月後も卒業するまでずっと、私は以前と何ら変わらぬ日々をすごしていたことである。眼鏡の紛失を機にいじめが始まったとか、誰かに跡をつけられるといった不気味な出来事が起きてもよさそうであるのに、何も起こらず、眼鏡にしろブーツにしろ、結局それらは私が卒業するまでついに出てこなかったのであった。
と、ここまで書いたところで、ナラ・レオンが一回りしたので今日はこれで終わることにする。結局、何が言いたかったのかよくわからないが、これを読んだ人は一体どのような感想を持つのだろうか。馬鹿のたわごとで済むぐらいの話である。
2012-01-21
アンナはアンナである、ヌーヴェル・ヴァーグの花嫁 アンナ・カリーナ
ゴダールの映画が好き。というより、アンナ・カリーナが出演しているゴダールの映画が好きである。
カリーナのいないゴダール映画というのは、暖炉のない応接間、光の射さない窓辺のようである。ゴダール映画におけるアンナ・カリーナとは暖炉であり光なのである。アンナ・カリーナというひとりの女優をとおして彼の映画は息づき、感情という温度をまとい、美しくも哀しい言葉たちが、ときには溢れんばかりの愛に満ち満ちて、スクリーンをはしゃぎ回っているようでもあった。
ゴダールは、映画とは男が女を撮る歴史であると語ったが、ゴダールにとって女とは、少なくとも60年代の彼にとってのそれは間違いなくアンナ・カリーナであった。その証拠に、61年にゴダールはアンナ・カリーナを主役に『女は女である』というミュージカル・コメディのような稀に見る可愛らしい作品を撮ったが、それは映画をとおして『女は女である』ことの証明をおこなったのではなく、『アンナはアンナである』ことを一本のフィルムに収めたにすぎなかったからだ。
60年から67年のあいだに、アンナ・カリーナをヒロインにして、ゴダールは長編7本と短編を1本を撮っている。『小さな兵隊』『女は女である』『女と男のいる舗道』『はなればなれに』『アルファヴィル』『気狂いピエロ』『メイド・イン・USA』『未来展望』である。この7年のあいだに、二人は結婚し、離婚したが、カリーナは離婚後もパートナーとして彼の作品に出演し続けた。
「一人の女優と一緒に仕事をし、その女優を映画に出演させ、しかもその女優と一緒に暮らしていた」「アンナとぼくのこと」、「そしてある日、一人が涙を流している」としたら「その涙をそのあとの映画のなかで見てとることができた」(ゴダール全評論・全発言1)
私がアンナ・カリーナという女優を知ったのは、スクリーンの中ではなく、ある小説のなかにおいてであった。私が敬愛する作家のひとりである阿部和重の処女作『アメリカの夜』に、おそらくゴダールに関する諸説を引用するようなかたちでアンナ・カリーナの名前が登場したのだった。阿部和重は映画学校出身で、タイトルからしてトリュフォーなのであるが、彼の小説が好きでいろいろな作品を読んでいくうちに、私自身も映画を観るようになってしまった。
アンナ・カリーナという名前の響きがトルストイの『アンナ・カレーニナ』を彷彿させるので、実際に彼女の姿を拝見するまでは、ずっとトルストイの小説のカレーニン夫人のような内に情熱を秘めた凛とした貴婦人を頭の中に想い描いていたのだが、初めて観たゴダールの『気狂いピエロ』でそのイメージは跡形もなく崩れ去ってゆく。そして、アンナ・カリーナはこれまでに観たどの映画のなかにもいない、誰にも似ていない、素晴らしく可愛らしい女性であったのである!
アイメイクをバッチリと施した瞳、猫のような鋭い視線、しなやかな肢体、おもちゃをねだる子どものように甘えてみたかと思えば、あっけなく男を裏切る(もちろん映画の話だけれど)自由奔放なという言葉が彼女には嫌味なく似合うのである。そして、カリーナといえばそのファッションもゴダール映画における重要なポイントになっている。しかも、どれもほんとうに可愛いのである!『気狂いピエロ』ではピンクのフリルのついたワンピースに水色のカーディガンをはおり、右手にはマシンガンを持って、あるときは赤いワンピースに小さな犬の形のバッグを合わせている。港のシーンでのキュートなまぶしいマリンルックには、ターコイズ・ブルーのパンツにバレエシューズを難無く着こなしていた。
彼女のファッションを参考にするのは個人的にはかなり敷居が高いとも思っております。ゴダールは大胆に赤を使うことが多く、カリーナにも赤いセーターを着せたり、赤いストッキングを履かせたりしている。モノクロの作品だと、何の装飾もないシンプルなセーターに膝丈のスカートを合わせているだけであったり、それでもカリーナはとびっきり可愛いく着こなしているのである。もともと着こなしが上手い人なのだろう。誰にも真似できない、誰にも似ていない、稀有な女優、それがアンナ・カリーナである。どんな役名を与えられようと、アンナはアンナなのである。
アンナ・カリーナは1940年、デンマークのコペンハーゲンに生まれた。父は軍人、母は洋裁学校を営んでいた。母親は何度も再婚しており、決まった姓がなかったため、姓は捨ててHanne-Karin(ハンネ・カリン)という名だけ残して、アン・カリンと名乗っていた。
17歳のとき家出同然でパリに向かう。小汚い恰好でカフェにいるところを、モデルとしてスカウトされ、細々と活動をはじめた。未成年でお金もなく、ジュニア向けの洋服の写真をやっていたとき、カメラマンに「何か仕事がもらえるかもしれないから写真を持ってエレーヌ・ラザレフに会いに行きなさい」と言われ、彼女に会いに行った。彼女とは当時の『ELLE』の編集長である。
アンナ・カリーナという名前はココ・シャネルが名付けたというのは有名な話であるが、シャネル女史に出会ったのもこのときで、エレーヌ・ラザレフに会いに行くと、シックな婦人がもうひとりいて名前を聞くので、「アン・カリンです」と答えると、語呂が悪いからアンナ・カリーナにしなさいと即座に決められたのであった。たまたまそこで偶然出会っただけであり、カリーナはシャネルの店で仕事をしたことは一度もない。
身寄りもなく、知り合いもなく、小さなホテルに住み朝食だけで生活をしていた17歳のアンナ・カリーナは、まもなくピエール・カルダンのマヌカンとして活躍し始める。その頃、長編第一作目となる『勝手にしやがれ』を撮ろうとしていたゴダールは、カリーナが石鹸のコマーシャル・フィルムに出ているのを見て、この娘なら裸になるのは平気だろうと思い、ヌードになる脇役にカリーナを起用しようと電報で呼び出していた。カリーナは「脱ぎません」と断るが、4ヶ月後に再度ゴダールから呼び出され、今度はヒロインの役だと言われる。これが『小さな兵隊』(1960年)である。
しかしその直後に「ジャン=リュック・ゴダール主演女優兼恋人を発見す」という新聞記事が出て大騒ぎになってしまう。騒ぎのもとはそれより前に「ジャン=リュック・ゴダールは次回作『小さな兵隊』を準備中で、その出演者および恋人として18歳から22歳の娘を求む」というゴダール直筆の広告を見ていた女性ゴシップライターが勝手に想像を膨らませて書いた記事であったのだが、このことにカリーナは心を痛め、絶対に映画には出ないとゴダールに電話で涙の抗議をしたのである。すると電報がきて、
「ハンス・クリスチャン・アンデルセンのおとぎの国の少女が涙なんか流してはいけない」
というクサい文句とともに、ドアをノックするのであけてみると、ゴダールが赤いバラを50本も持ってあやまりに来ていた......
