2015-08-08
TEMPLES テンプルズ『Sun Structures』(2014)
スウィンギン・ロンドンの嵐が吹き荒れるカーナビー・ストリートをBIBAのワンピースを着て闊歩するのが夢だった。アントニオーニの『欲望』に描かれたあの時代の、曇り空のロンドンを生きるのが…… 仲間とLSDを嗜んで、お気に入りのレコードをかけて夜を踊り明かす。ビートルズの新譜を心待ちにしながら、不良ぶっているストーンズにもひそかにオネツで、部屋には案の定ドアーズのポスターが貼ってあったりして、ボーイフレンドはきっとクリームやバーズに夢中……
TEMPLES(テンプルズ)のデビューアルバム『Sun Structures』は、そのような幻想が2014年の今にでも現実のものになるのではないかという錯覚をもたらしました。2012年にロンドン郊外の田舎町で結成された20代半ばの彼らは、ギターサウンドを基調とした典型的な4ピースバンドではあるのですが、リバーブが深くかかった浮遊感溢れるサウンドにクラシックなサイケデリック・ロックの幻影を展開してみせます。甘い呪文のようなハープ、華やかに揺らぐ鈴の音、哀愁を帯びた魅惑的なオルガン、やけに反響するドラム、豊かに歪む12弦ギター。はたまたジョージ・ハリスンが用いたインドのへんてこな音、カート・ベッチャーの魔術的なハーモニー、不意に繰り出されるボラン・ブギー……
いかにも60年代的な、あるいは60年代の影響を直に引き継いだ70年代の音楽シーンを否応無しに浮かび上がらせる彼らの楽曲に、特出した真新しさを見出すことは難しいかもしれませんが、テンプルズの魅力はむしろレコーディング技術が進歩した現代に徹底して60年代の音そのものを作り出そうとする姿勢にあります。それを懐古主義と一笑することは簡単ですが、ここまで露骨に馬鹿正直に、60年代への愛を表出するバンドの出現を私たちはずっと待ち焦がれていたのではなかったでしょうか。音楽が力を持っていた時代を愛し、音楽の可能性を頑に信じている新たな世代が世界中に散らばり、世界が熱狂したひとつの時代に想いを寄せている……テンプルズの登場はまさにその現実を象徴する出来事であって、彼らは古きものへの憧憬が露呈されることを怖れずに、デビューアルバムをもって啓示しました。
ヒッピーは絶滅し、サマー・オブ・ラブはとうの昔に終焉を迎え、もはやどんなに切望しても曼荼羅にテクニカラーを塗りたくったあの時代を生きるという願いが叶うことはありません。ですが、作り出すことはできるのです。それは必ずしも時代の逆行を示すものとは限らないでしょう。テンプルズの屈託のないやさしいメロディーは未来を祈るように響きわたります。シド・バレット―マーク・ボラン―デヴィッド・ボウイ……UKロック史における偉大な道化師の系譜を見事に踏襲したかのような佇まいのフロントマンに、私たちはスターの面影を重ねながら、いま、壮大な夢を託そうとしているのかもしれません。
*****
2015年2月22日に開催された Hostess Club Weekender にて彼らのステージを真近に観ることができたのですが、意外や意外、なかなか骨太なロックを響かせてくれた驚きと、若い女性の黄色い声が耳に残っています。かく言う私もミーハー心丸出しで前方へ移動し、浮世離れした甘いルックスにうっとりしていたのは言うまでもありません。
2013-06-26
Chantal Goya シャンタル・ゴヤ、ゴダール『男性・女性』のヒロイン
彼女は自分の世界を創る
いきいきとして優しく/デリケートで美しい顔
美しい歯 美しい肌/美しい骨格 美しい微笑
繊細な表情と/軽快で優雅な身ごなし
豊かな芸術的感受性に/恵まれた真実の美しさ
精神の怠惰ではなく/本能の誠実と明晰
シャンタル・ゴヤ(Chantal Goya/1946年-)は60年代半ばに活躍したフランスのアイドル歌手。いわゆるイェイェ(アメリカやイギリスの新しい音の影響を受けた大衆音楽、フレンチ・ポップス)時代の全盛期にデビューした。ゴダールの『男性・女性』(1966年)のヒロインとして有名。
