2013-06-30

Roxy Music ロキシー・ミュージック


初期のロキシー・ミュージックが好き!もし私が何らかの音楽活動をしている人間だったなら、初期のロキシー・ミュージックは理想的な超憧れのバンドになっていただろうと思う。プログレともグラムともつかない、毛色の変わったへんてこなバンド。私が惹き付けられるのは、デビューアルバムから3rdまでの混沌としたサウンドと不気味なヴィジュアル。しかしそれらはすべて計算し尽くされたもの。アイディアとセンスさえあればやっていけるというスタンス、音楽的な知識や技術は二の次(これは2ndまで在籍していたイーノさんの影響があってのことのように思う)、ほとんどのメンバーが美術学校出身のアート野郎集団でもあった。

ぱっと見た限りではどうも老け顔で化粧も誰一人として似合っておらず、コミックバンドな出立ちにぎょっとするけれど(これもハゲなのにロン毛なのか?ロン毛なのにハゲなのか?美形で可愛らしいお顔をしていながら超ケバい化粧を施したイーノさんの強烈なヴィジュアルが一要因)、フェリーさんをはじめ長身で、よく見りゃみんなハンサムなのだ。



初めて聴いたのは「More Than This」だった。洋楽を聴き始めた10代の頃。当然のことながらリアルタイムではないし、しかもレンタルで借りた80年代洋楽のコンピレーションアルバムか何かに収録されていたものだった。他にはオリビア・ニュートンジョンが入っていたような気がするけれど、繰り返し聴いた記憶はほとんどなく、当時は大人っぽい曲で親しめなかったのだと思う。

にもかかわらず鮮明に覚えているのがロキシーというバンド名だった。イギリスの映画館の名前だと後々知るが、私の世代はロキシーといえば90年代後半に女子中高生のあいだで流行したアパレルブランドのROXYがあった。おそらく両者に関連性はないのでどうでもいい与太話だけれど、そのおかげでロキシー・ミュージックという名前だけはずっと覚えていた。

真剣に聴き始めたのはそれから数年後のこと。イーノさんの歌モノのソロを聴いて仰天し、さらには優しそうな可愛らしいお顔で大好きになり(超単純!だけど、密かにロック界一の美形だと思っている!冒頭からイーノさんイーノさんと気持ち悪いですが、普段からずっとイーノさんと呼んでいるのでそのままでいきます)、そのイーノさんがロキシー・ミュージックのメンバーだったことを知る。でも、ロキシーってあの「More Than This」の?とあまりのサウンドの違いに驚いたけれど、完全にミーハー心からイーノさんが参加した1st、2ndを買った。



洗練された「More Than This」を出したバンドとは思えぬ歪なサウンド。比較的ポップな曲はすんなり入っていけたのだけれど、特有のループ構成はどこか退屈で、ロキシーはずっと取っ付き難いバンドだった。そんな私がRoxy Musicを心底好きになったのは彼らの動いている姿を見てからだ。嗚呼、これほどYouTubeに感謝したことはない!このクールなのかダサイのかよくわからないエキセントリックなコスチュームと、奇妙なパフォーマンス、テキトーに見える演奏(もちろん個々の演奏能力はそれほど低いわけではないと思うのだけど、本気で全員ヘタクソだったのか?)、捉えどころのないアヴァンギャルドなサウンド、作り込まれたダサさ、ちょっとスカした感じ。

「Re-Make/Re-Model」(1972年)のソロパートの部分が好き!メンバー全員が強烈な個性!初期のロキシーは個々の自由度が高いバンドだったのだ。上の動画のパフォーマンスではおそらくサックスから唾が逆流しているであろうコスチュームがどう見てもゴーヤなマッケイさん(超クール!)、髭もじゃで最年少とは思えぬ風貌のマンザネラさんのノイジーなギター、なぜか弾まない異様に硬いトンプソンさんのドラム、ピーッビャーッビュルルルルービーッ!なんだかよくわからない発信音みたいなシンセサイザー担当の孔雀羽根の男イーノさん、当時を知らない私にしてみればダンディズム云々と言われても怪しい笑顔のおっさんでしかないフェリーさん。この時点ではまだロキシーは完全にフェリーさんのバンドという感じではないし、イーノさんのバンドでもない。見方によってはマッケイさんのバンドなのかもしれない。



それにしてもロキシーって本当にハンサムなメンバーばかり。フェリーさんはもちろんだけれど、サポートメンバーだったベースのケントンさんの女性的なルックスと控え目な佇まいも好き。というかケントンさんが一番お洒落じゃない?

しかしイーノさん経由でたどりついたのに、ロキシーとなると途端にマッケイさんを贔屓にしてしまう私はただただミーハーな人間なのでした...。



ロキシー・ミュージック(紙ジャケット仕様)
ロキシー・ミュージック
EMIミュージック・ジャパン (2007-09-26)



2013-06-26

Chantal Goya シャンタル・ゴヤ、ゴダール『男性・女性』のヒロイン


彼女は自分の世界を創る
いきいきとして優しく/デリケートで美しい顔
美しい歯 美しい肌/美しい骨格 美しい微笑
繊細な表情と/軽快で優雅な身ごなし
豊かな芸術的感受性に/恵まれた真実の美しさ
精神の怠惰ではなく/本能の誠実と明晰