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2012-01-19
60sスウィングするロンドンを切り取った、アントニオーニの『Blow Up』(欲望)
イタリア映画史上もっとも前衛的な作風で世界のアートシーンを魅了した鬼才、ミケランジェロ・アントニオーニが手掛けた1966年のイギリス映画『Blow Up』(引き伸ばしという意味だが、なぜか邦題が『欲望』)は、一度観ただけでは素人には理解し難い抽象的な内容にもかかわらず、60年代なるものに憧れを抱いている私はこれを何度も何度も繰り返し観ては、スウィンギング・ロンドンの風が吹き荒れる真っただ中にワープしてチェルシーを闊歩したつもりになって、当時のポップ・カルチャーに想いを馳せている。思えば、大好きなジェーン・バーキンに出会ったのはこの映画であった。
この映画はあくまでもアントニオーニの目線で描かれた60年代半ばのロンドンであって、当時の若者のムーブメントに彩られてはいるけれども、ビートルズもいなければツィギーもいない。ただ、観る者に多くの謎を投げかける映画である。主人公に関するデータすら売れっ子カメラマンであること以外最後までほとんど不明(DVD等のパッケージの説明書きには一応、主人公のトーマスという名前で紹介されているのだけれど、劇中で彼の名前は一度も明かされない)というように、観た人間の数だけそれぞれの解釈が可能な大胆で面白い映画とも言えます。
主人公の行動原理や登場人物たちの関係性が全く見えてこないので、おそろしく退屈な映画だと嫌う人もいますが、私自身もはじめて観た時はつまらない、退屈な感情しか湧き起こらず、逆にそんな自分の馬鹿さ加減にもうんざりしたので、そのように感じる人の気持ちもよくわかるのです。今では自分なりにこの偉大な謎多き作品を咀嚼して大好きと呼べるまでになったけれど、これを一番好きな映画だと言うようではただの芸術かぶれのようで気が引けますし、さらに人に勧めるのも抵抗がありますが、強烈なインパクトで映画史に残る印象的なシーンがいくつか登場するので、今日はそのことについて少し書いていきます。
この映画のもっとも有名なシーンは、当時世界最高峰とも言われたスーパーモデル、ヴェルーシュカをデヴィッド・ヘミングスが激写し、しまいにはぞんざいに扱うというエキサイティングな撮影風景である。二人のセックスを彷彿させるような展開になっており、カメラを離した途端、一気に興ざめするヘミングスとは対照的に余韻にひたるヴェルーシュカ。この温度差ったらない。
ヴェルーシュカはドイツとポーランド、ロシアの混血で、父親は100以上の部屋を持つ屋敷に暮らすドイツの伯爵でもありました。しかし父親はヒトラー暗殺未遂で処刑され、母親もナチスによって投獄されるという悲惨な幼少時代を送っている。20歳前後の頃、アメリカに渡りモデルを始めます。ヴェルーシュカの飾らないライフスタイルはヒッピーたちに支持されました。彼女のモットーでもある自然回帰ともとれるようなボディペイントを施し風景に同化させるようなアート作品『ヴェルーシュカ:変容』を発表しています。
そして公開当時、カンヌで物議を醸したというジェーン・バーキンのヘアヌードが拝めるのである。まだゲンスブールに出会う前の19歳のバーキンは、先にフランスで活動した経歴を持つジリアン・ヒルズとともにモデル志望の女の子役で出演。ミニのワンピにカラータイツという出立ち。これがまた最高に可愛くて、わたしはこれで彼女に一目惚れしてしまったのでした。
問題のシーンは3分間にわたって繰り広げられる脱がせ合いごっこです。このあたりはもうめちゃくちゃで、演技なのか素なのかほとんどわからない、裸になりながらキャーとかギャハハというはしゃぎ声がメイン。バーキンだけ死にものぐるいの本気モードで相手に襲いかかっているあたりに女優魂を感じます。このあたりからもう大物ぶりを発揮していたのでしょう。
最後は映画史に残る重要なシーンというよりは、ロックファンにとって貴重な映像となるヤードバーズのライヴシーンです。末期を迎えつつあったバンドの最後の勇姿と言ってさしつかえのない映像となっておりまして、ジェフ・ベックとジミー・ペイジによるツインギターを見ることができます。ギターを破壊するパフォーマンスは当時そのようなパフォーマンスで話題になっていたザ・フーにならってのもので、監督からぜひギターを破壊してくれとの要求があってのことでした。
ライヴシーンの出演も当初はザ・フーに依頼していたというのはよく聞かれる話でありますが、昨年SMJから出たサントラの解説によると、監督はザ・フーの前に秘かにヴェルヴェット・アンダーグラウンドに出演依頼をしていたということです(!)ウォーホールからビザと労働許可の問題で引き受けられないと断られたそうですが、もしこのライヴシーンがヴェルヴェッツのでものであったなら、この映画はまったく別物になっていただろうと思います。イギリスを舞台にNYのアヴァンギャルドなバンドであるヴェルヴェッツの出演など素人にはほとんど思いつかないのですが、しかもまだデビューしていない彼らのことをアントニオーニがどこまで知っていたのか疑問ではありますが、そのような先見の明を持っているあたりはさすがとしか言い様がありません。
それにしても棒立ちの観客が愚かな群衆心理にしたがって破壊されたギターにたかるというのは、この映画のなかではもっとも解釈を与えやすいシーンではないかと思います。壊れたネックは熱狂的なファンの集うライブハウスの中では絶対的な価値を放つけれど、一歩ライブハウスの外に出てみれば壊れたギターはただのガラクタでしかない。
この映画は真実とは何か?という実に平凡な問いかけをテーマに掲げているように思います。それは美女と暮らす画家が抽象画を描いていることに対して主人公が奇妙な目で見ていることや、白塗りの若者たちがボールもラケットも見えないパントマイムの仮想テニスを披露するシーンに象徴されているようにも見えるのです。
