ラベル フランス映画 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル フランス映画 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013-07-03

伝記映画の傑作!『モンパルナスの灯』(1958年)あまりにも儚いジェラール・フィリップ


この物語は史実にもとづくが、事実ではない
現在 モジリアニの絵は
全世界の美術館や収集家が 高額で追い求めている
だが 1919年当時は見向きもされず
彼は自信を失い 絶望のどん底にいた


  *

貧困と病苦に苛まれながら、失意のまま夭逝した画家アメデオ・モディリアーニ。異様に長い首に虚ろな瞳の人物画は、一度見たら誰もが決して忘れられないだろう。ボヘミアンで酒浸り、多くの女性に愛された美男子でもあった。伝説と化した彼の半生はこれまでに2度映画化されていて、ジャック・ベッケル監督の『モンパルナスの灯』(1958年・フランス)は、妻ジャンヌとのロマンスを軸に彼の晩年を描いたもの。



私は伝記映画というものをあまり信用していないけれど、この映画だけは別格なのだ!伝記映画の傑作中の傑作といえる。初めて観たときは主演のジェラール・フィリップとアヌーク・エーメの、まさに絵に描いたような美男美女のカップルに見とれてしまい、モディリアーニの絵画よりもまずモディリアーニとジャンヌ、二人の生き様に興味を持った。

当時フランス映画界の貴公子であったジェラール・フィリップは繊細ではかなげでモディリアーニの役にうってつけというほかなく、健気で純潔なジャンヌにふさわしいアヌーク・エーメの美貌も文句無しに観る者を惹き付ける。そしてモレルという名の架空の画商、不敵なリノ・ヴァンチュラの存在感が凄まじい。この映画に描かれるモディリアーニの最期はあまりにも劇的すぎるけれど、息をのむラストシーンが感傷に浸ることを許さない。

そんなメロドラマすぎるモディリアーニの人生をジャック・ベッケルの演出力が救っている。(ジャック・ベッケルは名作『穴』は言うまでもなく、『赤い手のグッピー』も好きな作品)どこまでが事実なのかはっきりとは分からないけれど、モディリアーニの人物像は本物なのだろうと信じ込ませる何かがこの映画にはある。芸術家としてのプライドを捨てずに確固たる信念を貫く姿、純粋であるがゆえに不器用にしか生きられない、頑なで破滅的で、まっすぐな性格が併せ持つ優しさ。

ジャック・ベッケルはモディリアーニの人柄を思わせる何気ないシーンを自然につないで見せる。小言をいいながらも酩酊状態のモディリアーニの世話をしてやる女性、ボタンをつけてやる少女、優しいモディリアーニは娼婦と思われる女性に僅かな酒を分けてやる。モディリアーニが無条件に女から愛される人間であることを伝えるシーンの描き方はとても控え目だけれど、なぜだか真実味を帯びている。ジェラール・フィリップのはかなげな表情と、彼が持ち合わせた気品も手伝っているように思う。



モディリアーニは自身が生活に窮しているにもかかわらず、街角のバイオリン弾きにさりげなく小銭を投げる。彼の持つ優しさ、芸術を愛する者への敬意とも取れるこのシーンが実に素晴らしく、ぼんやりしていたら見落としてしまうようなこの一瞬の場面にモディリアーニの品格を捉えたジャック・ベッケルの手腕に思わず唸らざるを得ない。



若くして病を患い、酒と薬漬けの貧窮生活のモディリアーニは確かに不運だったけれど、高名な画家の生涯としてではなく、モディリアーニというひとりの人間の生き方は尊く、あまりにも美しく心が震える想いになる。非現実的で綺麗事のようだけれどずっとそのように感じているし、だからこそこの映画が好きなのだ。そして、モディリアーニとほぼ同年の36歳の若さで亡くなったジェラール・フィリップの存在にもずっと魅了され続けている。





モンパルナスの灯
原題:MONTPARNASSE 19
製作年:1958年 製作国:フランス 時間:108分
監督:ジャック・ベッケル
出演:ジェラール・フィリップ,リノ・ヴァンチュラ,アヌーク・エーメ,レア・パドヴァニ,リリー・パルマー


2013-06-26

Chantal Goya シャンタル・ゴヤ、ゴダール『男性・女性』のヒロイン


彼女は自分の世界を創る
いきいきとして優しく/デリケートで美しい顔
美しい歯 美しい肌/美しい骨格 美しい微笑
繊細な表情と/軽快で優雅な身ごなし
豊かな芸術的感受性に/恵まれた真実の美しさ
精神の怠惰ではなく/本能の誠実と明晰

— ジャン=リュック・ゴダール『男性・女性』



シャンタル・ゴヤ(Chantal Goya/1946年-)は60年代半ばに活躍したフランスのアイドル歌手。いわゆるイェイェ(アメリカやイギリスの新しい音の影響を受けた大衆音楽、フレンチ・ポップス)時代の全盛期にデビューした。ゴダールの『男性・女性』(1966年)のヒロインとして有名。

お母様がカンボジア人だそうで、ちょっぴりエキゾチックで日本人受けしそうな可愛らしい顔立ち。映画出演時は19歳で、まだあどけないほんわかした雰囲気の女の子だけれど、骨格がしっかりしたお顔なので、ふとした表情に高貴な強さ、厳しさも感じさせる。音程・リズム感が危うい舌足らずな子供っぽい歌声も愛くるしく、『男性・女性』以外の姿は拝見したことがないけれど、瞬く間に私は彼女の虜になってしまった。



『男性・女性』ではマドレーヌという名前の新人アイドル歌手を演じ、等身大の役柄のようだ。彼女のモットーは化粧をしないこと、ハイヒールをはかないこと、スカートもジュニア風。本当に薄化粧らしく、おでこの吹き出物もばっちり映っていてそのことがとても微笑ましく思えたり。癖のように幾度となく髪に手を触れる仕草に胸キュン。

いつもは小難しいゴダールだけれど、この映画は初冬のパリをはしゃぎ回る若者の姿を生き生きと捉えていて、カメオ出演で豪華アイドルも登場して可愛らしい青春映画といった感じ。とにかく声が可愛いシャンタル・ゴヤ。マドレーヌのモノローグと劇中のイェイェは、カタルシスにも似た作用を引き起こす。



キュートなゴヤちゃん(そう呼びたくなるのはなぜ?)に憧れて、無謀にも髪型を真似ていた時期があった。母親がアジア人で黒髪のおかっぱという馴染みのあるスタイルに親近感が沸いてしまったのだけれど、肝心な顔のパーツが全く別物だということを完全に忘れていた私は、どう見てもちびまる子ちゃんなのだった。鏡に向かって「髪型は可愛いけどなんか違くない?」と自問自答していた思い出がよみがえってくる...。



映画の挿入歌も収録されている彼女のベスト盤は現在も入手可能。
躍動感あふれる「tu m'as trop menti」は、60年代にトリップした雰囲気が味わえる大好きな曲!イェイェを代表する名曲だと私は思っている。




Complete Sixties
Complete Sixties
posted with amazlet at 13.06.26
CHANTAL GOYA
Magic Records (2008-06-03)

2013-06-22

サントラはお好き?(2)『男と女』音楽:フランシス・レイ、ピエール・バルー


それまで無名であったクロード・ルルーシュが10人足らずのスタッフと、わずか三週間で作り上げた『男と女』(1966年・フランス)は数々の映画賞に輝き、フランシス・レイ作曲による「ダバダバダ〜」の主題歌でも有名。ダバダバ・スキャットとフランス語の響きが醸し出す物憂い雰囲気は、数多ある恋愛映画とは一線を画すように思う。

初めて観たのは二十代前半のとき。知的で情熱的なレーサー、ジャン=ルイ・トランティニャンとギリシャ彫刻のような絶世の美女、アヌーク・エーメのカップルが、ただただひたすらに眩しかった。降りしきる雨のなか、ワイパーが作動するガラス越しでの車内の会話シーンが目に焼き付いている。そして耐久レースの後、埃まみれになったボロボロの車で六千キロもの距離をぶっ飛ばしてアンヌのもとに駆けつけるジャン=ルイに惚れ惚れ。