— ジャン=リュック・ゴダール『男性・女性』



シャンタル・ゴヤ(Chantal Goya/1946年-)は60年代半ばに活躍したフランスのアイドル歌手。いわゆるイェイェ(アメリカやイギリスの新しい音の影響を受けた大衆音楽、フレンチ・ポップス)時代の全盛期にデビューした。ゴダールの『男性・女性』(1966年)のヒロインとして有名。

お母様がカンボジア人だそうで、ちょっぴりエキゾチックで日本人受けしそうな可愛らしい顔立ち。映画出演時は19歳で、まだあどけないほんわかした雰囲気の女の子だけれど、骨格がしっかりしたお顔なので、ふとした表情に高貴な強さ、厳しさも感じさせる。音程・リズム感が危うい舌足らずな子供っぽい歌声も愛くるしく、『男性・女性』以外の姿は拝見したことがないけれど、瞬く間に私は彼女の虜になってしまった。



『男性・女性』ではマドレーヌという名前の新人アイドル歌手を演じ、等身大の役柄のようだ。彼女のモットーは化粧をしないこと、ハイヒールをはかないこと、スカートもジュニア風。本当に薄化粧らしく、おでこの吹き出物もばっちり映っていてそのことがとても微笑ましく思えたり。癖のように幾度となく髪に手を触れる仕草に胸キュン。

いつもは小難しいゴダールだけれど、この映画は初冬のパリをはしゃぎ回る若者の姿を生き生きと捉えていて、カメオ出演で豪華アイドルも登場して可愛らしい青春映画といった感じ。とにかく声が可愛いシャンタル・ゴヤ。マドレーヌのモノローグと劇中のイェイェは、カタルシスにも似た作用を引き起こす。



キュートなゴヤちゃん(そう呼びたくなるのはなぜ?)に憧れて、無謀にも髪型を真似ていた時期があった。母親がアジア人で黒髪のおかっぱという馴染みのあるスタイルに親近感が沸いてしまったのだけれど、肝心な顔のパーツが全く別物だということを完全に忘れていた私は、どう見てもちびまる子ちゃんなのだった。鏡に向かって「髪型は可愛いけどなんか違くない?」と自問自答していた思い出がよみがえってくる...。



映画の挿入歌も収録されている彼女のベスト盤は現在も入手可能。
躍動感あふれる「tu m'as trop menti」は、60年代にトリップした雰囲気が味わえる大好きな曲!イェイェを代表する名曲だと私は思っている。




Complete Sixties
Complete Sixties
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CHANTAL GOYA
Magic Records (2008-06-03)

2013-06-24

60sイギリスのファッション・シーン、スウィンギング・ロンドン!『ジョアンナ』(1968年)


60年代のファッション、カルチャー・シーンに何らかの影響を受けて生きている。この歳になってもずっと憧れ続けているのだから我ながら飽きれてしまうのだけど、もはやあの時代に思いを馳せることは精神療養のような行為としか言い様がない。文学はビートニク、映画はヌーヴェル・ヴァーグ、音楽とファッションは英国を贔屓にしている。やはり60年代半ばのイギリス、スウィンギング・ロンドンの時代はファッション界、音楽界ともに華やかな顔ぶれも相まってひときわ眩しく映るのだ!


1968年のイギリス映画『ジョアンナ』はそんなスウィンギング・ロンドンの空気に思う存分浸ることができる。当時のファッション・シーンを心行くまで楽しむことも。物語自体はなんてことはない、美術学校に通う女の子が主人公の恋愛中心の能天気な青春ドラマなのだけれど、当時のロンドンの街並と、ファッション、アート、インテリアを彩るポップでサイケデリックな配色に彩られた映像が退屈させず、45年経った今でも色褪せない魅力が満載だ。音楽もなかなか凝っていて、馬鹿馬鹿しくしょうもない発想が最高にクールだったあの時代にありがちな、しかし美術と衣装と音楽はやたらとセンスが良いという映画の典型でもあろう。



主人公のジョアンナを演じたのはジュヌヴィエーヴ・ウエイト(Genevieve Waite)という南アフリカ出身のモデルで、長い手足と痩せた身体で着こなす原色多様使いのファッションがまァ素晴らしい。細く長い足はカラータイツがよく似合う。少年のような体型でショートパンツのスタイルが多いけれど、ぐりんぐりんに巻いたショート・ボブと強烈なアイ・メイクは女の子らしくてキュートだし、顔は好みが別れそうだが、着せ替え人形のようにめまぐるしく変わるジョアンナのファッションには感動すら覚える。ジョアンナを取り巻くメンズのファッションもお洒落!ジャック・ペランに似た芸術家を演じるクリスチャン・ドーマーが素敵!(「日本橋」と文字入れされた法被を着ている!)



冒頭、ロンドンの駅に到着した列車から大きなトランクを抱えたジョアンナがホームに飛び出して来るまでの映像の繋ぎ方、再び駅のホームで迎えるラストが秀逸だ。室内のシーンには当時のロンドンっ子も熱狂したであろうモンロー、バルドー、ジェームズ・ディーン等のポスターがさりげなく映り込む。ジョアンナが薄いピンク色のシフォンのドレスを着て漫ろ歩くロンドンの街、公園を駆け抜けるシーンは夢のような気分。スウィンギング・ロンドンの様相を垣間みることができるストリートにも感激。ジョアンナが友人と買い物袋をぶらさげて街を闊歩するシーンに登場するのは、60年代の代表的なデザイナーズ・ブランド「BUS STOP」だ。「ハロッズには何から何まで売ってるわ!」「ボンド・ストリートにグッチがあるわ!」という何気ない会話にもいちいち想像が膨らんでしまう。