私はアントニオーニの作風というのは現代人の病(やまい)を反映させた結果のように感じているのです。アントニオーニの映画は大概にして人があまり出てこないのだけれど、人がいて然るべき場所に人がいないというような、作り込まれた感じが観客に与える虚無感こそ、まさにアントニオーニが描こうとしたもののひとつであっただろうと思います。
この『欲望』はそのような彼の作風とはまた異なるもので商業的につくられた映画であるから、ただ単純に楽しむべき映画で、そういう映画とは愛される映画なのだとも思っております。
欲望
製作年:1966年 製作国:イギリス・イタリア 時間:111分
原題:BLOW UP
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
出演:デヴィッド・ヘミングス、ヴァネッサ・レッドグレーヴ、サラ・マイルズ、ジェーン・バーキン
2012-01-18
スクリーミン・ジェイ・ホーキンス、I Put A Spell On You
ハンガリーのブダペストからいとこのウィリーをたずねてニューヨークの街を歩くエヴァ。大きなカバンと一緒にテープレコーダーをぶらさげていて、おもむろにスイッチを入れるとカセットテープから妖しいサックスの音色とともに「I put A Spell On You(おまえに魔法をかける)」とドスの利いた声で絶叫するスクリーミン・ジェイ・ホーキンスが流れます。なぜジェイ・ホーキンスか?と言いますと、映画ではエヴァが最終的にクリーブランドに住むおばさんをたずねるという設定なのと、ジェイ・ホーキンスの故郷がクリーブランドであるという関連性がちらりと垣間見えたりします。しかしそんなことはどうでも良く、これがとてもかっこいいのです。普段から「かっこいい」という表現は極力使わないようにしているのですが、かっこいいという感覚を否応無しに受け入れざるをえないような、しかし気取ったところがなく適度な脱力感をもった最高のシーンです。
私はこのワンシーンですっかりジャームッシュの虜なってしまったのでした。スクリーミン・ジェイ・ホーキンスをまるで理想の男性と崇めるかのようなエヴァ。いつも寝起きのようなぼさぼさの髪をして煙草をくゆらすエヴァ。ウィリーにもエディーにもおかまいなしのエヴァ。ウィリーのいないキッチンでスクリーミン・ジェイ・ホーキンスにあわせて気怠く踊るシーンもなんてことはないのだけれど、エヴァの冷めたような無気力な演技が妙にかっこよくて、大好きで何度も繰り返し観てしまいます。
スクリーミン・ジェイ・ホーキンスはその後、ジャームッシュの『ミステリー・トレイン』(1989年・アメリカ=日本)にも出演しています。永瀬正敏と工藤夕貴が泊まるメンフィスのホテルのフロントの役です。
「I Put A Spell On You」は「おまえに魔法をかける」どころか、スクリーミン・ジェイ・ホーキンスの歌は「呪いをかける」といったほうがしっくりくるのだけれど、実際には別れた恋人を想って書いた曲でした。恨み辛みが積み重なってこのような怪しい雰囲気をまとった曲になったのかどうかはよくわかりませんが、ラブソングと言われると不気味な笑い声すら、哀れな男の切ない慟哭のようにも思えてしまうのがまた不思議であります。
とはいったものの、こういったショーをみるとやはり化け物というかユーモアにあふれていて病み付きになること必至ではありまして、棺桶で登場したりドクロで飾り立て、煙草をプカリとするのがお決まりのようで、花火やマグネシウムを使って奇抜な演出をしていたようです。しかしこの炎を見ると私はいつも電撃ネットワークを思い出してしまうのですが。
「I Put A Spell On You」はジョン・レノンの青春時代を描いた『ノーウェアボーイ』(2009年・イギリス)でも使用されています。ロックンロールに目覚めたジョンがレコード店から盗んできたジャズのレコードの価値がわからず海に投げ捨てていたとき、(おそらくアメリカの?)船員に引き留められ、彼と交換したレコードがスクリーミン・ジェイ・ホーキンスの「I Put A Spell On You」だったというような内容でした。このシーンのすべてが実際に起こった出来事であったのかはわかりませんが、ビートルズの生みの親はスクリーミン・ジェイ・ホーキンスだったという無理矢理な説が成り立つことも可能ではないかと考えるとまた面白く、さらにこの曲が映画とともに好きになるのでした。
『ノーウェアボーイ』はジョンの伝記として観るのも興味深いのですが、ビートルズという偉大な看板に身構えることなく青春映画としても非常に面白く観ることができます。ナイーヴだけれど血の気盛んなティーン・エイジャーの自我を描いた作品として、いっそうの輝きを放つ映画です。というわけで、スクリーミン・ジェイ・ホーキンスの怪奇な不気味さはどこへやら、爽やかな終わり方になってしまいました。
2012-01-17
亡きアンドレ・バザンの思い出に、トリュフォー、大人は判ってくれない
亡きアンドレ・バザンの思い出に—
トリュフォーの長編第一作目であるこの映画は、「亡きアンドレ・バザンの思い出に」という献辞ではじまる。アンドレ・バザンは映画評論家であり、問題児であったトリュフォーを映画の場所に導いた人生の師であり、トリュフォーはのちに彼を「精神的父親」とよんだ。