そう、この映画は車が重要な脇役として物語を盛り上げるのだ。モンテカルロ・レースだとか(実際に登録して出場してしまう監督の心意気にも驚き!)フォードのプロト・タイプだとか言われても女の私にはまるでお手上げだけれど、なぜだかそのことがろくすっぽ理解できない男の世界を象徴しているようにも思えたのだった。

ある程度の歳を重ねてからでないと本当の意味でこの映画の惹き付ける魅力というものは分からないのかもしれない。しかしながらモノクロとセピアを織りまぜた小憎たらしい演出(ただ単に予算が足りなかっただけらしい)と、繰り返されるボサノヴァの甘いメロディーにのせて描かれる大人の男女の真理は、若い娘をも陶酔させるだけの説得力があった。そしてシンプルだけれど美しい、この映画のような男女の物語に憧れながらアンニュイな気分に浸りたいとき、背伸びして何度もこのサントラを聴いた。



思わず口ずさみたくなる「男と女のテーマ」を歌っているのは、共に監督の友人であるニコール・クロワジールとピエール・バルー。バルーは俳優としても出演していて、アンヌの亡き夫役(ブラジル音楽を愛するスタントマンという設定)で、ギターを弾きながら歌声を披露している。それもそのはず、彼は十代の頃に音楽活動をしながら各国を放浪し、ポルトガルで出会ったブラジル音楽に陶酔、のちに「Saravah」(サラヴァ)というレーベルを立ち上げ、数々の名盤をフランスから発信した人物だ。

バルーがフランス語で歌う「男と女のサンバ」もテーマ曲に劣らず素晴らしい!(原題は「samba saravah」)劇中ではアーティストのビデオクリップのような扱い方をされていて、当時はこれが画期的な手法だった。『男と女』は映像と音楽が総合芸術であることを再確認させてくれる映画であり、さらにブラジル音楽の素晴らしさも伝えてくれるのだ。



僕の幸せを求め 陽気に笑い 歌う/心ゆくまで味わう 人生の喜び/
哀愁のないサンバは 酔えない酒と同じ/そんなサンバは心に響かない/

哀愁のないサンバは まるで美しいだけの女/これはモライスの言葉/
詩人の外交官 この歌の作詞家/"黒い白人"と公言した男/
僕もブラジル風フランス人/恋のサンバを語る/
恋人に口も利けぬ男が 彼女を歌でたたえる/

こんなサンバに不快な人もいるだろう/困った流行だと嫌う者もいるだろう/
僕は世界中を巡り/放浪を重ねて捜し求める/
深い歓びを/サンバを踊り続けよう/

ジョアン・ジルベルト、カルロス・リラ、ドリバル、アントニオ・カルロス・ジョビン、モライス、バーデン・パウエル
この歌を始め 名曲の生みの親たち/敬意を表して 大いに飲もう/
いざ乾杯 偉大な作曲家たちよ/サンバの申し子 サラヴァ!

ピシンギーニャ、ローザ、D・デュラン、シルビオ・モンテロ
そしてエドゥ・ロボと/ここにいる友人に乾杯/
バーデン、イコ、オズワルド、ルイジ、オスカル、ニコリノ、ミルトン
サラヴァ!

その名を聞くだけで 僕は身が震える/感動を呼ぶ数々の名/
サンバをたたえよう

バヒアの港から生まれた このリズムと詩/
サンバを踊り 苦しみを忘れた日々/
万感の思いを込めた歌
その言葉は白人のものでも
これは黒人の魂を/万感の思いを込めた歌
その言葉は白人のものでも
これは黒人の魂を/万感の思いを込めた歌
—『男と女』より



「サラヴァ」とはポルトガル語で、"神の祝福があるように"という意味。この曲には元々、「イパネマの娘」で知られる詩人ヴィニシウス・ヂ・モライスによるポルトガル語の歌詞があり、バルーはフランス語版を作詞した。バルーの歌詞にはボサノヴァの生みの親である音楽家たちの名前が列挙されていて、次から次と歌われる名前を聴いているだけでも楽しい!フレンチ・ボッサの先駆けともいうべき名曲であろう。




男と女 オリジナル・サウンドトラック
サントラ ピエール・バルー ニコル・クロワジーユ
オーマガトキ (2004-12-01)

2013-06-21

サントラはお好き?(1)『ロシュフォールの恋人たち』音楽:ミシェル・ルグラン


フランス映画のサントラといえば、このお洒落なピンクのジャケットが真っ先に思い浮かぶ。おそらくフランス、60年代のポップ・カルチャーが大好きな人間にとって、このサントラはもはやマストアイテムというか、これ知らんならモォ出直して来い!って息巻いて突っ込まれることは確実であろう(かく言う私もあまり偉そうなことを書ける資格は毛頭ないのだが)




フレンチ・ミュージカルの至宝、ジャック・ドゥミ監督の『ロシュフォールの恋人たち』(1967年)はどうしても要所要所で突っ込みたくなるけれど、それゆえに大好きな映画。ミシェル・ルグランのスコアも本当に素晴らしい!映画の中身よりもルグランの音楽、特に「キャラバンの到着」はよく知られている。もうだいぶ前になると思うけれど、車のCMにも使われていた。私はそちらを聴いてからの鑑賞だったので、映画が始まって間もなく思いもよらず流れてきた「キャラバンの到着」に驚いて、食い入るようにダンスシーンを見つめたのを覚えている。



ドヌーヴとドルレアックの美しい姉妹が現われると、ファッション、小物、画面を彩るパステルカラーのポップな色使い、すべて可愛いらしくて夢のような気分だった。そして、この映画のハイライトシーンとも言える姉妹のデュエット「双子姉妹の歌」を聴いてさらに胸が躍るような想いになった。どこで耳にしたのかははっきりと記憶にないのだけれど、私は「双子姉妹の歌」も知っていたようなのだ。「ミファソラ〜ミレ」と音階をそのまま歌ってしまう箇所にあまりにも自然に同調してしまい、涙が出そうになった。そして迷わず、サントラ買う〜!となったのだった。



現在は二枚組の完全版もCDで出ているのだけれど、ジャケットはオリジナルのアナログ盤と同じピンクのデザインのほうが断然!可愛い。実は中高生の頃ポストカードを集めていて、このジャケットとまったく同じポストカードを持っていた。とてもお気に入りで部屋の壁に貼っていて、当時はそれが『ロシュフォールの恋人たち』という映画のものだとは知らなかったし、数年後にスクリーンでポストカードの中の二人の女性に出会うとは思ってもみなかった。このジャケットにはそんな不思議な思い出がある。



ロシュフォールの恋人たち ― オリジナル・サウンドトラック (LES DEMOISELLES DE ROCHEFORT)
ミシェル・ルグラン サントラ
ユニバーサル インターナショナル (2002-05-02)

2013-06-18

ゴダールによる言葉をめぐる冒険と愛の物語、『アルファヴィル』(1965年)


おびただしいほどの言葉の氾濫。まずそのことに圧倒され、一度観ただけではこの映画の力のなんたるかを理解することは難しい。物語自体はそれほど複雑なものではないように思う。すべてをコンピュータで管理し、人々の感情を統制する銀河系の都市アルファヴィル。アルファヴィルの中心である巨大な電子指令機「α60」を操るフォン・ブラウン教授は悪であり、その娘ナターシャは「α60」の魔法にかけられたお姫様であり、ジョンソンは眠り姫を救うため悪と闘う王子様のようだ。

そんなありふれた童話を連想させる物語は言葉で埋め尽くされる。アルファヴィルの実態は言葉(音声)で説明され、くぐもるような不快な声で洪水のように流れていく。言葉(音声)はこの映画を構成するもっとも重要な要素であり、むしろ言葉が主役であると断言してもよいだろう。



しかしそれを嘲笑するかのように、この映画に描かれるアルファヴィルの人間には言葉の意味は知覚されない。アルファヴィルに暮らす人々は「α60」の命令のままに行動し、外部の国のことを考えるのは禁止されている。ホテルに到着したジョンソンは、そこで出会うすべての人間と会話が成り立たないことに唖然とするのだった。