しかしこの映画、二度目の鑑賞で単純で楽天的なだけの作品ではないと感じた。こっちへフラフラ、あっちへフラフラとすぐに男と寝てしまうあまりにもオツムが弱そうなジョアンナは、性の解放が叫ばれたこの時代の若者の象徴ともいえる(現在にも十分いそうだが)。60年代に性の解放を描いた映画は数多ある。しかし『ジョアンナ』はそれだけで終わってしまう物語ではないようだ。愛のないセックスに疲れたジョアンナは傷ついて涙を流し、愛する人は黒人であるがゆえの問題を抱え、中絶手術をした友人もなんだか自分が空っぽになってしまったみたい、と後悔する。美術史の先生が授業で言う、「バロックは古典主義への反抗でしかない」と。

セックス、中絶、黒人問題と、今更になってみればいかにも60年代的な映画のように捉えてしまいがちだが、ジョアンナの経験には現代の若者にも通じるストレートで普遍的なメッセージが込められている。『ジョアンナ』はまぎれもなく実直で優等生な映画だ。ファッションや美術の完成度を差し引いてもジョアンナの青春物語にどこか胸を打たれる想いがするのは、そういった強いメッセージ性のためであろう。本作のようにキッチュな60年代の愛らしいB級映画は、この先時代を重ねるごとにどんどん貴重になっていくのかもしれないし、未だDVD化されていない60年代の幻の映画たちに一作でも多く出会えるよう願う!



ジョアンナ
製作年:1968年 製作国:イギリス 時間:115分
原題:JOANNA
監督:マイケル・サーン
出演:ジュヌヴィエーヴ・ウエイト,カルヴィン・ロックハート,クリスチャン・ドーマー,グレンナ・フォースター=ジョーンズ,ドナルド・サザーランド,フィオナ・ルイス


ジョアンナ [DVD]
ジョアンナ [DVD]
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20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン (2011-04-22)

2013-06-22

サントラはお好き?(2)『男と女』音楽:フランシス・レイ、ピエール・バルー


それまで無名であったクロード・ルルーシュが10人足らずのスタッフと、わずか三週間で作り上げた『男と女』(1966年・フランス)は数々の映画賞に輝き、フランシス・レイ作曲による「ダバダバダ〜」の主題歌でも有名。ダバダバ・スキャットとフランス語の響きが醸し出す物憂い雰囲気は、数多ある恋愛映画とは一線を画すように思う。

初めて観たのは二十代前半のとき。知的で情熱的なレーサー、ジャン=ルイ・トランティニャンとギリシャ彫刻のような絶世の美女、アヌーク・エーメのカップルが、ただただひたすらに眩しかった。降りしきる雨のなか、ワイパーが作動するガラス越しでの車内の会話シーンが目に焼き付いている。そして耐久レースの後、埃まみれになったボロボロの車で六千キロもの距離をぶっ飛ばしてアンヌのもとに駆けつけるジャン=ルイに惚れ惚れ。

そう、この映画は車が重要な脇役として物語を盛り上げるのだ。モンテカルロ・レースだとか(実際に登録して出場してしまう監督の心意気にも驚き!)フォードのプロト・タイプだとか言われても女の私にはまるでお手上げだけれど、なぜだかそのことがろくすっぽ理解できない男の世界を象徴しているようにも思えたのだった。

ある程度の歳を重ねてからでないと本当の意味でこの映画の惹き付ける魅力というものは分からないのかもしれない。しかしながらモノクロとセピアを織りまぜた小憎たらしい演出(ただ単に予算が足りなかっただけらしい)と、繰り返されるボサノヴァの甘いメロディーにのせて描かれる大人の男女の真理は、若い娘をも陶酔させるだけの説得力があった。そしてシンプルだけれど美しい、この映画のような男女の物語に憧れながらアンニュイな気分に浸りたいとき、背伸びして何度もこのサントラを聴いた。



思わず口ずさみたくなる「男と女のテーマ」を歌っているのは、共に監督の友人であるニコール・クロワジールとピエール・バルー。バルーは俳優としても出演していて、アンヌの亡き夫役(ブラジル音楽を愛するスタントマンという設定)で、ギターを弾きながら歌声を披露している。それもそのはず、彼は十代の頃に音楽活動をしながら各国を放浪し、ポルトガルで出会ったブラジル音楽に陶酔、のちに「Saravah」(サラヴァ)というレーベルを立ち上げ、数々の名盤をフランスから発信した人物だ。

バルーがフランス語で歌う「男と女のサンバ」もテーマ曲に劣らず素晴らしい!(原題は「samba saravah」)劇中ではアーティストのビデオクリップのような扱い方をされていて、当時はこれが画期的な手法だった。『男と女』は映像と音楽が総合芸術であることを再確認させてくれる映画であり、さらにブラジル音楽の素晴らしさも伝えてくれるのだ。



僕の幸せを求め 陽気に笑い 歌う/心ゆくまで味わう 人生の喜び/
哀愁のないサンバは 酔えない酒と同じ/そんなサンバは心に響かない/

哀愁のないサンバは まるで美しいだけの女/これはモライスの言葉/
詩人の外交官 この歌の作詞家/"黒い白人"と公言した男/
僕もブラジル風フランス人/恋のサンバを語る/
恋人に口も利けぬ男が 彼女を歌でたたえる/

こんなサンバに不快な人もいるだろう/困った流行だと嫌う者もいるだろう/
僕は世界中を巡り/放浪を重ねて捜し求める/
深い歓びを/サンバを踊り続けよう/

ジョアン・ジルベルト、カルロス・リラ、ドリバル、アントニオ・カルロス・ジョビン、モライス、バーデン・パウエル
この歌を始め 名曲の生みの親たち/敬意を表して 大いに飲もう/
いざ乾杯 偉大な作曲家たちよ/サンバの申し子 サラヴァ!