二人の出会いはこうであった。トリュフォーは「セルクル・シネマーヌ(映画中毒者集会)」という名のシネクラブをつくったばかり、バザンは「ラ・シャンブ ル・ノワール(暗闇の部屋)」というシネクラブを主宰していた。ある日、バザンの前に一人の生意気そうな少年があらわれ、映画の上映後、えんえんとやりあった。バザンは若い連中が生半可な知識でつっかかってくることに慣れていたが、少年の映画へののめりこみようが尋常ではないことがすぐにわかった。特にアメリカ映画に対する知識と熱意には圧倒されてしまったという。一方トリュフォーは、最初はライバル気取りで、同じ界隈で別のシネクラブがやられては困るというので、上映会の日程を変更して欲しいと文句をつけにいったのだが、映画の話をしているうちに意気投合してしまったのである。トリュフォーは16歳になったばかり、バザンは30歳であった。
知り合って間もなく、実の両親によって少年鑑別所に入れられたトリュフォーを心配し、周囲にかけあって救い出したのがバザンであった。さらに三年後、トリュフォーが失恋の痛手に耐えきれず突発的に入隊を決意し、脱走を繰り返したときも、四方八方に手を尽くして軍刑務所から救い出してやったのもバザンであった。
バザンは軍刑務所から釈放された二十歳のトリュフォーを自宅に住まわせ、情緒不安定を改善させ社会復帰させるために、すべての神経、精神を映画に向けさせるよう導いていった。バザンの指導で大量の小説や映画の本を読み漁ったトリュフォーは多くの言葉を書き留め、やがて「フランス映画の墓堀人」といわれるまでに辛辣な批評を書くようになるのである。
大人に見放されて育ったトリュフォー少年が出会った、人生ではじめて心から信頼して尊敬できる大人、それがアンドレ・バザンなのだった。しかしこの『大人は 判ってくれない』がクランクインをむかえた当日、悲運にもバザンは亡くなってしまったのである。40歳という若さだった。バザンがいなければ、間違いなく映画監督トリュフォーはこの世にいなかっただろう。
この映画を初めて観たとき(当時はこれが自伝的映画だということも、トリュフォーの複雑なバックグラウンドも全く知らなかった)確かに色々と感じたことはあったのだけれど、主人公のアントワーヌがかわいそうだとか、ひどい両親だとか、そんな単純で陳腐な言葉ではとうてい表現できない感情に、私はずいぶんと考え込んでしまったのであった。
おそらくアントワーヌにしたところで、自分に無関心な両親に対して「そりゃないよ」と思っていたはずなのだ。けれど「そりゃないよ」と思っていても、アントワーヌには成す術がない。「お母さんが死んだ」と縁起でもない嘘をついて両親を怒らせるわけだが、それはよく子供が親の気を引くためにするようないたずらではなく、両親とのあいだに波風を立てないようにするための最小限の自己防衛でしかない。この思わず笑ってしまうような嘘をつくシーンは、実はトリュフォー自身が映画を観に行って学校をさぼった翌日、担任の教師になぜ休んだのかと追求されて、思わず「父親がナチに捕まった」という嘘をついたという記憶に基づいている。そのあと大騒ぎになり、結局トリュフォーは家出し続けるはめになった。
この映画は『大人は判ってくれない』という邦題があてられているが、子供の気持ちを判って欲しいというような主張は、私にはほとんど感じられないのである。もちろんこの映画はトリュフォー自身の不遇の少年時代をモデルにしたものであるから、作家の意図を汲み取るのは比較的簡単なことだろう。しかし、この作品から大人に対する怒りや憎悪という感情が果たして読み取れるだろうか。トリュフォーはおそらく個人的な感情だけで映画を撮ることを嫌っただろう。アントワーヌ役のジャン=ピエール・レオーに幼い日の自身を重ねたかもしれないが、なによりも映画を撮る喜びを一番に見出していたはずである。トリュフォーが子供に向ける眼差しというのは、親に愛されたことのない幼少時代の記憶を呼び起こすものではなく、映画を撮る喜びに結びつくものだと私は思うのだ。
この映画が大人に対する怒りを作り手が一方的にぶつけたものでなく、思春期の少年の揺れる気持ちをそのまま描くだけに留まっているのは、アンドレ・バザンというはじめて心から信頼し尊敬できる大人に出会ったトリュフォー少年が「人を愛することのやさしさ」を見出すことができからではないか。だからこの映画は、大人を非難するようなお説教じみた雰囲気もなければ、親に見捨てられたかわいそうな子供がいたら救いの手を差し伸べてあげてくださいというような、観客の同情を煽るための物語ではないのである。あるのは自分を脅かす存在の大人や世間に対して叫ぶ声も持たない弱い立場にある子供の等身大の姿、どうしようもできない感情だ。ラストシーンの、鑑別所から逃走して海辺にたどりついたアントワーヌの表情がまさにそれを物語っているのではないだろうか。
その後、アントワーヌはどこへ向かうのか。トリュフォーはこのあと、当時世界的にも例を見ないシリーズものを撮ることになる。俗に「ドワネルもの」と呼ばれるこのシリーズは、20年の歳月にわたりアントワーヌの人生を追いかけ、アントワーヌを演じたジャン=ピエール・レオーの成長とともに描かれることになる。
アントワーヌ・ドワネルはトリュフォー亡き今も、この映画を愛する多くの人間の人生の一部に生き続けていることでしょう。トリュフォーとアンドレ・バザンの思い出とともに。
*
私はこれを見たくなった時にいつもレンタルで借りて観ていたのですが 、去年の春ごろにこの『大人は判ってくれない』とジャック・リヴェット傑作選の3本がレンタル屋のわずかなスペースでの扱いとなっているアート系の、フランス映画のタイトルがまとまって置かれた棚からごろっと消えてしまいました。場所移動でもなく、もうずっと見かけないので他店に貸し出しているわけでもなさそうだし、単品で購入するにも高値で、次に発売になるとしたらブルーレイ(日本盤で欲しい)だと思うのですが、その発売を待ち望んでいる次第でございます。そろそろ出ても良さそうだけどなあ。それにしても『大人は判ってくれない』が置かれていないレンタル屋ってのもなんかねェ...リクエストを出すと他店から取り寄せてくれたり場合によっては購入までしてくれたりするので良心的な店ではあるのですが。でもリヴェットまで消えてしまったのもショックですし、それではなぜゴダールだけは同じタイトルのものが旧盤と高画質廉価版と両方置いてあるんだろう。