アルファヴィルの人間が出会ってすぐに口にする「元気です、ありがとう、どうぞ」という言葉、これは「こんにちは、元気?」「ありがとう、元気だよ、あなたは?」という一連の挨拶を端折ったものだと考えることができるだろう。そしてこの台詞は「α60」による言葉の合理化の象徴とも言うべき重要なキーワードだ。

ジョンソンが跡を追って来た仲間のアンリは「why」という単語の意味がわからない。彼は次第に言葉を忘れている。こうしてさまざまな単語と表現は「α60」によって新たな意味へとすり替えられ、人々はコントロールされていく。



この映画は言葉をめぐる哲学であると同時に、過去と未来の物語である。そのことは劇中でも説明される。《人々は未来よりも過去のことを考えすぎるが、その過去を振り返るという行為こそ「α60」に対して効力を持つ》というのである。

アルファヴィルの住人にとって過去を振り返るということは涙を流すことであり、愛情を取り戻すということだ。ナターシャが「愛しています」という言葉を発して解放されるというのはいかにも!という感じで若干しらけてしまうが、愛情で「α60」を破壊するという発想もゴダールらしいといえばゴダールらしいテーマである思う。

そこで私の興味をもっとも引いたのは、この映画が過去と未来の物語とされていることだ。過去とは、未来とは、いつの時代を指すのだろうか?この映画が製作された1965年を現在と考えれば、コンピュータに管理された世界というのはそう遠い未来の出来事ではないはずだ。人間がコンピュータ(機械)に支配されるという構図はすでに数十年も前からさまざまな芸術で取り上げられてきたテーマであり、特に珍しいものではない。にもかかわらずこの映画には真新しさ(それこそがゴダール映画の精髄とでもいうべきか?)のようなものが感じられるのだ。



面白いのはアルファヴィルの住人に関する部分である。もっともらしい説明はアルファヴィルでは芸術家が排除されるという点だ。「150光年前の社会には小説家や音楽家がいたはずだがアルファヴィルにはまったくいない」という台詞が出てくる。芸術家は変なものを書くからという理由でアルファヴィルでは消されてしまうのだという。

おそらくゴダールはこの映画を撮った時点で、自身ないし映画界を取り巻く環境に何か違和感や危機感のようなものを抱いていたのではないだろうか。ゴダール自身の抱える苛立ちや苦悩、映画人として生きることへのしがらみや葛藤、娯楽ではないなにかというスタイルの映画を撮り続けるゴダールに対する風当たりの強さというものを想像せずにはいられない。そのような居心地の悪さを感じつつ、ゴダールは近い将来、芸術、大胆にいえば映画そのものはもはや取るに足らないものと見なされ、見向きもされなくなるだろうと予見しているのではないか?



さらに興味深いのは音と光の祭典といわれるショーである。アルファヴィルでは非理論的な行動をとった人間は非適応者とみなされ公開処刑される。具体的に紹介されるのは奥さんが死んだ時に泣いたという理由で殺される男だ。そこで語られるのはアルファヴィルに暮らす男女の比率が1:50という事実である。

アルファヴィルでは女性は生き残り男性は適応できずに死んで行く。アルファヴィルという未来都市は、女性によって創造されるひとつの階級社会ととらえることができるのだ。1965年はウーマンリヴがさかんに叫ばれ始めた時期であるから、そのような背景から生まれた発想なのだろうという見方もあながち間違いではないかもしれない。



この映画のダイナミズムを体験することはある種の苦行のようでもあり、幸福でもあり、まさにゴダール的な映画といった感じだが、それゆえ実験的な映画と捉えることもできるだろう。銀河系という言葉から単純にSF映画を連想するが、はっきり言って科学とはあまり関係がない。ゴダールによる言葉をめぐる冒険と愛の物語。そう考えるとしっくりくるのではないだろうか。

それにしても、この映画のシックなワンピース姿のアンナ・カリーナはいつも以上に魅力的、です。




アルファヴィル
製作年:1965年 製作国:フランス=イタリア 時間:100分
原題:ALPHAVILLE, Une Etranfe Aventure De Lemmy Caution
監督:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウル・クタール
出演:エディ・コンスタンティーヌ,アンナ・カリーナ,エイキム・タミロフ,ハワード・ヴァーノン,ラズロ・サボ,クリスタ・ラング


アルファヴィル [DVD]
アルファヴィル [DVD]
posted with amazlet at 13.06.18
アイ・ヴィ・シー (2005-08-26)

2013-06-13

フランス映画のイメージを覆した、『ディーバ』(1981年・フランス)


中学の頃、友人たちとフランスの恋愛映画のビデオを観た。今になって考えると、フランスの映画であることを意識して観た作品はその時が初めてだったかもしれない。友人の家で開かれた鑑賞会で、自由奔放で大胆で強烈な個性のヒロインにげんなりし、早々にリタイアしてしまった私は(おそらく)コタツの上に散らばったお菓子でもつまみながら退屈な2時間をやり過ごしたのだろう。パステル調のポップな色彩の中で呼吸する美男美女の二人は紆余曲折ありながらも幸せそうに見えたが、画面を覆っている雰囲気はどこか悲しいほど重苦しく陰鬱で、救いのない物語のように思えた。

映画館もない田舎の小娘たちが挙って賛美していたその映画とは、ジャン=ジャック・ベネックスの『ベティー・ブルー』(1986年)だった。監督の名前などまるで知らなかったし気にも留めなかったけれど、フランス映画に対するどちらかといえば否定的なイメージとしてその後もずっと私はこの作品を鮮明に記憶していたのだから、『ベティー・ブルー』がポルノ映画と言われようが並々ならぬエネルギーを持った映画であることは間違いないようだ。フランス映画は辛いというあまりにも偏狭な思い込みを抱いてしまった事実は取り消せないけれど。

20代になって色んなジャンルのフランス映画を観るようになっても、『ベティー・ブルー』の印象は強烈でずっと引きずっていたように思う。たとえ恋愛映画でなくても、ヨーロッパの映画はやはりどこか鬱々としていて難解、というイメージはいつも頭の端にあった。けれどある日、そのイメージを完全に打ち破る一本の映画に出会った。その作品がフランス映画であることに本当に驚いたし、出会えたことに歓喜した。ヌーヴェル・ヴァーグの作家を彷彿させる、あまりにもフランス的な色彩感覚で捉えられた映像のなかにサスペンスとアクションとロマンスのエンターテインメント性を備え、徹底して練られたであろう愛すべきキャラクターたち、素晴らしく典雅な音楽に一気に引き込まれ夢中になった。それはジャン=ジャック・ベネックスの処女作『ディーバ』(1981年)だった。なんということだろう!私を『ベティー・ブルー』の呪縛(!)から解き放ってくれたのは、他でもない『ベティー・ブルー』を撮った張本人、ベネックスの映画だったのだ。



郵便配達員のジュール青年は、オペラおたくでオーディオマニア。ある日、大ファンである黒人オペラ歌手シンシア・ホーキンスのパリ公演に高性能のレコーダーを持ち込み、こっそり録音して自宅に帰るとその美しい歌声に涙を流していた。シンシアはキャリアの絶頂にありながらもレコーディングを拒み続けるディーバ(歌姫)であったため、彼女の歌声はコンサートでしか聴くことができない。ジュールが隠れて録音した歌声はこの世に存在する唯一のテープなのだ。このテープが原因で2人組の業者に狙われるジュール。さらには身に覚えのない不可解な事件に巻き込まれ、ギャングと警察にも追われてしまう。レコード屋で出会ったベトナム人の少女と彼女と暮らしている謎の男の助けを借りながらジュールはパリの街を逃げ回る。



青いフィルターを通して覗いたような朝靄のパリ、夜の街を疾走するジュールのバイクとジャケットの赤、メトロの壁も真っ赤だ。ベネックスの映画は配色が、特に青の使い方が本当に美しい。それは『ベティー・ブルー』でも感じたことだった。倉庫を改造したロフトに転がるスクラップされた車、壁と床一面に描かれた不気味なイラスト、ベネックスの手にかかればあまりにも異空間でガラクタにまみれたようなジュールの部屋もなぜだかとてもスタイリッシュで、独特の色使いは一度観たら忘れることができない。ミニバイクとクラシックカーを使用した疾走感のある映像も、サスペンスフルで気の抜けない物語を支えるのに一役買っている。