ピシンギーニャ、ローザ、D・デュラン、シルビオ・モンテロ
そしてエドゥ・ロボと/ここにいる友人に乾杯/
バーデン、イコ、オズワルド、ルイジ、オスカル、ニコリノ、ミルトン
サラヴァ!

その名を聞くだけで 僕は身が震える/感動を呼ぶ数々の名/
サンバをたたえよう

バヒアの港から生まれた このリズムと詩/
サンバを踊り 苦しみを忘れた日々/
万感の思いを込めた歌
その言葉は白人のものでも
これは黒人の魂を/万感の思いを込めた歌
その言葉は白人のものでも
これは黒人の魂を/万感の思いを込めた歌
—『男と女』より



「サラヴァ」とはポルトガル語で、"神の祝福があるように"という意味。この曲には元々、「イパネマの娘」で知られる詩人ヴィニシウス・ヂ・モライスによるポルトガル語の歌詞があり、バルーはフランス語版を作詞した。バルーの歌詞にはボサノヴァの生みの親である音楽家たちの名前が列挙されていて、次から次と歌われる名前を聴いているだけでも楽しい!フレンチ・ボッサの先駆けともいうべき名曲であろう。




男と女 オリジナル・サウンドトラック
サントラ ピエール・バルー ニコル・クロワジーユ
オーマガトキ (2004-12-01)

2013-06-21

サントラはお好き?(1)『ロシュフォールの恋人たち』音楽:ミシェル・ルグラン


フランス映画のサントラといえば、このお洒落なピンクのジャケットが真っ先に思い浮かぶ。おそらくフランス、60年代のポップ・カルチャーが大好きな人間にとって、このサントラはもはやマストアイテムというか、これ知らんならモォ出直して来い!って息巻いて突っ込まれることは確実であろう(かく言う私もあまり偉そうなことを書ける資格は毛頭ないのだが)




フレンチ・ミュージカルの至宝、ジャック・ドゥミ監督の『ロシュフォールの恋人たち』(1967年)はどうしても要所要所で突っ込みたくなるけれど、それゆえに大好きな映画。ミシェル・ルグランのスコアも本当に素晴らしい!映画の中身よりもルグランの音楽、特に「キャラバンの到着」はよく知られている。もうだいぶ前になると思うけれど、車のCMにも使われていた。私はそちらを聴いてからの鑑賞だったので、映画が始まって間もなく思いもよらず流れてきた「キャラバンの到着」に驚いて、食い入るようにダンスシーンを見つめたのを覚えている。



ドヌーヴとドルレアックの美しい姉妹が現われると、ファッション、小物、画面を彩るパステルカラーのポップな色使い、すべて可愛いらしくて夢のような気分だった。そして、この映画のハイライトシーンとも言える姉妹のデュエット「双子姉妹の歌」を聴いてさらに胸が躍るような想いになった。どこで耳にしたのかははっきりと記憶にないのだけれど、私は「双子姉妹の歌」も知っていたようなのだ。「ミファソラ〜ミレ」と音階をそのまま歌ってしまう箇所にあまりにも自然に同調してしまい、涙が出そうになった。そして迷わず、サントラ買う〜!となったのだった。



現在は二枚組の完全版もCDで出ているのだけれど、ジャケットはオリジナルのアナログ盤と同じピンクのデザインのほうが断然!可愛い。実は中高生の頃ポストカードを集めていて、このジャケットとまったく同じポストカードを持っていた。とてもお気に入りで部屋の壁に貼っていて、当時はそれが『ロシュフォールの恋人たち』という映画のものだとは知らなかったし、数年後にスクリーンでポストカードの中の二人の女性に出会うとは思ってもみなかった。このジャケットにはそんな不思議な思い出がある。



ロシュフォールの恋人たち ― オリジナル・サウンドトラック (LES DEMOISELLES DE ROCHEFORT)
ミシェル・ルグラン サントラ
ユニバーサル インターナショナル (2002-05-02)

2013-06-18

ゴダールによる言葉をめぐる冒険と愛の物語、『アルファヴィル』(1965年)


おびただしいほどの言葉の氾濫。まずそのことに圧倒され、一度観ただけではこの映画の力のなんたるかを理解することは難しい。物語自体はそれほど複雑なものではないように思う。すべてをコンピュータで管理し、人々の感情を統制する銀河系の都市アルファヴィル。アルファヴィルの中心である巨大な電子指令機「α60」を操るフォン・ブラウン教授は悪であり、その娘ナターシャは「α60」の魔法にかけられたお姫様であり、ジョンソンは眠り姫を救うため悪と闘う王子様のようだ。

そんなありふれた童話を連想させる物語は言葉で埋め尽くされる。アルファヴィルの実態は言葉(音声)で説明され、くぐもるような不快な声で洪水のように流れていく。言葉(音声)はこの映画を構成するもっとも重要な要素であり、むしろ言葉が主役であると断言してもよいだろう。



しかしそれを嘲笑するかのように、この映画に描かれるアルファヴィルの人間には言葉の意味は知覚されない。アルファヴィルに暮らす人々は「α60」の命令のままに行動し、外部の国のことを考えるのは禁止されている。ホテルに到着したジョンソンは、そこで出会うすべての人間と会話が成り立たないことに唖然とするのだった。