大人は判ってくれない
製作年:1959年 製作国:フランス 時間:97分
原題:Les Quatre Cents Coups
監督:フランソワ・トリュフォー
出演:ジャン=ピエール・レオー ほか
2012-01-16
ヌーヴェル・ヴァーグはどこからやってきたのか
ヌーヴェル・ヴァーグの「文化的基盤」をつくったのは「唯一にして真の映画評論家」アンドレ・バザンを中核とする「カイエ・デュ・シネマ」誌にほかならない。—ゴダール
「(オーソン・ウェルズの『市民ケーン』に対して)これから映画をつくろうと考えていた人間にこれほどやる気を起こさせた映画はなかった...あの無謀な若さで...映画の規則を踏みにじり、その視覚的限界を踏み越え、目を見はらせる衝撃的なあの手この手...映画的奇跡」–トリュフォー
「カイエ・デュ・シネマ」の創刊は1951年であった。パリのシャンゼリゼ大通り146番地に編集部を置き、未来の「新しい映画」を担う若者たちが自由に出入りして映画を論じ合う溜まり場になったのは1953年の冬ごろ、グループはまだ若く貧しく、そこには二十歳のトリュフォーやゴダール、リヴェット、シャブロル、さらにはエリック・ロメールなどがいて批評を武器に、フランス映画界に殴り込みをかけようとしていた。のちにヌーヴェル・ヴァーグと名付けられる若者たちの姿である。
「カイエ・デュ・シネマ」=ヌーヴェル・ヴァーグの精神は「作家主義」である。これはオーソン・ウェルズの擁護と賛美にはじまった。1941年、オーソン・ウェルズは『市民ケーン』という映画を世に送り出す。(この映画は今観ると技術的な真新しさはまるでわからない。なぜならこのときオーソン・ウェルズがみせた真新しい撮影技法というのはもはや映画の撮影技法としては主流になっているからである)若干25歳でハリウッドにのりこんで新人監督としては異例の条件で、撮影から編集に至るすべての権限を自由に保証されて作った伝説的な映画である。ハリウッドという巨大な撮影所システムと企業形態のなかで助監督の経験もなく、しかも25歳の若さで『市民ケーン』を撮ることに成功したオーソン・ウェルズは、まさにヌーヴェル・ヴァーグの理想であり、極端にいえばヌーヴェル・ヴァーグとはオーソン・ウェルズに憧れた若者の集まりでもあった。
アメリカ映画を擁護することは一種のアヴァンギャルドだったのだとエリック・ロメールは語る。十代のトリュフォーも、パリ解放後にアメリカ映画を観れるようになったときの興奮をこのように表現している。「くたばれ!ピエール・フレネー、ジャン・マレー、エドヴィージュ・フイエール、レーミュ、アルレッティ。素晴らしき哉!ケーリー・グラント、ハンフリー・ボガード、ジェームズ・スチュアート、ゲーリー・クーパー、スペンサー・トレイシー、ローレン・バコール、ジーン・ティアニー、イングリット・バーグマン、ジョーン・ベネット......」
当時の映画雑誌(特に「レクラン・フランセ」)の反米主義は露骨であったため、映画狂の若者たちをイライラさせていたのだった。そして周囲への反抗心と、フランス映画には見出せなかったすばらしいエネルギーに対する心からの称賛と愛をこめて、とにかくハリウッド映画でさえすれば何でも好きになってやろうと彼らは決心するのだった。1948年ごろから、エリック・ロメールは「シネクラブ・デュ・カルチエ・ラタン」というシネクラブを主宰し、アメリカ映画なら何でも上映していた。さらに反米主義の「レクラン・フランセ」に対抗して「ラ・ガゼット・デュ・シネマ」誌を作ったが、失敗に終わる。そしてロメールは「カイエ・デュ・シネマ」に合流した。やがて左岸派のジャック・ドゥミやアニエス・ヴェルダもヌーヴェル・ヴァーグに加わっていく。
1953年、トリュフォーは「フランス映画のある種の傾向」という批評を「カイエ・デュ・シネマ」で発表する。当時売れっ子だった商業監督や彼らの作品の脚本家を叩きのめすものであったが、賛否両論の反響を巻き起こしトリュフォーの名を一躍高からしめたが、「くたばれ!トリュフォー」という抗議と怒りの手紙が「カイエ・デュ・シネマ」誌の編集部に殺到した。しかしこれこそがヌーヴェル・ヴァーグの到来を予告する明確なマニフェストにほかならなかったのである。
フランス映画の進歩は、本質的に脚本家および脚本そのものの革新、つまり文学の名作を映画化するための大胆な脚色、そしてふつう難解とみなされる主題にはきわめて敏感に反応し、寛大な観客がそれをうけいれてくれることへの絶対の信頼、にもとづくものではあるまいか。それゆえにここで問題になるのは脚本であり脚本家なのである。
名作文学にかこつけて–そしてもちろん「良質」の名のもとに–大衆に提供され、うけいれられているわがフランス映画の主流の実体は、相も変わらぬ暗いペシミズムのムードと社会の掟に立ち向かって挫折する純粋な人間たちの疎外と孤独を描き、大胆にみえて安易なマンネリズムが適量に調合された伝統的な映画なのである。
また、1982年に来日したときにもこのように語っている。
たとえば、メロドラマでは善玉と悪玉がはっきり区別される...純粋な心を持った主役のせりふは美しく感動的で、傍役の言うことは悪意に満ち、愚劣で滑稽というなんとも鼻持ちならない図式です。そうしなければ感動的にならないというような映画のつくりかたそのものが、いかにもいやらしくてやりきれないと...
「商業主義的要請」と時流にしたがって何でもこなすというだけの「凡庸のきわみに達した」フランス映画の「ソツ」のないたくみさが腹立たしく我慢がならなかった...