しかし登場するのは映像の美しさを強調するような美男美女ではなく、まるで漫画に描かれるような強烈なキャラクターばかり。主役をかすめてしまうほど脇役の存在感が濃い。万引きばかりしているベトナム人の女の子、波を止める夢を見ながら悟りの境地にいるというゴロディシュという謎の男、黒いサングラスにスーツ姿の2人組ビジネスマン、くしゃっとした個性的な顔でいつもイヤホンをつけているスキンヘッドのギャング。芸術を愛する純情なジュールはナイーヴな印象の顔立ちでありながら、おっとりした雰囲気もする美形の青年(アルフレッド・アンドレイ)。現在は監督業をしているようで、『ディーバ』以降ほとんど出演作がないのが非常に残念。



ベネックスはこの作品のなかで、シンシアに自らの信念を重ね合わせていると思われる台詞を言わせている。「商業が芸術に合わせるべきで、その反対はない」のだと。まるで作家主義を掲げたヌーヴェル・ヴァーグの監督のような気概だが、実のところ『ディーバ』は商業主義の否定とはまるで正反対のベクトルを持った映画であり、おそらくひたすら娯楽映画に邁進しようという姿勢のもとで作られた映画だ。

どんな芸術であれ作家至上主義の時代はとうに終わりを告げ、監督の一存で映画を制作するなど夢物語にすぎない。しかし面白ければどんな内容でも良いという意識のもと、CG技術を駆使した映画をバンバン作り続けるハリウッドに対し、かつてヌーヴェル・ヴァーグの作家たちが世界中を沸かせたフランス映画の人気は70年代に入って低迷し続けていた。ベネックスが用いたシンシアの台詞は、もはや商業主義に陥ってしまったハリウッドへのアンチテーゼであるとともに、しかし商業と芸術が互いに歩み寄らねばならない時代が来たことを示唆したものだろう。シンシアは言う「歌いたくて歌うが、そのためには聴いてくれる人が必要だ」と。そしてシンシアの前に自分を女神のように崇拝し芸術を愛するジュールが現れたとき、シンシアは歌を本物の芸術と理解してくれる人の存在に気付き、これまで貫いて来た信念は崩れてしまうのだ。

録音したテープを流しながら、盗んだドレスを胸に抱いて涙を流すジュール。私がもっとも好きなシーンだ。この映画はかつてジュール青年であったベネックスから、純粋に芸術を愛する現在のジュールたち(観客)への贈り物なのだ。そして、あの時代だからこそ通じる力強いメッセージと、ベネックスの信条が込められた偉大な処女作であるのだろう。



ディーバ
製作年:1981年 製作国:フランス 時間:118分
原題:DIVA
監督:ジャン=ジャック・ベネックス
出演:ウィルヘルメニア・フェルナンデス,フレデリック・アンドレイ,リシャール・ボーランジェ,チュイ・アン・リュー,アニー・ロマン


2013-01-20

『勝手にしやがれ』のファム・アンファンなパトリシア、縞模様ファッションのジーン・セバーグ


—ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン!


シャンゼリゼのど真ん中で大声を上げながら新聞を立ち売りするアメリカ娘のパトリシア。『勝手にしやがれ』(ジャン=リュック・ゴダール、1959年)の、そしてヌーヴェル・ヴァーグの象徴としても有名なこのシーンで、ヒロインのパトリシアを演じたジーン・セバーグはなんともファム・アンファン(少年のような魅力を持った女性)な出立ちで登場している。新聞社のロゴの入ったぴったりとしたTシャツにサブリナパンツ、足元はぺったんこシューズ、小さな巾着のバッグを持ち、髪型は超ショートのセシルカットだ。

この作品は今観るとお洒落でファッショナブルな映画、ぐらいに捉えられるのが一般的だと思うのだが、ジーン・セバーグのファッションは、実は当時のパリの流行でもなんでもない。フランス人が抱いていた、性に対して解放的だというアメリカのヤンキー娘のイメージを反映させたファッションにすぎないのだというから驚きだ。Tシャツ姿のセバーグに向かって「ブラジャーつけてねぇのか?」と言うベルモンドの台詞からもそのような意味が汲み取れるかもしれないが、当時の日本人ももちろんパリの最先端のファッションと受け取っていたようだ。

オードリー・ヘプバーンの影響でサブリナパンツが爆発的な人気を誇ったのが1954年以降だから、この映画の公開が1960年ということを考えるとパンツスタイルはすでに定番のファッションであったのだろうと推測されるが、もの凄いラフな恰好のようにも感じられる。そしてセバーグの持つ中性性を際立たせているのは、なんといってもモンチッチばりのセシルカットであろう。



パリの(というかこの映画の)イメージが強すぎて、私自身いまだにセバーグがバリバリのハリウッド女優ということを忘れてしまうのだが、スウェーデン系アメリカ人の娘としてアイオワ州に生まれたジーン・セバーグは、もともとロングヘアの美少女であった。17歳のときに1万8千人の中からオットー・プレミンジャー監督の『聖女ジャンヌ・ダーク』の主役に抜擢されてデビューするが、このときジャンヌ・ダルクを演じる為にばっさりと髪を切っている。この作品は興行的にもふるわず、プレミンジャーはセバーグの演技に不満を爆発させまくっていたそうだ。

にもかかわらず、プレミンジャーはベストセラー小説『悲しみよこんにちは』を映画化するにあたり再びセバーグに主役を与えた。フランスの小説をハリウッド映画へと作り変え、主人公のセシルを文学好きな夢想家の少女から活発なブルジョワ娘へと大幅に変更、そしてセバーグをジャンヌ・ダルクと同じ少年のような短髪で出演させたのだった。セバーグの容姿が放つ溌剌とした健康的な明るさと、それとは対照的な思春期特有の不安定な脆さがうまく描かれた映画であるが、こちらも興行的には失敗している。しかし斬新なセバーグの髪型はセシルカットと名付けられ、世界中で大評判となったのだった。



『勝手にしやがれ』を撮影する際、ゴダールはセバーグに対し、「君は2年後のセシルということでいい」と伝えた。ゴダールの要望通りセシルカットで登場したセバーグは、終始ファム・アンファンな魅力を振りまいている。ゴダールは俳優の見せ方、とりわけ女優の魅力を引き出すことにかけてもかなりの名手である。アンナ・カリーナを筆頭に、この映画のベルモンドもそうだが、無名の俳優を一気にスターの座へと導いた。ジーン・セバーグも例外ではないだろう。プレミンジャーによって引き出されたセバーグのキャラクターを踏襲させたのは、おそらくゴダールにとってセバーグの子供っぽいユニセックスな雰囲気そのものが、インスピレーションの源になっていたからに違いない。ルノワールの少女像の横にセバーグを立たせた演出からもわかるように、この映画でゴダールはセバーグの美しさに対して溢れんばかりの賛辞を並べ上げている。

とはいえ、当時のフランス人が想い描いていたステレオタイプの開放的なアメリカ娘であるパトリシアは、子供っぽいようでいて本心は決して明かさず、狡賢いようなところもあり、なかなか掴みどころのない女性である。ベルモンドに「とびきりの美人というわけではないが、20点満点中15点といった感じの個性的な女」「ちょっと変わった女」と言わせていることからもパトリアがパリの女とはまるで違っていることがうかがえるのだが、パトリシアはパトリシアで一言目にはフランス人への不満を漏らし、「パリっ子のスカートってダサイ」と平然と言ってのける。パリがモードの中心であるという世界的な常識を考えれば、これはおそるべき台詞である。



パトリシアはどちらかというとファッションにはあまり興味がない女性のように描かれている。とりわけパリの流行にはまるで感心がない。パトリシアの目下の希望はアルバイト先の新聞社で記事を書かせてもらうことだ。パトリシアの部屋で繰り広げられる会話のシーンからパトリシアの興味の対象が明らかになる。絵画、クラシック、とりわけ文学への憧れが顕著なようだ。