アルファヴィルの人間が出会ってすぐに口にする「元気です、ありがとう、どうぞ」という言葉、これは「こんにちは、元気?」「ありがとう、元気だよ、あなたは?」という一連の挨拶を端折ったものだと考えることができるだろう。そしてこの台詞は「α60」による言葉の合理化の象徴とも言うべき重要なキーワードだ。

ジョンソンが跡を追って来た仲間のアンリは「why」という単語の意味がわからない。彼は次第に言葉を忘れている。こうしてさまざまな単語と表現は「α60」によって新たな意味へとすり替えられ、人々はコントロールされていく。



この映画は言葉をめぐる哲学であると同時に、過去と未来の物語である。そのことは劇中でも説明される。《人々は未来よりも過去のことを考えすぎるが、その過去を振り返るという行為こそ「α60」に対して効力を持つ》というのである。

アルファヴィルの住人にとって過去を振り返るということは涙を流すことであり、愛情を取り戻すということだ。ナターシャが「愛しています」という言葉を発して解放されるというのはいかにも!という感じで若干しらけてしまうが、愛情で「α60」を破壊するという発想もゴダールらしいといえばゴダールらしいテーマである思う。

そこで私の興味をもっとも引いたのは、この映画が過去と未来の物語とされていることだ。過去とは、未来とは、いつの時代を指すのだろうか?この映画が製作された1965年を現在と考えれば、コンピュータに管理された世界というのはそう遠い未来の出来事ではないはずだ。人間がコンピュータ(機械)に支配されるという構図はすでに数十年も前からさまざまな芸術で取り上げられてきたテーマであり、特に珍しいものではない。にもかかわらずこの映画には真新しさ(それこそがゴダール映画の精髄とでもいうべきか?)のようなものが感じられるのだ。



面白いのはアルファヴィルの住人に関する部分である。もっともらしい説明はアルファヴィルでは芸術家が排除されるという点だ。「150光年前の社会には小説家や音楽家がいたはずだがアルファヴィルにはまったくいない」という台詞が出てくる。芸術家は変なものを書くからという理由でアルファヴィルでは消されてしまうのだという。

おそらくゴダールはこの映画を撮った時点で、自身ないし映画界を取り巻く環境に何か違和感や危機感のようなものを抱いていたのではないだろうか。ゴダール自身の抱える苛立ちや苦悩、映画人として生きることへのしがらみや葛藤、娯楽ではないなにかというスタイルの映画を撮り続けるゴダールに対する風当たりの強さというものを想像せずにはいられない。そのような居心地の悪さを感じつつ、ゴダールは近い将来、芸術、大胆にいえば映画そのものはもはや取るに足らないものと見なされ、見向きもされなくなるだろうと予見しているのではないか?



さらに興味深いのは音と光の祭典といわれるショーである。アルファヴィルでは非理論的な行動をとった人間は非適応者とみなされ公開処刑される。具体的に紹介されるのは奥さんが死んだ時に泣いたという理由で殺される男だ。そこで語られるのはアルファヴィルに暮らす男女の比率が1:50という事実である。

アルファヴィルでは女性は生き残り男性は適応できずに死んで行く。アルファヴィルという未来都市は、女性によって創造されるひとつの階級社会ととらえることができるのだ。1965年はウーマンリヴがさかんに叫ばれ始めた時期であるから、そのような背景から生まれた発想なのだろうという見方もあながち間違いではないかもしれない。



この映画のダイナミズムを体験することはある種の苦行のようでもあり、幸福でもあり、まさにゴダール的な映画といった感じだが、それゆえ実験的な映画と捉えることもできるだろう。銀河系という言葉から単純にSF映画を連想するが、はっきり言って科学とはあまり関係がない。ゴダールによる言葉をめぐる冒険と愛の物語。そう考えるとしっくりくるのではないだろうか。

それにしても、この映画のシックなワンピース姿のアンナ・カリーナはいつも以上に魅力的、です。




アルファヴィル
製作年:1965年 製作国:フランス=イタリア 時間:100分
原題:ALPHAVILLE, Une Etranfe Aventure De Lemmy Caution
監督:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウル・クタール
出演:エディ・コンスタンティーヌ,アンナ・カリーナ,エイキム・タミロフ,ハワード・ヴァーノン,ラズロ・サボ,クリスタ・ラング


アルファヴィル [DVD]
アルファヴィル [DVD]
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アイ・ヴィ・シー (2005-08-26)

2013-06-17

北欧の風を求めて、Club 8『the friend I once had』(1998年)

スウェディッシュ・ポップの代表格といえば、カーディガンズとか同時期に活動していたクラウド・ベリー・ジャムを未だに思い浮かべてしまうけれど、彼らのあとに知ったのが、このclub 8という男女のデュオだった。ストックホルムを拠点として活動を続けるヴォーカルのカロリーナとギターのヨハン(作曲とほとんどの楽器を演奏している)は互いに別のバンドにも所属していて、にもかかわらず、結成以来もう15年以上もコンスタントにアルバムを発表しているベテランだ。