辛辣な批評でフランス映画界に君臨していた多くの名監督(と呼ばれていた人物)らを敵に回すことになったトリュフォー青年も、やがて自らの手で映画を撮ることになる。
明日はトリュフォーの長編デビュー作である『大人は判ってくれない』について書く。
2012-01-15
ヌーヴェル・ヴァーグ、クロード・シャブロルの処女作『美しきセルジュ』(1957年・フランス)
フランス映画の流れを変えた、ヌーヴェル・ヴァーグ。ヌーヴェル・ヴァーグといえばトリュフォーとゴダールの名前が真っ先に思い浮かぶかもしれないが、その円陣を切ったのはクロード・シャブロルである。彼は妻の祖母から3200万フランの遺産を相続し、その金で『美しきセルジュ』を作り上げる。シャブロルの妻はアニエスというマルセイユの富豪の娘でもあった。ゆえにトリュフォーやゴダールらが小さな一間暮らしをしていた頃、すでにシャブロルは結婚して大きなアパルトマンで裕福な生活をしていたそうである。
シャブロルはいつか映画を撮ろうというつもりで、2本のシナリオを書いていた。ひとつはこの『美しきセルジュ』で、もうひとつは次に製作される『いとこ同志』である。それがあまり金がかからないという単純な理由で『美しきセルジュ』から撮影に取り掛かることにした。実はこの『美しきセルジュ』のシナリオはトリュフォーらとも交流のあったロベルト・ロッセリーニに一度読んでもらったことがあったが、「全然おもしろくない」とあっけなく返されたという経歴を持っている。
『美しきセルジュ』の公開は1959年であるが、そもそもこの映画は公開のあてもなく、シャブロルの創作意欲だけで衝動的に自主製作映画として1957年の12月に撮影が開始された。もちろん製作費は自前(妻の祖母の遺産)である。舞台はクルーズ県のサルダンという小さな村で、実際にシャブロルが子どもの頃にすごした想い出のある地でもあった。この映画にはシャブロルの自伝的な素材もいくつか含まれているようである。
『美しきセルジュ』は異なる境遇の二人の青年の心理が中心に扱われる。結核の療養のためパリから故郷のサルダンにやってきたインテリお坊ちゃん風のフランソワ。一方、将来有望であったが学業に失敗し、さらに結婚するも流産で子どもを亡くしていたセルジュは酒浸りの荒れた生活を送っている。
二人の希望の失い方の度合いがあまりにも違うために、再会するも二人の態度はどこかぎこちない。セルジュを立ち直らせようとするもフランソワはまったく相手にされず、最後にはよそ者扱いされてしまう。
若き日のジャン=クロード・ブリアリはパリの青年を演じさせたら右に出る者はいないといった感じである。個人的にはジャン=ピエール・レオーの出来の良い兄貴というイメージを持って見ている。そして、この映画はジェラール・ブランの演技なしには語れないだろう。酩酊状態のタイトルロールから、ラストの笑いまで。まさにラストは『美しきセルジュ』というタイトルがひときわ輝く瞬間である。
この映画は軽快なジャズにのせてきらびやかなパリの街を行き来したり、洒落た会話を交わす男女が登場するといったヌーヴェル・ヴァーグのイメージとはほど遠く、村という閉鎖的な社会にくらす若者の姿をうまく捉えている。事件らしい事件といったらセックスしかなく、村全体がその情報を把握、共有していても暗黙の了解のようにそれを口に出すことはしない。これもまた田舎特有のひとつの姿である。
ヌーヴェル・ヴァーグがおなじみのパリではなく田舎にはじまったことを指摘する人はあまりいないが、ヌーヴェル・ヴァーグとは田舎から都会に出てあか抜けていくことのようでもある。ゆえに、シャブロルの次回作『いとこ同志』は『美しきセルジュ』と対をなすかのように、パリのアパルトマンでどんちゃん騒ぎをする若者の姿が描かれ、田舎者がそこではよそ者として描かれるのである。この『いとこ同志』についてもいつか触れようと思っています。
美しきセルジュ
製作年:1957年 製作国:フランス 時間:99分
原題:Le Beau Serge
監督:クロード・シャブロル、
出演:ジェラール・ブラン、ジャン=クロード・ブリアリ、ベルナデット・ラフォン、クロード・セルヴァル
2012-01-14
ジュリアン・シュナーベル『ルー・リード / ベルリン』
というのは、この映画はシュナーベルの作品のなかでもっとも素晴らしいものであると私は考えているが、それはシュナーベルが手がけた芸術作品であると同時に、この映画の素晴らしさはルー・リードが1973年に発表した『ベルリン』という音楽性よりも物語性を重要視した異質なアルバムの存在に負うところが大きいからであり、さらに私のもっとも好きな音楽家はゲンスブールとならんでルー・リードその人だからである。なのでどうしても個人的な感情が絡んでしまうわけだが、そもそもこの映画をルー・リードという特異な音楽家を知らない人間がすすんで観るかどうかすらあやしいところではある。しかしライブ映像を堪能するにはあまり良心的な環境とは言えない自宅での鑑賞ですらその壮大なラストにはむせび泣いてしまうほどの内容であるのだから、やはり何か書くべきなのだろう。
晴れてソロとなったルーは『ロックの幻想』(1972年)を発表するも、売上げはふるわず、批評家からも見放されつつあり、この時期、ルーは傷心のまま家業を手伝うなどしていたという。そんな彼をプロデュースしたいと申し出たのが、ヴェルヴェッツの、特にルー・リードの熱狂的なファンでもあったデヴィッド・ボウイ(とジギー・スターダスト期に活動をともにしていたギタリストのミック・ロンソン)であることはロック・ファンであれば誰もが知るところであろう。(私はボウイの、スターでありながらも同志にさりげなく手を差し伸べる、あくまでも相手の尊厳を守りとおす形でさらっと創作に加わる、彼のこういった一面が大好き!なのである!)そして発表された『トランスフォーマー』(1972年)はロック史の記念碑的なアルバムとなる。シングルカットされた「ワイルドサイドを歩け」でルーは初めて米英チャート入りをはたし、商業的な成功も得る。当時のルーを写真でみるとボウイの影響もあったのかグラムっぽいメイクも施していたようだが、次に発表された『ベルリン』(1973年)は、きらびやかな『トランスフォーマー』のイメージとはまったく異なるものだった。
ルーのソロ三作目となる『ベルリン』は『トランスフォーマー』のヒットのさなかに発売されたが、アメリカでの売上げはほとんどふるわなかった。さらにイギリスではトップ10入りを果たして一時は人気が出たように思われたが、『トランスフォーマー』のようなサウンドを期待したファンには受け入れられず、多くのレコードが中古屋に売り払われることとなった。その結果、ルーは『ベルリン』をライヴで演奏することをあまり好まなかったようである。
シュナーベルの映画では冒頭にテロップでこのような説明がなされる。
1973年 ルー・リードは
アルバム“ベルリン”を発表
商業的にふるわず
33年間 ライヴ演奏を封印
2006年12月–この暗い側面を歌った
この名作を初演した
