「人生の意味とは、自然と人類を大切にする自分のモラルを作り上げ、それを持ち続けること」
—アキ・カウリスマキ
フィンランドの巨匠(と、もう呼んでしまってもいいよね?)アキ・カウリスマキ!
カウリスマキの映画が三度の飯より好きだ!という日本人はいると思う。カウリスマキの映画を観ていると、フィンランド人と日本人の気質が似ていると言われる理由がなんとなくだけれどわかるような気がしてくる。カウリスマキの世界といえば、極限まで削られた少ない台詞と無表情な登場人物、印象的な音楽(ときに音楽に語らせる!)、どこか暗い雰囲気を持った背景から生まれるぶっきらぼうなユーモア、といった特徴が挙げられる。これらの要素はどの作品においても基本的にブレることがないように思う。
なにも映画がそうだからといって、フィンランド人、はたまた彼らに似ていると言われる日本人が無口で暗いというわけではないのだろうが、たいていのことは口に出さなくても伝わるもの、といった雰囲気が前提に漂うカウリスマキの作品は日本人の心にぐっと突き刺さるものがあるのだ。
カウリスマキは日本の名匠、小津安二郎に多大な影響を受けたという。下の動画は小津の写真を前にカウリスマキがあれこれ語るという趣旨のものだが、カウリスマキを知らないという人も、小津の映画を観たことがないという人も、4分足らずのこの動画でアキ・カウリスマキがどんな監督なのか漠然とわかってもらえるのではないだろうか。カウリスマキという人は話を聞いているだけでも非常に面白い人です。
ところで、カウリスマキの映画は不幸な人間ばかりが主人公なのに、どこか可笑しくて思わずにやりとしてしまうのはなぜか。この可笑しさはいったいどこからくるのだろう?カウリスマキがおかしいのか?フィンランド人というのは滑稽な人間ばかりなのか?
カウリスマキの映画に出てくる、寡黙な人々というのはフィンランドという国の風土を強く反映しているに違いない。私は寒い地方の人間だから、寒い国の人々は口数が少なく感情を心の奥に閉ざすということを日常的に知っている。そこから生まれる可笑しさについても。そんなものだから、カウリスマキの映画で描かれる舞台はどうみても北欧の風景にしか見えないし、フィンランドにも行ったことはないけれど、私はほかのどんな外国映画よりもカウリスマキの世界の親しみを感じ、異常な愛着を持っている。
「人生の意味とは、自然と人類を大切にする自分のモラルを作り上げ、それを持ち続けること」
これは「人生の意味とは何ですか?」という小学3年生の質問に対するカウリスマキの回答だ。スナフキンというか、ソローの名言集にでもそっくりそのまま出てきそうな言葉である。そういえば若い頃のカウリスマキはどことなく顔もスナフキンに似ている。
カウリスマキは学生の頃、編集者として大学誌の手伝いをしながら映画評論も発表していた。シネフィル時代のカウリスマキが書いたものはあまり知られてはいない。評論は恥ずかしくなって辞めてしまったそうだが、82年に発表された「脚本家の死」という文章からは、映画、そして人生に対するカウリスマキの信条がみてとれる。カウリスマキが好きな人なら、なにか込み上げるものがあるだろう。
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「この国をどれだけ愛しているだろう。幾千とある湖、そして暗闇の冬の日々。ここで平穏に暮らせないとしても何の問題があるだろう。春、道を歩いてみよう。ほつれかけた袖でぶらぶら歩いていると、人々が七面鳥のような表情で好奇心をむきだしに視線を注ぐ。または、眠ろうとすると誰かがベッドの下から覗いて、居心地はいいかと尋ねてくる。ここで死さえ平穏に迎えられないとしても誰が問題にするだろう。
こうした条件すべての上に立つ私たちをひとつにするものとは、いったい何か。私たちは空を飛ぼうとするニワトリのようにかなわない欲求を抱えている。私たちには、共通の言語と文化、そして死も覚悟できているほどの、あえていうならば魂の共生といったものが備わっている。
私たちの中には、時代の黎明からの純粋さや原罪に先立つ無垢のようなものがあるのだ。」
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