それでも、パトリシアのファッションの趣味がおもしろいほど一貫していることには誰もが気付かずにはいられないだろう。パトリシアはいつも縞模様の洋服ばかり着ているのである。シャツもワンピースもタンクトップも、パトリシアの部屋で待ち伏せているベルモンドが着ているバスローブにいたるまで、なにもかもが縞模様なのだ。おまけにパトリシアがパジャマ代わりに着ているベルモンドのYシャツも縞模様ときている。



『勝手にしやがれ』が公開された当時のショックはいかなる手を使ってももはや体感することができない。どんなに強く望んでも、繰り返しビデオを観ながら想像することしか、誰かの記憶を掘り起こしてまとめられた書物から知り得ることしかできない。それがいまさら何になろう?と否定的に考えることもあるけれど、私はいつものように再生ボタンを押してしまう。

ヌーヴェル・ヴァーグの神話に生きるジーン・セバーグ。鏡のなかの、しかめっ面の彼女は今日も私をほんのすこし切なくさせるのだ。



勝手にしやがれ
製作年:1959年 製作国:フランス 時間:90分
原題:À bout de souffle
監督:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウル・クタール
脚本:フランソワ・トリュフォー
出演:ジャン=ポール・ベルモンド,ジーン・セバーグ,ジャン=ピエール・メルヴィル



ジーン・セバーグ
ジーン・セバーグ
posted with amazlet at 13.06.28
ギャリー マッギー
水声社

勝手にしやがれ [DVD]
勝手にしやがれ [DVD]
posted with amazlet at 13.01.20
ジェネオン・ユニバーサル (2012-04-13)



2012-04-10

ひとりの女と大金をめぐる二人の男の物語、またの名を「はなれ一味」 ジャン=リュック・ゴダール『はなればなれに』(1964年・フランス)

トリュフォーの『突然炎のごとく』のもっとも印象的なシーンに、ヒロインのカトリーヌが「つむじ風」という仲間内で作ったシャンソンを披露する場面がある。このシーンに感動したゴダールはトリュフォーの『突然炎のごとく』に対する答えとして『気狂いピエロ』を撮った。ヒロインのアンナ・カリーナが湖を臨む林の中でジャン=ポール・ベルモンドと「私の運命線」を歌うシーンがそれである。

トリュフォーとゴダール、どちらの作品もとても美しいシーンなのでそれについてはまた後日紹介するとして、ゴダールもまた、ひとりの女と二人の男という組み合わせで『はなればなれに』(1964年・フランス)という映画を撮っている。トリュフォーのように複雑な恋愛模様を展開させた男女の物語ではないが、若い男女の青春の一コマに大金が絡んだ痛快コメディといった感じの、ゴダール作品のなかではもっともお茶目でノーテンキな映画と言えるかもしれない。

原作は女流作家ドロレス・ヒッチェンズが1958年に発表した『愚か者の黄金』という推理小説で、ゴダールはこの小説をトリュフォーに薦められて読んだそうである。小説の舞台はロサンジェルスとその郊外だが、映画の舞台はパリとパリ郊外に、小説では数ヶ月の物語も映画では三日に集約されている。どこかロマンチックな香りのする第三者によるナレーションはゴダール本人によるもので、音楽は『女は女である』『女と男のいる舗道』に引き続き、ミシェル・ルグランが担当している。映画の冒頭で「ミシェル・ルグラン最後の?映画音楽」というクレジットがなされ、ギャグなのか予告なのかその狙いは定かではないが、ゴダールとルグランのコンビによる仕事は長編映画ではこれが最後となった。





『Bande à Part』という原題は「はぐれ軍団」とか「はぐれ一味」といった意味で、日本ではおなじみのズッコケ三人組、おとぼけ三人組といった呼び名がしっくりくるように思う。ひとりの女をめぐる二人の男という側面からこの映画を説明してみると、二人の男、フランツとアルチュールはともに犯罪小説マニアで、時間はたっぷりあるけれど金はない。二人はフランツが英語学校で知り合ったオディールという娘の叔母の屋敷にある大金を強奪する計画を立てる。フランツは美男子だがどこか向こう見ずな性格でいつも冷静だ。オディールからは「暗い」と言われている。一方アルチュールは短気で乱暴でフランツとは真逆の性格のように見える。しかし二人が唐突にはじめるビリー・ザ・キッドごっこや闘牛士ごっこの息はぴったりだ。フランツとアルチュールはまるでコインの表と裏のようである。

ヒロインのオディールを演じるのはやはりアンナ・カリーナだ。オディールのキャラクターを一言でいいあらわすとしたら、可憐な不思議ちゃんということになるのだろうか。アルチュールの言葉を借りれば、可愛いが頭が弱いということになる。自転車で曲がるときには誰もいない小道ですら必ず馬鹿丁寧に手で方向指示を出し、不安げな表情で「なぜ?」と「わからない」ばかり言い、ゴダール映画のアンナ・カリーナにしては珍しくひたすら受け身なヒロインである。オディールはアルチュールに一目惚れするが、粗野なアルチュールに対して怯えているようにも見える。うっかり名前を忘れちゃったとも言っているし、そもそも本気でアルチュールに一目惚れしたのかも怪しいところである。しかしオディールは最終的に二人の計画に加担する。粗暴なアルチュールと優しいフランツのあいだで揺れながらオディールははてのない夢を見ているようだ。





そんなことを書いてみたものの、この映画の面白さは物語そのものにあるのではなく細部にあるのだ。さきほども書いたオディールの自転車の件もそうだし、フランツとアルチュールの西部劇のヒーローの真似事や、アメリカ人観光客のギネス記録に挑もうと三人でルーヴル美術館を激走するシーンも傑作だ。実際には館内を走ることは禁止されていて、このシーンは一発撮りで警備員が止めに入る姿もしっかりと映っている。カンヌで公開される直前の『シェルブールの雨傘』のテーマが流れたり、トリュフォーの『柔らかい肌』への目配せなど、ヌーヴェル・ヴァーグらしい遊び心に満ちているのがなんとも微笑ましい。

そしてこの映画の一番の見せ場は三人がカフェですごす一連のシーン。「一分間黙っていよう」という沈黙から始まって、三人でダンスを踊るシーンまでの語りと音楽とサウンドの使い方だけでもゴダールが並大抵の監督でないことがわかるでしょう。うまいねえとしか言いようがないわけですよ。一分間の沈黙のシーンというのはアントニオーニの『太陽はひとりぼっち』にも似たようなシーンがあるのだけれど、アントニオーニは静と動の対比という形で沈黙シーンを織り込んだ。しかしゴダールの沈黙は一分と経たないうちに「飽きたからやめようぜ」と言う。このただの遊びにしか見えないシーンをさらっとやってのけるのがゴダールで、結局のところやはりゴダールはすごいということになるのですが、この踊りのシーンはどの映画でも観たことがない。カフェのシーンだけでも観るに値する素晴らしい作品だと私は思います。ゴダールだけれど小難しいことは一切なし、気楽に観れるというのも良いですね。



はなればなれに
製作年:1964年 製作国:フランス 時間:96分
原題:Bande à Part
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原作:ドロレス・ヒッチェンズ「愚か者の黄金」
撮影:ラウル・クタール
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:アンナ・カリーナ、サミー・フレイ、クロード・ブラッスール



はなればなれに [DVD]
はなればなれに [DVD]
posted with amazlet at 12.04.10
紀伊國屋書店 (2001-12-22)

2012-04-09

ひとりの女をめぐる二人の男の物語、もしくは純愛の三角関係 フランソワ・トリュフォー『突然炎のごとく』(1961年・フランス)


『突然炎のごとく—ジュールとジム』という映画の構想は、長編デビュー作『大人は判ってくれない』を撮るかなり前の時期からトリュフォーの頭の中にあったという。トリュフォーは映画批評を書きはじめた21歳のときに映画の原作となるアンリ=ピエール・ロシェという老作家の小説に出会い、いつか映画を作れるようになったとしたらこの小説を映画化したいと考えたそうである。この夢が実現されるまでには十年近くの歳月が費やされることになったが、長編映画を撮る機会にめぐまれたトリュフォーは、ひとまず『大人は判ってくれない』と『ピアニストを撃て』の二作品を習作のつもりで撮ったあと、大ファンであったアンリ=ピエール・ロシェの小説を映画化したのである。トリュフォーは三作目にしてやっと自分らしい恋愛映画を撮ることができたのだ。