アルバム『ベルリン』はまだ東西に分裂されていたベルリンを舞台に、キャロラインという娼婦とジムという名の男、そして語り手である俺(もしかしたらルー自身なのかもしれない)によって繰り広げられる背徳の愛の物語で、ロックのアルバムでありながら小説のような明確なストーリーを持つ、ルー・リードによる一大叙事詩とも呼べるような美しいアルバムである。ルーのストーリーテラーとしての側面が見事にあらわれたまでであるが、そこに描かれる世界はドラッグや暴力、バイセクシャル、死、といった暗く退廃的なイメージであり、『トランスフォーマー』の世界をさらにつきつめたようなショッキングな内容が作品の難解さを際立たせていたため、リスナーを寄せつけることをしなかったのである。
シュナーベルは2006年に行われた、ルーにとってベルリンの呪縛からの解放とも言ってさしつかえのない、極めて異質なライヴの舞台セットを担当し、ライヴの模様を自らの手でキャメラにおさめた。彼は『ベルリン』というアルバムの持つ特異性をよく見抜いている。『ベルリン』をひとつのコンセプトに基づいた物語性を孕んだ芸術作品、オペラや戯曲などの類いであるかのように扱って、見事に再現させてみせたのである。そもそもこのアルバムは元来そのように扱われるべき作品であったのだ。
というわけで、この映画にはアルバム『ベルリン』の楽曲を「Berlin」から「Sad Song」まで収録順にぶっ通しで演奏するルー・リードの姿が収められている。セットにはオリエンタルっぽい絵が使われているが気付くか気付かないかのとてもシンプルなもので、ときどきバックスクリーンにシュナーベルの手掛けた各楽曲のイメージを具現化した映像が映し出される。退廃した通りを歩くキャロラインやジムの姿がそこには見える。全体的にやや緑がかった映像になっているのは、「Lady Day」の歌詞のなかでキャロラインの部屋の壁が緑であるとされ、緑のなかに赤が効果的に使われているのはキャロラインが流した血の色である。
シュナーベルによる演出はステージ全体の雰囲気を幻想的なものに仕上げているが、緑と赤のイメージはもともとアリス・クーパーやケニー・ランキンなどのジャケットを手掛けていたPacific Eye & Earが作り出したヴィジュアル構成があった。彼らが作り出したブックレットは2006年に発売された紙ジャケの初回盤に同封されているので見ることができる。
シュナーベルの映画といえども、やはり主役はルー・リード、『ベルリン』という作品そのものである。このアルバムは生身の人間がいて、管弦楽やコーラスが加わってはじめて息づく作品であったことが33年の時を経てようやく証明されたような感じである。おそらくこのライヴ映像が世に出た今、手元にある『ベルリン』のCDはこの映画のパンフレット代わりにもならないのではないかと思わせるほど、素晴らしい内容のライヴ映像をシュナーベルは記録したのである。これは深夜に部屋の灯りを消して観るべき映画だ。そして薄緑色の世界と一体化してほしい。できれば寒い季節が良いだろう。ラストには「悲しみの歌」があなたの胸を満たし、まばゆいばかりの光が濡れた頬を照らしてくれるに違いない。
ルー・リード/ベルリン
製作年:2007年 製作国:アメリカ 時間:85分
原題:LOU REED'S BERLIN
監督:ジュリアン・シュナーベル
出演:ルー・リード(ドキュメンタリー)
2012-01-12
ジュリアン・シュナーベルの映画について
私は彼が映画監督として手がけたこれまでの作品(最新作『ミラル』をのぞく)を気がついたらすべて観ていたわけだが、彼の作品とは相性が良いようだ。なぜかと聞かれるとこれがまた返答に困ってしまうのだが、トリュフォーやチャップリンやリヴェットのように人物像も含めてどの作品も物凄く好きだという感覚とはまた違って、そよ風が頬を撫でるような感じとでもいえばよいのか、なんとなくひっかかるもの、興味を惹くものがどの作品にもひとつやふたつは必ずあって、色彩だったり、音楽だったり、散文詩のようなイメージだったり、物語そのものが面白かったりとさまざまなのだが、どれも私のアンテナにひっかる感じなのである。
彼が最初に監督したのは『バスキア』(1996年)である。スプレーのペイントで一躍有名になりヘロインの過剰摂取により27歳で亡くなったジャン=ミシェル・バスキアの伝記映画で、同志であったシュナーベルも身を置いていた、ウォーホールが君臨していた80年代のニューヨークにおけるアートシーンを切り取ってみせた。まず音楽がとても良くて、P.I.Lやイギー・ポップやトム・ウェイツなんかをチョイスしている。そしてキャストがすごい。デニス・ホッパー、デヴィッド・ボウイ、ゲイリー・オールドマン、ヴィンセント・ギャロ(!)ボウイのウォーホールが想像以上の出来映えである。冒頭と最後にバスキアの夢?という形で、お伽噺とでもいうような象徴的な物語が描かれるが、これもアーティストならではの発想なのかもしれない。
そして次に芸術家、同性愛者であることを理由に激しい迫害の対象とされたキューバで、生き続け、書き続けた作家レイナルド・アレナスが死の直前に綴った伝記『夜になるまえに』を映画化(2000年)する。レイナルド自身の言葉を意識してつくられた映像がまず目にとまる。私はこのレイナルド・アレナスという作家の『めくるめく世界』という小説を読んだことがあるのだが、ストーリーが突如と枝分かれし、こうである場合とこうだった場合と、さらにこうであれば〜というような現実と過去と未来と空想を行き来するような不思議な小説で、とにかく言葉のエネルギーに溢れた、稀代な小説家という印象を受けた。この映画は一人の男が生まれてから死ぬまでを淡々と描いたもので、とても平坦な印象を受けるのだが、それはこの映画が全体としては自伝であるのに主人公自身の言葉によって語られる出来事があまりに少なく、あったとしてもそれらの言葉はどれも長く、歌のような響きを持ち、韻を踏んで詩のようにも聞こえ、言葉自体の意味がよく分からないからだ。実際にそれらはレイナルド自身による散文詩のようなものなのだろうと思うのだが、ひとつの小説を言葉ではなく映像で語ろうとすれば、海やさとうきび畑、兵士の乗ったトラックなどの意味がイメージとして語られるので、なんだか単調な印象になる。そこで、ショーン・ペーンは完全に客を集めるためのカメオ出演といったふうになり、ジョニー・デップが二役、しかも女装して登場するもほんの数分だったりするのだが、原作を読んでみたいと感じさせるような作りになっている。少なくとも私は是非とも原作を読んでみたいと思いました。そして読んだのである。