お母様がカンボジア人だそうで、ちょっぴりエキゾチックで日本人受けしそうな可愛らしい顔立ち。映画出演時は19歳で、まだあどけないほんわかした雰囲気の女の子だけれど、骨格がしっかりしたお顔なので、ふとした表情に高貴な強さ、厳しさも感じさせる。音程・リズム感が危うい舌足らずな子供っぽい歌声も愛くるしく、『男性・女性』以外の姿は拝見したことがないけれど、瞬く間に私は彼女の虜になってしまった。
『男性・女性』ではマドレーヌという名前の新人アイドル歌手を演じ、等身大の役柄のようだ。彼女のモットーは化粧をしないこと、ハイヒールをはかないこと、スカートもジュニア風。本当に薄化粧らしく、おでこの吹き出物もばっちり映っていてそのことがとても微笑ましく思えたり。癖のように幾度となく髪に手を触れる仕草に胸キュン。
いつもは小難しいゴダールだけれど、この映画は初冬のパリをはしゃぎ回る若者の姿を生き生きと捉えていて、カメオ出演で豪華アイドルも登場して可愛らしい青春映画といった感じ。とにかく声が可愛いシャンタル・ゴヤ。マドレーヌのモノローグと劇中のイェイェは、カタルシスにも似た作用を引き起こす。
キュートなゴヤちゃん(そう呼びたくなるのはなぜ?)に憧れて、無謀にも髪型を真似ていた時期があった。母親がアジア人で黒髪のおかっぱという馴染みのあるスタイルに親近感が沸いてしまったのだけれど、肝心な顔のパーツが全く別物だということを完全に忘れていた私は、どう見てもちびまる子ちゃんなのだった。鏡に向かって「髪型は可愛いけどなんか違くない?」と自問自答していた思い出がよみがえってくる...。
映画の挿入歌も収録されている彼女のベスト盤は現在も入手可能。
躍動感あふれる「tu m'as trop menti」は、60年代にトリップした雰囲気が味わえる大好きな曲!イェイェを代表する名曲だと私は思っている。
Magic Records (2008-06-03)
2013-06-24
60sイギリスのファッション・シーン、スウィンギング・ロンドン!『ジョアンナ』(1968年)
60年代のファッション、カルチャー・シーンに何らかの影響を受けて生きている。この歳になってもずっと憧れ続けているのだから我ながら飽きれてしまうのだけど、もはやあの時代に思いを馳せることは精神療養のような行為としか言い様がない。文学はビートニク、映画はヌーヴェル・ヴァーグ、音楽とファッションは英国を贔屓にしている。やはり60年代半ばのイギリス、スウィンギング・ロンドンの時代はファッション界、音楽界ともに華やかな顔ぶれも相まってひときわ眩しく映るのだ!
*
1968年のイギリス映画『ジョアンナ』はそんなスウィンギング・ロンドンの空気に思う存分浸ることができる。当時のファッション・シーンを心行くまで楽しむことも。物語自体はなんてことはない、美術学校に通う女の子が主人公の恋愛中心の能天気な青春ドラマなのだけれど、当時のロンドンの街並と、ファッション、アート、インテリアを彩るポップでサイケデリックな配色に彩られた映像が退屈させず、45年経った今でも色褪せない魅力が満載だ。音楽もなかなか凝っていて、馬鹿馬鹿しくしょうもない発想が最高にクールだったあの時代にありがちな、しかし美術と衣装と音楽はやたらとセンスが良いという映画の典型でもあろう。
主人公のジョアンナを演じたのはジュヌヴィエーヴ・ウエイト(Genevieve Waite)という南アフリカ出身のモデルで、長い手足と痩せた身体で着こなす原色多様使いのファッションがまァ素晴らしい。細く長い足はカラータイツがよく似合う。少年のような体型でショートパンツのスタイルが多いけれど、ぐりんぐりんに巻いたショート・ボブと強烈なアイ・メイクは女の子らしくてキュートだし、顔は好みが別れそうだが、着せ替え人形のようにめまぐるしく変わるジョアンナのファッションには感動すら覚える。ジョアンナを取り巻くメンズのファッションもお洒落!ジャック・ペランに似た芸術家を演じるクリスチャン・ドーマーが素敵!(「日本橋」と文字入れされた法被を着ている!)