アンリ=ピエール・ロシェが生涯に発表した小説はわずか二作で、1953年に74歳で処女作『ジュールとジム』を発表し、続けて『二人の英国女性と大陸』という小説を発表している。このふたつの小説は作者であるロシェ自身の人生と女たちの物語で、登場人物はすべて実在し、20世紀初頭のミュンヘン、パリ、ベルリンが舞台になっている。どちらの小説もトリュフォーが映画化した。『二人の英国女性と大陸』という小説は1971年に『恋のエチュード』というタイトルで映画化された(この映画についても後日募る想いを書きたいと思っています。)若きトリュフォーは老作家と文通し、小説の感想や映画化のアイディアをやりとりしていたのだが『突然炎のごとく』の映画化が決まってすぐにロシェは亡くなっている。



ひとりの女性をめぐる二人の男の物語という設定から、二人の男の対比が自ずと浮かび上がってくるが、この映画のテーマはジュールとジムという二人の男の対比を描くことではないように思う。ジュールとジム、そしてカトリーヌを中心とした三人の物語であることに間違いないが、一にも二にもカトリーヌの物語という印象の映画ではある。しかし語り手はジュールということになっていて、ならばジュールの物語であるかといえば必ずしもそうとは言い切れない部分があるし、なんといっても驚かされるのが、私はこの映画をこれまでに5回ほど観ているのだけれど、そのつど自己投影する人物が変わるのである。初めて見た時は同じ女性ということも手伝って強烈な個性をもった感情的なカトリーヌに、あらためて冷静に観ることのできた二度目の鑑賞はジムに、三度目になってもっとも理性的なキャラクターのジュールに、という感じで知らず知らずのうちに気付けば三人それぞれの立場でこの物語を見渡していた、というとても不思議な映画である。

ヒロインのカトリーヌは感情的で衝動的、わかりやすい言葉を借りれば自由奔放な女性として描かれている。カトリーヌのモデルは原作ではナボコフの『ロリータ』をドイツ語に翻訳したとして知られるヘレン・ヘッセルという女性ということになっているが、映画のなかでジャンヌ・モローが演じるカトリーヌはロシェの小説や日記に登場するさまざまな女性を綜合して作り上げられたキャラクターであり、非常に魅力的だ。カトリーヌはジュールと結婚するが同時にジムも愛し、他の男とも関係を持つ。そんなカトリーヌをジュールは許し、彼女のそばにいられることが自分の幸せだと確信し、それを実現させるためであればどんな苦労も惜しまない。カトリーヌが誰と寝てもかまわないし、ジムと結婚すると言い出してもかまわないのだ。



ジュールは基本的には理性的な男である。無条件でカトリーヌを愛し、ジュールにも絶対的な信頼を寄せている。ジュールとジムの友情というのは文学への愛情によって結ばれている。二人とも文学青年であるから互いに情緒的ではあるのだろう。ジムはカトリーヌを愛しながらも昔の恋人とのあいだをふらふらと行ったり来たりして、ジュールに比べるとどちらかと言えば感情に流されやすい。そういう点でカトリーヌとジムは似ているのかもしれない。

しかしカトリーヌとジムの恋愛感情が決定的に違うのは、カトリーヌと昔の恋人のあいだを右往左往するジムに対して、カトリーヌは目の前にいる相手だけを瞬間的に愛することができるという点である。カトリーヌの感情はジュールとジムのあいだで揺れ動くことはない。ジュールと一緒にいる時は彼を愛し、ジムが目の前に現れるとそこにいるジムだけを愛するからだ。それは『突然炎のごとく』というタイトルそのままに、突如として沸き上がる感情なのだ。

もしカトリーヌが同時に何人もの男性を愛するこができる女ならば、不倫という形で多くの男と関係を持ったとしてフローベールの『ボヴァリー夫人』のように描かれるだろう。そのように考えてみるとカトリーヌは実に律儀な女性なのである。解放的であるがゆえにジュールとジムという二人の男を裏切るような真似はしない。ジュールとジムの関係もカトリーヌが引き金となって壊れるようなことは決してない。この映画を面白くしているのはそのようなカトリーヌのキャラクターと、多くの恋愛映画とは一線を画した揺るぎない三角関係の描かれ方にあるのだろう。そんなことをあれこれ書いてみてもこの作品を前にしてみればすべて無駄である。この映画はもはや男と女の神話なのである。



突然炎のごとく
製作年:1961年 製作国:フランス 時間:107分
原題:Jule et Jim
原作:アンリ=ピエール・ロシェ
監督:フランソワ・トリュフォー
出演:ジャンヌ・モロー、オスカー・ウェルナー、アンリ・セール、マリー・デュボワ、ヴァナ・ユルビノ、サビーヌ・オードパン、ミシェル・シュポール



フランソワ・トリュフォーDVD-BOX「14の恋の物語」[III]
角川エンタテインメント (2009-03-27)

2012-03-05

ゴミ散らかったパリの魔法、ジャック・リヴェット傑作選『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(1974年・フランス)

いきなり脱線するが、ものすごい映画に出会ってしまった時の感激というのは言葉にするのは難しい。もちろんここでいう、ものすごい映画とはほとんど個人的な感性や主観に左右される題材を扱った作品のことだけれど、ようするに好みの問題ということなのだが、わたしのなかでジャック・リヴェットという監督の作品はどれも(といいながら全作品を観たわけではないのだけれど)、昨日書いたジャック・タチの『ぼくの伯父さん』に匹敵するほど摩訶不思議で幸福な映画体験をもたらしてくれる。


ジャック・リヴェット傑作選という3枚組のDVDがあって、現在は廃盤になっていて通常価格の2倍ほどの値段がついているのだが、私はこの三つの作品を近所のTSUTAYAで、もはや購入したほうが賢明かもしれないと思いながらもしつこく幾度となく借りていたのだが、あるとき気付いたらいつのまにか棚から消えてしまっていて、それ以来観ることができないでいる。ある日なにかの拍子に無性に観たくなる映画というのが必ずあって、そういう映画というのは、面白いのだけれどはっきり言ってわけがわからないものが多い。どこが面白いのかと聞かれると答えに困るのだが、本人もよくわからないのだけれど面白いのである。映画というものは、もちろん小説だって音楽だってそうだが、二度と同じものは観られない。観るたびに以前には気付かなかった発見がなにかしらあるからだ。その時の体調や気分によってもまるで違うものに感じられることがある。いつ観ても面白い映画というのはそういうもので、面白い映画は何度観ても面白いのである。ジャック・リヴェットの映画とはまさにそのような類いの映画である。



ジャック・リヴェットの作品は時代こそ異なるがその舞台はほとんどパリである。しかしリヴェットの撮るパリというのは日本人がフランス・パリに抱いているような「洗練された」「お洒落な」というイメージとはまるでかけ離れている。この『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(1974年)や、同じくジャック・リヴェット傑作選に収録されているビュル・オジエ親子が共演した『北の橋』(1981年)、舞台俳優志望の若者たちを主人公にした『彼女たちの舞台』(1988年)もパリが舞台になっているが、通りを彩るカフェとかまばゆい光に取り囲まれた建築物といった観光パンフレットに見るような美しい風景は登場しない。おまけにパリの空はいつもどんよりと曇って灰色だ。しかしリヴェット映画のパリはごみ散らかっていようが建設現場だろうがとても魅力的なのだ。もちろんそこに付属する登場人物たちの魅力というのがパリの街を魅惑的に見せる要因のひとつなのかもしれないが、リヴェットの作品に出てくる街こそが本来のパリの姿なのだろうという感じがする。そして、長回しのスタイルで捉えた風景をバックに繰り広げられる即興演出の面白さがわたしをいつも夢中にさせる。上の動画は『北の橋』のもっとも象徴的なシーン。