この『the friend I once had』は彼らが98年に発表した2ndアルバムで、本国スウェーデンとアメリカ、日本でもリリースされて評判もよろしく、インディ・ポップ、ギター・ポップファンのあいだでは名盤と呼ぶにふさわしいアルバムなのだろう。いつものことながら私は後追いで、アーティストについてもあまりよく知らず恐縮なのだけれど、夏が近づくと無性に聴きたくなるお気に入りの一枚。一度は廃盤になっていて、いま手元にあるのは2005年に再発された18曲入りのリイシュー盤。なんてことはない手作り感たっぷりのClub8のロゴの小さなシールが同封されている。



以前は、北欧らしい清涼感あふれる爽やかで真っ直ぐで、切ないギター・ポップの王道!といったサウンドに魅力を感じていたし、彼らの音楽は実際にそのように紹介されることが多いけれど、久しぶりに聴くと印象が少し変わっていた。薄荷飴のようなカロリーナの心地良いヴォーカルはあまり癖がなく聴きやすいのでいつも戸惑うことなくすうっと入って来るけれど、どこか憂愁の色を帯び寂寥感が漂っていることに気付いたのだ。かつて青春ギター・ポップなどと言われたサウンドに耳を傾けて、北欧の短い夏と過ぎた日々を想う。そうして、私も歳をとったのかなぁとそんなことを嘆いてみたり。




ザ・フレンド・アイ・ワンス・ハド+6
クラブ8
Pla-Flavour (2000-11-29)

2013-06-13

フランス映画のイメージを覆した、『ディーバ』(1981年・フランス)


中学の頃、友人たちとフランスの恋愛映画のビデオを観た。今になって考えると、フランスの映画であることを意識して観た作品はその時が初めてだったかもしれない。友人の家で開かれた鑑賞会で、自由奔放で大胆で強烈な個性のヒロインにげんなりし、早々にリタイアしてしまった私は(おそらく)コタツの上に散らばったお菓子でもつまみながら退屈な2時間をやり過ごしたのだろう。パステル調のポップな色彩の中で呼吸する美男美女の二人は紆余曲折ありながらも幸せそうに見えたが、画面を覆っている雰囲気はどこか悲しいほど重苦しく陰鬱で、救いのない物語のように思えた。

映画館もない田舎の小娘たちが挙って賛美していたその映画とは、ジャン=ジャック・ベネックスの『ベティー・ブルー』(1986年)だった。監督の名前などまるで知らなかったし気にも留めなかったけれど、フランス映画に対するどちらかといえば否定的なイメージとしてその後もずっと私はこの作品を鮮明に記憶していたのだから、『ベティー・ブルー』がポルノ映画と言われようが並々ならぬエネルギーを持った映画であることは間違いないようだ。フランス映画は辛いというあまりにも偏狭な思い込みを抱いてしまった事実は取り消せないけれど。

20代になって色んなジャンルのフランス映画を観るようになっても、『ベティー・ブルー』の印象は強烈でずっと引きずっていたように思う。たとえ恋愛映画でなくても、ヨーロッパの映画はやはりどこか鬱々としていて難解、というイメージはいつも頭の端にあった。けれどある日、そのイメージを完全に打ち破る一本の映画に出会った。その作品がフランス映画であることに本当に驚いたし、出会えたことに歓喜した。ヌーヴェル・ヴァーグの作家を彷彿させる、あまりにもフランス的な色彩感覚で捉えられた映像のなかにサスペンスとアクションとロマンスのエンターテインメント性を備え、徹底して練られたであろう愛すべきキャラクターたち、素晴らしく典雅な音楽に一気に引き込まれ夢中になった。それはジャン=ジャック・ベネックスの処女作『ディーバ』(1981年)だった。なんということだろう!私を『ベティー・ブルー』の呪縛(!)から解き放ってくれたのは、他でもない『ベティー・ブルー』を撮った張本人、ベネックスの映画だったのだ。



郵便配達員のジュール青年は、オペラおたくでオーディオマニア。ある日、大ファンである黒人オペラ歌手シンシア・ホーキンスのパリ公演に高性能のレコーダーを持ち込み、こっそり録音して自宅に帰るとその美しい歌声に涙を流していた。シンシアはキャリアの絶頂にありながらもレコーディングを拒み続けるディーバ(歌姫)であったため、彼女の歌声はコンサートでしか聴くことができない。ジュールが隠れて録音した歌声はこの世に存在する唯一のテープなのだ。このテープが原因で2人組の業者に狙われるジュール。さらには身に覚えのない不可解な事件に巻き込まれ、ギャングと警察にも追われてしまう。レコード屋で出会ったベトナム人の少女と彼女と暮らしている謎の男の助けを借りながらジュールはパリの街を逃げ回る。



青いフィルターを通して覗いたような朝靄のパリ、夜の街を疾走するジュールのバイクとジャケットの赤、メトロの壁も真っ赤だ。ベネックスの映画は配色が、特に青の使い方が本当に美しい。それは『ベティー・ブルー』でも感じたことだった。倉庫を改造したロフトに転がるスクラップされた車、壁と床一面に描かれた不気味なイラスト、ベネックスの手にかかればあまりにも異空間でガラクタにまみれたようなジュールの部屋もなぜだかとてもスタイリッシュで、独特の色使いは一度観たら忘れることができない。ミニバイクとクラシックカーを使用した疾走感のある映像も、サスペンスフルで気の抜けない物語を支えるのに一役買っている。