冒頭、ロンドンの駅に到着した列車から大きなトランクを抱えたジョアンナがホームに飛び出して来るまでの映像の繋ぎ方、再び駅のホームで迎えるラストが秀逸だ。室内のシーンには当時のロンドンっ子も熱狂したであろうモンロー、バルドー、ジェームズ・ディーン等のポスターがさりげなく映り込む。ジョアンナが薄いピンク色のシフォンのドレスを着て漫ろ歩くロンドンの街、公園を駆け抜けるシーンは夢のような気分。スウィンギング・ロンドンの様相を垣間みることができるストリートにも感激。ジョアンナが友人と買い物袋をぶらさげて街を闊歩するシーンに登場するのは、60年代の代表的なデザイナーズ・ブランド「BUS STOP」だ。「ハロッズには何から何まで売ってるわ!」「ボンド・ストリートにグッチがあるわ!」という何気ない会話にもいちいち想像が膨らんでしまう。
しかしこの映画、二度目の鑑賞で単純で楽天的なだけの作品ではないと感じた。こっちへフラフラ、あっちへフラフラとすぐに男と寝てしまうあまりにもオツムが弱そうなジョアンナは、性の解放が叫ばれたこの時代の若者の象徴ともいえる(現在にも十分いそうだが)。60年代に性の解放を描いた映画は数多ある。しかし『ジョアンナ』はそれだけで終わってしまう物語ではないようだ。愛のないセックスに疲れたジョアンナは傷ついて涙を流し、愛する人は黒人であるがゆえの問題を抱え、中絶手術をした友人もなんだか自分が空っぽになってしまったみたい、と後悔する。美術史の先生が授業で言う、「バロックは古典主義への反抗でしかない」と。
セックス、中絶、黒人問題と、今更になってみればいかにも60年代的な映画のように捉えてしまいがちだが、ジョアンナの経験には現代の若者にも通じるストレートで普遍的なメッセージが込められている。『ジョアンナ』はまぎれもなく実直で優等生な映画だ。ファッションや美術の完成度を差し引いてもジョアンナの青春物語にどこか胸を打たれる想いがするのは、そういった強いメッセージ性のためであろう。本作のようにキッチュな60年代の愛らしいB級映画は、この先時代を重ねるごとにどんどん貴重になっていくのかもしれないし、未だDVD化されていない60年代の幻の映画たちに一作でも多く出会えるよう願う!