おそらくシュナーベルの映画でもっとも知られているのが『潜水服は蝶の夢を見る』(2007年)であろう。ELLEの元編集長であったジャン=ドミニク・ボビーが突然の脳出血により身体の自由をうばわれ、病床で唯一動かすことのできる左目の瞬きだけで綴った自伝の映画化である。この作品は物語自体もとてもいいのだが、映像作家としてのシュナーベルの腕前をもっともよくみることができる。非常にいらだたしい冒頭のぼやけた映像、これは主人公のジャン=ドミニク・ボビーの視線である。私たちが感じるいらだちこそまさに主人公のいらだちでもあり、スクリーンの向こう側の人物と観客との共有部分だといえる。主人公はこの焦点の定まらないぼんやりとした視界の左目で本を書くのであるから、冒頭の映像はとても重要な役割を担っている。そこで、カメラが主人公の視線を離れ、外側から主人公の姿をうつすとき、観客は一瞬にしていらだちから解放される。この解放感こそが我々をこの物語に引き込むために用意された巧みな仕掛けである。こうした映像のうまさがこの作品を最後まで安心して観ることができる大きな理由のひとつなのであり、ジュリアン・シュナーベルという人がすぐれた映像作家であることを証明しているのである。
さて、今日はこのあとシュナーベルが手がけた『ルー・リード / ベルリン』(2008年)を中心に書くつもりでいたのだが、時間がないので明日ということにする。
2012-01-11
私たちが子どもだったころ、世界は戦争だった
この本はイギリスのBBCで近代現代史番組の制作にたずさわった経験のある女性二人によって書かれたものである。きっかけとなったのは、第一次世界大戦に関するテレビ番組の制作過程で史料収集を行った際に、名もない兵士や市民たちが遺した日記や手紙を入手したが、なかでも子どもたちの書いた日記に釘づけになったことだという。
「やむなく戦争の中で成長期を過ごさざるをえなかった子どもたちが、さまざまな不条理や大人たちの論理とぶつかりあいながらも、あくまで自己に正直であろうとする姿勢に、私たちは強くうたれたのです」(スヴェトラーナ・パーマー)
二人の著者はその後、舞台を第二次世界大戦にうつし、第二次世界大戦中に青春時代をすごしたティーンエイジャーたちが遺した日記、手紙類の収集をはじめた。
「連合国と枢軸国の両側から『子どもたちのみた戦争』を描きだしたいと考えていた」(サラ・ウォリス)
二人は数年かけて集めた膨大な資料のなかから、英語、ロシア語、ドイツ語で書かれたものは自分たちで直接読み、ポーランド語、日本語のものは調査を依頼するなどして、著作権継承者の許可を得るという作業も含めて、本書の完成には約五年の歳月がついやされている。
2012-01-10
映画、春にして君を想う 小沢健二、春にして君を想う
邦題『春にして君を想う』という1991年のアイスランド映画がある。おそらく小沢健二はこの映画を観ていたのだろう。原題は『Born natturunnar』で、ほとんどの国が「Children of Nature」と原題そのままのタイトルを使用しているのだが、日本では『春にして君を想う』という抒情的なタイトルがあてられた。これはオープニングに登場する農夫たちの合唱の歌詞から取ったもののようである。私は三、四年前にこの映画を観たが、その時点ではこの作品全体をうまいぐあいに覆っている不気味で陰鬱な雰囲気が、どこか青臭い感じのする邦題とどうもしっくり噛みあわないでいた。
しかしこの映画はとても不思議な映画で、後から後からじわじわと心地良い安堵感がやってくるのである。それは癒し、一種のカタルシスとでも言うべきなのだろうか。スピード感もなければ会話にすら躍動感はなく、派手さとは一切無縁であり、格別きれいな映像だともいいがたいのだが、まるで数日前に観たような気さえするほど、忘れられない映画のひとつとなっている。『春にして君を想う』という邦題は今では何にも代え難い美しいタイトルであると確信している。
この映画は年老いた男女のロード・ムービーである。妻に先立たれ、アイスランドの農村で一人暮らしをしていたゲイリという名の老人が長年守り抜いて来た農場を捨て、都会に住む娘夫婦のもとに身を寄せることを考えるのだが、突然の同居が快く受け入れられるはずもなく、仕方なく老人ホームに入所する。そこで偶然に再会した幼馴染みのステラが「死ぬ前に故郷に帰りたい」と言い出すのであった。
老いるということは子供に還るということなのだろうか。子供に還るということは原初の状態、つまり自然に還ることを意味するのだろう。この映画の要は原題にもある通り、アイスランドの自然美だ。可憐な草花、澄みきった水面、透き通るような月といった神秘的な自然描写。もちろんただ単に美しいというわけではなく、鬱蒼とした植物やごつごつとした岩場だとか、人間の手が入らない作り込まれた感じのなさが現地の厳しさを物語る。
そしてこの土地の晴れることのない深い霧はどこか不気味で陰鬱な雰囲気を持っている。それはこの作品が子供時代を過ごした故郷へ戻る物語であると同時に死に向かう物語であるということの象徴なのかもしれず、美しい風景を見たときに感じる物悲しさが全編をとおしてひしと伝わってくる。
老人には何かが起こりそうな気配というのがあまり感じられない。強いて言えば真っ先に思い浮かぶのは「死」という象徴的な出来事だが、老人だろうが若者だろうが死期というのは誰にもわからない。しかしもっとも「死」に近い存在という意味で「死」は老いにつきまとう。この映画は何かが起こりそうだけれども、 主人公が老人であるために劇中で起こりそうな「何か」というのはつねに死の気配を孕んでいる。逆に言うと「死」以外には何も起こりそうにないということもできる 。
老人ホームを抜け出した男女が新しいスニーカーを買い、車を盗難し、故郷の土を踏みたいという気持ちに突き動かされて行動する姿というのは見ていてとても滑稽で不思議な感じがする。老人ホームを抜け出して逃亡するというのは非常にドラマチックではあるのだが、ゲイリが孫の没頭する世界が理解できずに困惑していたように、ゲイリとステラの逃亡劇もまた我々とは別の世界で起きた出来事のように思えるからだ。そのように感じるのは我々が老人を社会から隔絶された存在だと位置づけてしまっているからなのかもしれないし、逃亡中のゲイリとステラが捜索願が出されたという報道をラジオで聞いても、そんなの私たちにはおかまい無しよ、というふうに世間を遠く離れたもののように切り離してしまうのも、普段の老人に対する無関心というものが社会にはあるからだろう。
というわけで、映画の内容を反映させて小沢健二の『春にして君を想う』を聴くといつもとはまた違った響きがするようで、「老いることをおそれないのだ、だってそれはこどものように無邪気なことだもの」と彼は歌っているようでもありました。
凍える頬も寒くはない
お酒をちょっと飲んだからなあ
子供のように喋りたいのだ
静かなタンゴのように
君とゆくよ 齢をとって
お腹もちょっと出たりしてね?
そんなことは怖れないのだ
静かなタンゴのように
薄紅色に晴れた町色
涙がこぼれるのは何故と
子供のように甘えたいのだ
静かなタンゴのように
君は少し化粧をして
僕のために泣くのだろうな
そんなことがたまらないのだ
静かなタンゴのように
薄緑にはなやぐ町色
涙がこぼれるのは何故と
子供のように甘えたいのだ
静かなタンゴのように
子供のように甘えたいのだ
静かなタンゴのように