しかし登場するのは映像の美しさを強調するような美男美女ではなく、まるで漫画に描かれるような強烈なキャラクターばかり。主役をかすめてしまうほど脇役の存在感が濃い。万引きばかりしているベトナム人の女の子、波を止める夢を見ながら悟りの境地にいるというゴロディシュという謎の男、黒いサングラスにスーツ姿の2人組ビジネスマン、くしゃっとした個性的な顔でいつもイヤホンをつけているスキンヘッドのギャング。芸術を愛する純情なジュールはナイーヴな印象の顔立ちでありながら、おっとりした雰囲気もする美形の青年(アルフレッド・アンドレイ)。現在は監督業をしているようで、『ディーバ』以降ほとんど出演作がないのが非常に残念。



ベネックスはこの作品のなかで、シンシアに自らの信念を重ね合わせていると思われる台詞を言わせている。「商業が芸術に合わせるべきで、その反対はない」のだと。まるで作家主義を掲げたヌーヴェル・ヴァーグの監督のような気概だが、実のところ『ディーバ』は商業主義の否定とはまるで正反対のベクトルを持った映画であり、おそらくひたすら娯楽映画に邁進しようという姿勢のもとで作られた映画だ。

どんな芸術であれ作家至上主義の時代はとうに終わりを告げ、監督の一存で映画を制作するなど夢物語にすぎない。しかし面白ければどんな内容でも良いという意識のもと、CG技術を駆使した映画をバンバン作り続けるハリウッドに対し、かつてヌーヴェル・ヴァーグの作家たちが世界中を沸かせたフランス映画の人気は70年代に入って低迷し続けていた。ベネックスが用いたシンシアの台詞は、もはや商業主義に陥ってしまったハリウッドへのアンチテーゼであるとともに、しかし商業と芸術が互いに歩み寄らねばならない時代が来たことを示唆したものだろう。シンシアは言う「歌いたくて歌うが、そのためには聴いてくれる人が必要だ」と。そしてシンシアの前に自分を女神のように崇拝し芸術を愛するジュールが現れたとき、シンシアは歌を本物の芸術と理解してくれる人の存在に気付き、これまで貫いて来た信念は崩れてしまうのだ。

録音したテープを流しながら、盗んだドレスを胸に抱いて涙を流すジュール。私がもっとも好きなシーンだ。この映画はかつてジュール青年であったベネックスから、純粋に芸術を愛する現在のジュールたち(観客)への贈り物なのだ。そして、あの時代だからこそ通じる力強いメッセージと、ベネックスの信条が込められた偉大な処女作であるのだろう。



ディーバ
製作年:1981年 製作国:フランス 時間:118分
原題:DIVA
監督:ジャン=ジャック・ベネックス
出演:ウィルヘルメニア・フェルナンデス,フレデリック・アンドレイ,リシャール・ボーランジェ,チュイ・アン・リュー,アニー・ロマン


2013-06-09

追悼 レイ・マンザレク


今日はロックの日。普段はこういった語呂合わせのイベント事などはあまり意識したことがないのだけれど、ちょうどドアーズの記事を書こうとしていたものだから、このタイミングはなんだか不思議な気持ち。



去る5月20日にドアーズのオルガニスト、レイ・マンザレク(Raymond Daniel Manzarek - 1939年〜2013年)が胆管癌で亡くなった。ドアーズのキーボードと紹介されている記事をウェブでいくつか目にしたけれど、ドアーズのサウンドを決定付けていたのは紛れもなく彼の電子オルガンだったから、キーボードという書き方はあまりしっくりこないなあとぶつぶつ呟きながら、美しく狂気じみたその音色を思い出していました。

レイの訃報は21日の夜、たまたまつけたテレビのスターチャンネルかWOWOWの番組で流れたテロップで知った。ドアーズというバンド名を見たとき、一瞬ジムの顔が過って、だいぶ昔にもう死んでるけどなァ?と寝惚けたことを思い、やがてインテリジェンスな物腰のレイを想い浮かべて悲しいというよりは驚いた。

というのも前日の夜、なんとなく棚の奥からドアーズの紙ジャケを引っ張り出してきて、何をすることもなく眺めたばかりだったから。CDは聴かなかったけれど、ドアーズの楽曲のなかで私がもっとも好きな「Touch Me」が収録されている『Soft Parade』のジャケットが見えるよう棚の一番手前に置いたのだ。びっくりするような偶然だけれど、ドアーズだけにこんなストレンジな出来事も、なんでも起こりうるような気がして少し笑ってしまった。

それでもやはりレイの死は悲しい。一番好きなバンドは?と聞かれたら相当悩むけれど、私はドアーズを挙げるような気がしています。今はもう以前のように彼らを、特にジム・モリソンを神格化も崇拝もしていないけれど(ドアーズのファンには程度の違いはあれそういう時期が存在すると思う)、ドアーズの音楽を聴くと単純にもの凄く元気になれる。ジムの呪文のようなバリトンも、時にヒステリックなレイのオルガン、淀むように壮絶な「The End」でさえも、なぜだか不思議とパワーが漲ってくる。私にとってドアーズはずっとそんなバンドなのです。



60年代を体現したロックスター、ドアーズの象徴はジム・モリソンだ。けれど、サウンドの要は間違いなくレイだった。不安定なジムに振り回されながらも忍耐強く付き合い、ステージ上でジムをコントロールしていたのはレイだった。もしかしたらドアーズはレイのバンドだったと言い切ることだってできるかもしれない。ドアーズにはベースがいないから、レイがあとから低音を録音していたと聞いた。そして、「Light My Fire」の印象的な序奏!この曲で彼らを初めて知ったとき、ジムのヴォーカルは怖いような気がしたけれど、レイのオルガンの調べで私はドアーズが好きになったのだ!