ジョアンナ
製作年:1968年 製作国:イギリス 時間:115分
原題:JOANNA
監督:マイケル・サーン
出演:ジュヌヴィエーヴ・ウエイト,カルヴィン・ロックハート,クリスチャン・ドーマー,グレンナ・フォースター=ジョーンズ,ドナルド・サザーランド,フィオナ・ルイス
2013-06-22
サントラはお好き?(2)『男と女』音楽:フランシス・レイ、ピエール・バルー
それまで無名であったクロード・ルルーシュが10人足らずのスタッフと、わずか三週間で作り上げた『男と女』(1966年・フランス)は数々の映画賞に輝き、フランシス・レイ作曲による「ダバダバダ〜」の主題歌でも有名。ダバダバ・スキャットとフランス語の響きが醸し出す物憂い雰囲気は、数多ある恋愛映画とは一線を画すように思う。
初めて観たのは二十代前半のとき。知的で情熱的なレーサー、ジャン=ルイ・トランティニャンとギリシャ彫刻のような絶世の美女、アヌーク・エーメのカップルが、ただただひたすらに眩しかった。降りしきる雨のなか、ワイパーが作動するガラス越しでの車内の会話シーンが目に焼き付いている。そして耐久レースの後、埃まみれになったボロボロの車で六千キロもの距離をぶっ飛ばしてアンヌのもとに駆けつけるジャン=ルイに惚れ惚れ。
そう、この映画は車が重要な脇役として物語を盛り上げるのだ。モンテカルロ・レースだとか(実際に登録して出場してしまう監督の心意気にも驚き!)フォードのプロト・タイプだとか言われても女の私にはまるでお手上げだけれど、なぜだかそのことがろくすっぽ理解できない男の世界を象徴しているようにも思えたのだった。
ある程度の歳を重ねてからでないと本当の意味でこの映画の惹き付ける魅力というものは分からないのかもしれない。しかしながらモノクロとセピアを織りまぜた小憎たらしい演出(ただ単に予算が足りなかっただけらしい)と、繰り返されるボサノヴァの甘いメロディーにのせて描かれる大人の男女の真理は、若い娘をも陶酔させるだけの説得力があった。そしてシンプルだけれど美しい、この映画のような男女の物語に憧れながらアンニュイな気分に浸りたいとき、背伸びして何度もこのサントラを聴いた。
思わず口ずさみたくなる「男と女のテーマ」を歌っているのは、共に監督の友人であるニコール・クロワジールとピエール・バルー。バルーは俳優としても出演していて、アンヌの亡き夫役(ブラジル音楽を愛するスタントマンという設定)で、ギターを弾きながら歌声を披露している。それもそのはず、彼は十代の頃に音楽活動をしながら各国を放浪し、ポルトガルで出会ったブラジル音楽に陶酔、のちに「Saravah」(サラヴァ)というレーベルを立ち上げ、数々の名盤をフランスから発信した人物だ。
バルーがフランス語で歌う「男と女のサンバ」もテーマ曲に劣らず素晴らしい!(原題は「samba saravah」)劇中ではアーティストのビデオクリップのような扱い方をされていて、当時はこれが画期的な手法だった。『男と女』は映像と音楽が総合芸術であることを再確認させてくれる映画であり、さらにブラジル音楽の素晴らしさも伝えてくれるのだ。
僕の幸せを求め 陽気に笑い 歌う/心ゆくまで味わう 人生の喜び/
哀愁のないサンバは 酔えない酒と同じ/そんなサンバは心に響かない/
哀愁のないサンバは まるで美しいだけの女/これはモライスの言葉/
詩人の外交官 この歌の作詞家/"黒い白人"と公言した男/
僕もブラジル風フランス人/恋のサンバを語る/
恋人に口も利けぬ男が 彼女を歌でたたえる/
こんなサンバに不快な人もいるだろう/困った流行だと嫌う者もいるだろう/
僕は世界中を巡り/放浪を重ねて捜し求める/
深い歓びを/サンバを踊り続けよう/
ジョアン・ジルベルト、カルロス・リラ、ドリバル、アントニオ・カルロス・ジョビン、モライス、バーデン・パウエル
この歌を始め 名曲の生みの親たち/敬意を表して 大いに飲もう/
いざ乾杯 偉大な作曲家たちよ/サンバの申し子 サラヴァ!
ピシンギーニャ、ローザ、D・デュラン、シルビオ・モンテロ
そしてエドゥ・ロボと/ここにいる友人に乾杯/
バーデン、イコ、オズワルド、ルイジ、オスカル、ニコリノ、ミルトン
サラヴァ!