「たいていの場合 物語はこんな風に始まった」という字幕からはじまる『セリーヌとジュリーは舟でゆく』の冒頭は、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』のパロディになっている。公園のベンチで魔法の本を読んでいる図書館員のジュリーの前を、派手な緑色のボアを首に巻き、肩から荷物の入った大きな袋を下げた女(セリーヌ)が慌てたように駆けて行く。セリーヌは大きな袋からサングラスを落とし、続けてスカーフを落とし、ひとやすみしたベンチに人形を置いて逃げ去って行く。ジュリーはセリーヌの落とし物を拾いながら追跡を始めるが、セリーヌは追いかけるジュリーの存在に気付いていながらも大胆な行動をとる。ジュリーもまたセリーヌに気付かれていると分かりながらもこっそりと隠れたふりをしてみせる。まるで追跡ごっこを楽しむような彼女たちの表情を見ていると、てっきり赤の他人とばかり思っていた二人の関係性が非常に気になりだしてくる。しかし二人は「他人か?友人か?」という目で物語を追いかけてみても、どうやらそうでもないらしい。追跡ごっこのはてにセリーヌはある建物に入り、宿泊カードを書くよう求められる。彼女はそこで職業の欄に「魔術師」と書く。われわれはそこで魔法の本を片手に呪文を唱えていた冒頭のジュリーを思い出し、奇妙な追跡ごっこはセリーヌの職業が魔術師であることに関係があるのだろうと予想する。しかしシーンが変わってもこうした私たちの疑問は一切説明されないまま物語は進んでしまう。ちなみにこの台詞のない導入部だけで30分近い時間を消費しており、はっきり言って退屈である。しかしこの何も起こらない退屈な感じをやりすごせる人間だけがリヴェットの魔法にかかることができるのである。



この作品はストーリーがあってないようなもので、結末もあってないようなものである。物語として成り立たない映画というのはとにかく前衛的でこれまでにない面白いこと、かっこいいことをやってやろうという気迫が伝わってくるような、人間味に欠けた嫌らしい印象のものが多い。けれどこの映画は私たちの生きるごく普通の生活の延長上にあらわれた物語である。あるときは立ち止まり、道を踏み外したり、堂々巡りな日常からふらりと脇道に入って行くと、この映画のような夢物語にばったりと出くわしてしまいそうな、そんな予感を抱かせる物語なのだ。空想か現実かわからない世界を主人公が行ったり来たりするという話はさほど珍しいものではないけれど、この映画は空想と現実を区別して考えるような謎解きを最初から必要としていない。

記憶鑑賞会のできるキャンディや、四大(水、空気、地、火)で作った魔法の薬、魔除けの恐竜の眼といった子どもじみた装置が空想と現実をつなぐ役割として登場するが、それらもまた現実の中に取り込まれた夢物語の一部でしかない。こうした夢物語の装置がさらに夢物語な出来事を呼び起こすこの物語は、基本的に「空想/空想」の二重構造から成り立っている。もちろん現実がなければ空想世界も存在しないわけだが、この映画を観ていると現実が空想を作り出すのではなく、「空想/空想」の二重構造、もしくは空想の連鎖によって現実が見えてきたり、われわれの意識が元の場所に戻ってくるというような不思議な感覚になってくる。

こういう物語を何をすることもなくだらだらと眺めていられたら最高に幸せだろう。よくわからないが、そのよくわからない「謎」で三時間以上の映画を作ってしまうのだから、やはりこの作品には面白い以上のなにかがあるのだと思う。私はそれが何であるのかを探し当てようとして、いつもこの映画を観ているのだ。上映時間が三時間を越える作品でありながらその長さを感じさせず、映画が終わってほしくない、いつまでもこの世界に留まっていたいと思わせるような不思議な魅力を持っている。それがジャック・リヴェットの、ごみ散らかったパリの魔法なのかもしれない。



セリーヌとジュリーは舟でゆく
製作年:1974年 製作国:フランス 時間:192分
原題:CELINE ET JULIE VONT EN BATEAU
監督:ジャック・リヴェット
出演:ジュリエット・ベルト、ドミニク・ラヴリエ、マリー=フランス・ピジェ、バルベ・シュローベル、ビュル・オジエ



ジャック・リヴェット傑作選DVD-BOX
コロムビアミュージックエンタテインメント (2006-09-02)

2012-03-04

わたしのもっとも好きなフランス映画、ジャック・タチ『ぼくの伯父さん』(1958年・フランス=イタリア)


思えば、フランス映画の魅力を教えてくれたのはジャック・タチ(1907-1982)だった。『ぼくの伯父さん』(1958年・フランス=イタリア)という作品に出会ったのは、たまたまつけていたBSのチャンネルで放送されているのをなんとなく眺めていただけのことだったのだが、それまでは単なる娯楽のひとつとばかりに思っていた映画に対する見方を、この映画は一晩にして変えてしまったのである。そこから始まる映画に寄り添った人生、といっても20代に入ってからのことだからだいぶ大袈裟なのだけれど、トリュフォーもゴダールもリヴェットもルイ・マルも大好きな監督だが、一番好きなフランス映画をひとつ挙げろと言われたら、やはりジャック・タチの『ぼくの伯父さん』がわたしの原点のように思う。


ジャック・タチ(Jacques Tati)は本名をジャック・タチシェフと言い、もとはロシアの貴族の出身である。パリ郊外に裕福な額縁職人の家に生まれたが、若い頃から父親の見習いをするもひそかに額縁職人以外の道を探していたようだ。兵役についたことが人間観察のきっかけとなり、またラグビーの選手でもあったタチは(やたらと体格も良い)、手始めにスポーツのパントマイムを仲間内で披露したところ、受けが良かったので本格的に舞台役者としてのキャリアを開始した。タチの舞台は人気を博したが、家柄を重んじる父親には勘当される。20代半ばのことであった。父親との確執もあり、タチシェフという独裁的な響きのする名前をタチは自ら切り捨てた。上の画像はABCシアターという劇場で舞台の成功をおさめていた1936年頃のタチ。「伯父さん」姿ではない若き日の貴重な写真である。30歳手前といったところ。


タチは生涯に5本の長編映画を撮っている。そう、たった5本しか撮っていないのだが、タチの作品は現在までに続くコメディ映画の体系の要となっている。タチ自ら演じる「ムッシュー・ユロ」というおとぼけで粋で愛嬌のあるキャラクターをスクリーンに登場させ、そのどれもが軽快な楽しさと夏休みの終わりを思わせるいくばくかの寂しさが入り混じった思い出のように、いつまでも記憶に残る素晴らしい映画なのだ。


ぼく(ジェラール)のお父さんはゴムホース会社の社長。郊外の一等地に超豪華でモダンな屋敷に住んでいて、門の開閉から庭の噴水、キッチンにいたるまですべてがオートメーション化されている。けれど、ぼくはこの家を窮屈に感じている。そんなぼくは下町に住む無職のユロ伯父さんと遊ぶのが大好き。しかし自由気ままなユロ伯父さんに対して、ぼくのお母さんはお見合いの世話をしたり、お父さんは就職させようとするのだった...