2013-06-05

チャップリンの『街の灯』(1931年・アメリカ)


初めて観たチャップリンの映画は『街の灯』だった。その時の感動は未だに忘れられないし、何度見返しても最後にはいつも胸がいっぱいになって涙が溢れ出る。もしかしたら生涯の一本とも言えるかもしれない。生涯を共にしたい映画は他にもいくつかあるけれど、それでもやはりこの映画のラストシーンを越える作品には未だ出会っていないように思う。

まだそれほど映画の世界に陶酔していなかった頃、モノクロという響きだけで時代を感じていたもので、ましてやサイレント映画なんて太古の出来事のように捉えていたものだった。しかしどういうわけか、チャップリンの作品をまともに観たことなど一度もないにもかかわらず、無意識のうちに「サイレント映画=チャップリン」という恒等式が当然のように擦り込まれてしまっているのだから、その作品に触れる前からチャップリンの偉大さを教えられているようなものだった。

そういうものだから、チャップリンの映画を初めて観たとき、手品のように繰り出される数々のギャグよりも、山高帽にステッキ、ばかでかい靴とちょび髭というお馴染みの恰好で画面を動き回るチャップリンの姿そのものにまず感激した。そしてチャップリンの映画は基本的にはコメディーであってチャップリンもコメディアンとして知られているけれど、単純におかしな物語を描いているのではなく、笑いと涙の人情劇であるということ、もしかしたら悲劇と喜劇のあいだには実はそれほどの大差はないのではないか?ということを漠然と考えさせられた。



この作品を一言でいうならやはりラブストーリーになるのだろうが、浮浪者(チャップリン)と盲目の花売り娘、浮浪者とアル中の富豪という2つのプロットがあって、その中に僅かだけれど社会風刺が盛り込まれている。基本的に浮浪者と富豪のプロットはギャグで進行していき、浮浪者と花売り娘のプロットはお決まりのロマンスという感じだが、富豪と花売り娘が直接的に関わり合うシーンは一度もなく、チャップリンが両者のあいだを行ったり来たりすることで物語が展開する。そこでなんといっても富豪の性格が酒を飲むと変わるという発想がすごい。どう考えても無茶苦茶なアイディアのように思えるのだが、あり得ないような突飛な発想がチャップリンの映画ではなぜだかもっともらしく見えてしまう。このふざけた発想で何度も物語を動かし、観客を惹き付けていくのだからただただすごいとしか言いようがない。

大恐慌による混乱の影響もはっきりとうかがえる。この映画がロマンスとはあまり関係のないヘンテコな除幕式で始まっているのもチャップリンがさりげなく盛り込んだ批判的なメッセージだ。「平和と繁栄の記念碑をこの町の人々におくる」という文句で始まる式典は、居合わせた浮浪者が終始関係者をおちょくって幕を閉じる。このオープニングの記念碑はあとでもう一度スクリーンに映るけれど、通りを行き交う人々は誰一人として見向きもしていない。一体誰が望んだのか?市民のための記念碑なのか?誰のためのモニュメントなのか?チャップリンが感傷的なドラマを排除して社会性のあるモチーフを選択したのはこのあとの『モダン・タイムス』と『独裁者』が真っ先に挙げられるけれど、この時点からすでに社会風刺的色合いを帯びはじめているようだ。



何度も観返しては『街の灯』(City Lights)というタイトルに込められた想いについて考えを巡らせている。舞台はとある街、主人公はそこに生きる人々だ。浮浪者はいつもながら飢え、花売り娘は同じ年頃の娘たちと同じように恋人とデートすることも叶わず、祖母と二人暮らしの貧しい生活。そして何不自由のない人生と思われる富豪は金持ちだけれどアル中に悩み、自殺未遂を起こしてしまう。チャップリンはどんなに成功しても大衆の心理を分析し、社会的弱者や異端者に手を差し伸べることを忘れなかった。浮浪者を小馬鹿にする新聞売りの少年たち、通りを行き交う人々や車といった街の風景を常にスクリーンに捉え、三人のはみ出し者にスポットを当てつつもチャップリンは民衆を、人間の本質を描いたのだ。

こんなにも純粋な物語を作ってしまうチャップリン!チャップリンがいてくれて本当によかった!と、心からそう思う。盲目の花売り娘に恋をしてしまう浮浪者チャーリー。彼の想いはあまりにも一途でピュアなために、些かの幼児性さえも感じさせる。我々はいつものように彼がフラれてしまうことを直感的に知っているし、無意識のうちにそのような展開を望んでもいるのかもしれない。さらに不幸なことに、花売り娘はチャーリーのことを金持ちの青年と思い込んでしまっているあたりが悲劇を倍増させる。

そして映画史に残る屈指のラストシーン!娘を見つけたときのチャップリンの驚いた表情と、その後の切なげな笑顔が観る者の涙腺を崩壊させる。チャップリンのこの表情はポストカードにもなっているくらいもっともよく知られた肖像であり、実は美男子でもある素顔を思わせる純真な眼差し!無声映画だからこそ可能であった美しくも残酷な映画!


街の灯
製作年:1931年 製作国:アメリカ 時間:86分
原題:CITY LIGHTS
監督:チャールズ・チャップリン
脚本:チャールズ・チャップリン
作曲:チャールズ・チャップリン 音楽:アルフレッド・ニューマン
出演:チャールズ・チャップリン,ヴァージニア・チェリル,フローレンス・リー





街の灯 (2枚組) [DVD]
紀伊國屋書店 (2010-12-22)