その名を聞くだけで 僕は身が震える/感動を呼ぶ数々の名/
サンバをたたえよう
バヒアの港から生まれた このリズムと詩/
サンバを踊り 苦しみを忘れた日々/
万感の思いを込めた歌
その言葉は白人のものでも
これは黒人の魂を/万感の思いを込めた歌
その言葉は白人のものでも
これは黒人の魂を/万感の思いを込めた歌
—『男と女』より
*
「サラヴァ」とはポルトガル語で、"神の祝福があるように"という意味。この曲には元々、「イパネマの娘」で知られる詩人ヴィニシウス・ヂ・モライスによるポルトガル語の歌詞があり、バルーはフランス語版を作詞した。バルーの歌詞にはボサノヴァの生みの親である音楽家たちの名前が列挙されていて、次から次と歌われる名前を聴いているだけでも楽しい!フレンチ・ボッサの先駆けともいうべき名曲であろう。
オーマガトキ (2004-12-01)
2013-06-21
サントラはお好き?(1)『ロシュフォールの恋人たち』音楽:ミシェル・ルグラン
フランス映画のサントラといえば、このお洒落なピンクのジャケットが真っ先に思い浮かぶ。おそらくフランス、60年代のポップ・カルチャーが大好きな人間にとって、このサントラはもはやマストアイテムというか、これ知らんならモォ出直して来い!って息巻いて突っ込まれることは確実であろう(かく言う私もあまり偉そうなことを書ける資格は毛頭ないのだが)
*
フレンチ・ミュージカルの至宝、ジャック・ドゥミ監督の『ロシュフォールの恋人たち』(1967年)はどうしても要所要所で突っ込みたくなるけれど、それゆえに大好きな映画。ミシェル・ルグランのスコアも本当に素晴らしい!映画の中身よりもルグランの音楽、特に「キャラバンの到着」はよく知られている。もうだいぶ前になると思うけれど、車のCMにも使われていた。私はそちらを聴いてからの鑑賞だったので、映画が始まって間もなく思いもよらず流れてきた「キャラバンの到着」に驚いて、食い入るようにダンスシーンを見つめたのを覚えている。
ドヌーヴとドルレアックの美しい姉妹が現われると、ファッション、小物、画面を彩るパステルカラーのポップな色使い、すべて可愛いらしくて夢のような気分だった。そして、この映画のハイライトシーンとも言える姉妹のデュエット「双子姉妹の歌」を聴いてさらに胸が躍るような想いになった。どこで耳にしたのかははっきりと記憶にないのだけれど、私は「双子姉妹の歌」も知っていたようなのだ。「ミファソラ〜ミレ」と音階をそのまま歌ってしまう箇所にあまりにも自然に同調してしまい、涙が出そうになった。そして迷わず、サントラ買う〜!となったのだった。
現在は二枚組の完全版もCDで出ているのだけれど、ジャケットはオリジナルのアナログ盤と同じピンクのデザインのほうが断然!可愛い。実は中高生の頃ポストカードを集めていて、このジャケットとまったく同じポストカードを持っていた。とてもお気に入りで部屋の壁に貼っていて、当時はそれが『ロシュフォールの恋人たち』という映画のものだとは知らなかったし、数年後にスクリーンでポストカードの中の二人の女性に出会うとは思ってもみなかった。このジャケットにはそんな不思議な思い出がある。
ユニバーサル インターナショナル (2002-05-02)
2013-06-18
ゴダールによる言葉をめぐる冒険と愛の物語、『アルファヴィル』(1965年)
おびただしいほどの言葉の氾濫。まずそのことに圧倒され、一度観ただけではこの映画の力のなんたるかを理解することは難しい。物語自体はそれほど複雑なものではないように思う。すべてをコンピュータで管理し、人々の感情を統制する銀河系の都市アルファヴィル。アルファヴィルの中心である巨大な電子指令機「α60」を操るフォン・ブラウン教授は悪であり、その娘ナターシャは「α60」の魔法にかけられたお姫様であり、ジョンソンは眠り姫を救うため悪と闘う王子様のようだ。