この『ぼくの伯父さん』の主人公もタチが演じるユロ氏である。この映画には何も大胆な特撮や派手なアクションがあるわけでもない。格別面白いストーリーが展開があるとも言い難い。庶民が住むパリの下町と、対照的な上流階級のモダンなオートメーション化された屋敷を舞台にタチのパントマイムがひたすら繰り広げられる。しかしそれを何ともなくぼんやりと眺めていたら、画面を右往左往するユロ氏の世界にいつのまにか引きずり込まれていたのだった。わたしはチャップリンも大好きなのだけれど、チャップリンが喜劇に風刺を盛り込んだドタバタの定義だとしたら、もちろんタチもそこから派生しているわけだが、チャップリンほどドリフターズ的な笑いにはならない。フランス人に大爆笑はないとどこかで読んだか聞いたことがあったけれど、タチの映画を観てもお腹を抱えて笑うなんていうことはないのである。いつもクスクス、ニヤニヤといった感じなのだ。これを、エスプリ全開というのだろうか。


そして、タチの作品でもっとも重要なのは音響である。サイレント映画さながらの無口なユロ氏に変わって音響がとても重要な役割を担っているのだ。音が主役と言ってもよいのではないかと思われるほど、この映画はさまざまな音に彩られている。下町の舗道を走る馬車、市場の喧噪、女性のヒールの音や魚のオブジェから噴き出る水飛沫、絶妙なタイミングで流れるいかにも小粋なおフランスといった印象のメインテーマなど、独特の世界観と音響の見事な融合。チャップリンにも音楽の才能があったように、タチの音楽センスにも目を見張るものがあるように思う。


さて、チャップリンのパスティーシュともいえるタチの作品群のなかでも、この映画は『モダン・タイムス』を意識して製作されたのは明白である。チャップリンほど風刺的ではないが、ユロ氏の住むアナログアパートのささやかな暮らしぶりに見る人情深さ、郊外の一等地にある妹夫婦のオートメーション屋敷で繰り返される不可解な言動、どちらが人間らしく本当に充実しているのかということを「笑い」というオブラートに包みながら上品かつ辛辣に描き出しているのではないか。しかしそんな難しいことなどは考えずに、タチの映画はいつも夏休みの気分で、のんびりと寝転びながら観るのが一番似合うような気がする。


この映画のなかでもっともわたしが好きなエピソードはユロ氏のアパートの下階に住む年頃の少女とのやりとりである。最後のほうのシーンではすっかり洒落て大人びた雰囲気になった彼女に、一抹の寂しさを感じずにはいられないのである。


ぼくの伯父さん
製作年:1958年 製作国:フランス=イタリア 時間:120分
原題:Mon Oncle
監督:ジャック・タチ
脚本:ジャック・タチ
出演:ジャック・タチ


ぼくの伯父さん [DVD]
ぼくの伯父さん [DVD]
posted with amazlet at 12.03.05
角川書店 (2004-02-27)

2012-02-17

ジャック・ドゥミによるフレンチ・ミュージカルの至宝『ロシュフォールの恋人たち』(1967年)


ああ!こんなに素敵な映画があってよいのだろうか!登場人物も衣装も画面をおどる色彩も音楽も、すべてがかわいくてお洒落でいかしてて、いつだってこれを観れば幸せな気分になれる!たとえ人生に疲れて、はたまた恋人に振られて三日三晩泣き明かしたとしても、この映画があればなんとかやっていけそうな、嫌なこともぜんぶ乗り越えられそうな前向きな気持ちにしてくれるのがこの映画、『ロシュフォールの恋人たち』なのです!私は心理描写にを重点を置いた静謐な雰囲気の映画が好きだし、この映画はどちらかといえば突っ込みどころ満載のバカ騒ぎ風な作品なのだけれど、ああやっぱり私も女の子だなあと、女に生まれてよかったなあと感じさせてくれる数少ない映画のひとつなのだ。



フレンチ・ミュージカルの最高峰といえば、監督ジャック・ドゥミ、音楽ミシェル・ルグランのコンビにお人形のように麗しいカトリーヌ・ドヌーヴ主演の『シェルブールの雨傘』(1963年)に間違いないのだが、そして私が初めてまともに最後まで観ることのできたフランス映画がまさにその『シェルブールの雨傘』だった。フランス語の授業で見せてもらい、担当の先生(どこかの大学から来ていた中年の「超」がつくほど優しい先生だった)がドヌーヴがすっかりおばさんになってしまったと嘆いていたのを思い出す。ドヌーヴが先生のタイプだったのかもしれないが、女性はきっと気に入ると思うと言いながらお勧めしてくれたのだった。二年時の必修課目だったのだが、二年生が私と友人の2人に四年生が2人というあわせてたったの4人という不思議な人員構成で、大学はあまり好きではなかったのだけれど、そのときの出来事は鮮明に覚えているのだから、今になって考えるとその授業は好きだったのだろう。

と、いきなり脱線したが、この『ロシュフォールの恋人たち』は、ドゥミ、ルグラン、ドヌーヴの黄金トリオにドヌーヴの実姉であるフランソワーズ・ドルレアックを加えた、運命の相手をめぐるとびきりハッピーな恋物語である。ハッピーなどと書くととても軽い感じがするのだが、というか実際にそのような印象の映画なのだが、このミュージカルが凄いのはシリアスな場面を歌っても悲恋の持つ暗さとはまるで無関係ともいわんばかりに、すべての物事が否定から肯定へ、どの登場人物もそのような姿勢をもって進行していく精神である。たとえドヌーヴが哀しげな表情を浮かべていても、『シェルブールの雨傘』ほどの深刻さで迫ってくることはない。舞台となるロシュフォールの小さな町がまばゆいばかりの愛と光に溢れ、『シェルブールの雨傘』とはまるで正反対な姿をしているからであろうか。しかしなんといってもそこに暮らす双子の姉妹が実像をともなって美しいからであろう。



フランソワーズ・ドルレアックはカトリーヌ・ドヌーヴの1歳年上の実姉である。小さい頃から演劇の道で活躍されていた。私はトリュフォーの『柔らかい肌』で彼女のことをはじめて拝見し、ドヌーヴの姉であることも知る。そういわれてみれば似ているような気もするが、ドヌーヴより大柄で役柄のせいもあるのだろうが自由で大胆な感じのする女性だった。私はドヌーヴの人形のような完璧な美しさに冷酷さを見たりしていたのだが、姉はドヌーヴに比べると顔の表情も自然にころころと変わり、なにより明朗活発そうでお人形の妹よりは取っつきやすいような印象を勝手に抱き、可憐なドヌーヴより大人っぽいドルレアックがかっこいい!と感化されやすい私はいつもの調子で美しい姿を眺めていた。彼女たちの本名はドルレアックなのだが、妹は姉に対して強い劣等感を抱いていたために、本名を捨てドヌーヴと名乗ったとも言われている。あれだけの大女優になられたドヌーヴがまさかとは思うのだけれど、本当に姉妹のことはわからない。けれど、この映画の双子のように二人の仲は良かったそうで、ドルレアックが事故に遭う直前も姉妹で休暇を楽しんでいたのだった。姉のドルレアックはこの『ロシュフォールの恋人たち』の撮影を終えた直後、25歳で亡くなってしまった。自ら運転する車で事故に遭い、脱出を試みるも叶わず帰らぬ人となってしまったのだ。だからこの映画は、姉妹がそろった若く美しい健康的な姿を拝見できるとても貴重な作品でもある。



映画はジャズを基調としたルグランの「キャラバンの到着」からはじまる。映画の内容よりもサントラのほうが有名であるからもはや説明不要なのだが、ルグランのスコアにあわせて踊る!弾む!恋!恋!恋!まさに人生謳歌!といった感じで、パステルカラーを存分に使った画面構成と、控え目でチープなミュージカル・シーンにはアメリカ映画とは一味も二味も違った魅力がある。私はやはり姉妹のデュエットのシーンが一番好きで、ファッションも振り付けもすべてが可愛らしくて、ずっとこの双子の世界に浸っていたいと何度思ったことだろうか。そしてまた余談になるのだが、私は中学生の頃ポストカードを集めるのが好きで、主にレトロな感じのする60年代のファッション・シーンを切り取ったものを集めていたのだが、この映画の双子の歌のシーンを観たときはっとしたのである。あの頃大切にしていたポストカードのなかにいた楽器を持った二人の女性がそこにいたからだ。ああ、また繋がっているのだ!と飛び跳ねるほど嬉しくなり、なぜこんなにも私は回り道をしているのだろうと不思議な気持ちにもなるのだった。



おそらくこのように感じるのは私だけではないと思うのだが、この映画のドルレアックはドヌーヴの引き立て役のような気がしてならないのである。本来の彼女はもっともっと美人であるはずなのに、そばかすを描いたり意図的に彼女の美しさを打ち消すようなメイクをしているように見えるのだ。そもそも赤毛のカツラ(カツラなのか?)が似合っていないのかもしれないが、どことなく残念な部分である。それでもこの映画がルグランのスコアと、本物の美しい姉妹によって支えられているという事実に変わりはなく、そしてこの映画は何事にも代え難い私を支えてくれる希望のような存在なのだ。