そんなありふれた童話を連想させる物語は言葉で埋め尽くされる。アルファヴィルの実態は言葉(音声)で説明され、くぐもるような不快な声で洪水のように流れていく。言葉(音声)はこの映画を構成するもっとも重要な要素であり、むしろ言葉が主役であると断言してもよいだろう。
しかしそれを嘲笑するかのように、この映画に描かれるアルファヴィルの人間には言葉の意味は知覚されない。アルファヴィルに暮らす人々は「α60」の命令のままに行動し、外部の国のことを考えるのは禁止されている。ホテルに到着したジョンソンは、そこで出会うすべての人間と会話が成り立たないことに唖然とするのだった。
アルファヴィルの人間が出会ってすぐに口にする「元気です、ありがとう、どうぞ」という言葉、これは「こんにちは、元気?」「ありがとう、元気だよ、あなたは?」という一連の挨拶を端折ったものだと考えることができるだろう。そしてこの台詞は「α60」による言葉の合理化の象徴とも言うべき重要なキーワードだ。
ジョンソンが跡を追って来た仲間のアンリは「why」という単語の意味がわからない。彼は次第に言葉を忘れている。こうしてさまざまな単語と表現は「α60」によって新たな意味へとすり替えられ、人々はコントロールされていく。
この映画は言葉をめぐる哲学であると同時に、過去と未来の物語である。そのことは劇中でも説明される。《人々は未来よりも過去のことを考えすぎるが、その過去を振り返るという行為こそ「α60」に対して効力を持つ》というのである。
アルファヴィルの住人にとって過去を振り返るということは涙を流すことであり、愛情を取り戻すということだ。ナターシャが「愛しています」という言葉を発して解放されるというのはいかにも!という感じで若干しらけてしまうが、愛情で「α60」を破壊するという発想もゴダールらしいといえばゴダールらしいテーマである思う。
そこで私の興味をもっとも引いたのは、この映画が過去と未来の物語とされていることだ。過去とは、未来とは、いつの時代を指すのだろうか?この映画が製作された1965年を現在と考えれば、コンピュータに管理された世界というのはそう遠い未来の出来事ではないはずだ。人間がコンピュータ(機械)に支配されるという構図はすでに数十年も前からさまざまな芸術で取り上げられてきたテーマであり、特に珍しいものではない。にもかかわらずこの映画には真新しさ(それこそがゴダール映画の精髄とでもいうべきか?)のようなものが感じられるのだ。
面白いのはアルファヴィルの住人に関する部分である。もっともらしい説明はアルファヴィルでは芸術家が排除されるという点だ。「150光年前の社会には小説家や音楽家がいたはずだがアルファヴィルにはまったくいない」という台詞が出てくる。芸術家は変なものを書くからという理由でアルファヴィルでは消されてしまうのだという。
おそらくゴダールはこの映画を撮った時点で、自身ないし映画界を取り巻く環境に何か違和感や危機感のようなものを抱いていたのではないだろうか。ゴダール自身の抱える苛立ちや苦悩、映画人として生きることへのしがらみや葛藤、娯楽ではないなにかというスタイルの映画を撮り続けるゴダールに対する風当たりの強さというものを想像せずにはいられない。そのような居心地の悪さを感じつつ、ゴダールは近い将来、芸術、大胆にいえば映画そのものはもはや取るに足らないものと見なされ、見向きもされなくなるだろうと予見しているのではないか?
さらに興味深いのは音と光の祭典といわれるショーである。アルファヴィルでは非理論的な行動をとった人間は非適応者とみなされ公開処刑される。具体的に紹介されるのは奥さんが死んだ時に泣いたという理由で殺される男だ。そこで語られるのはアルファヴィルに暮らす男女の比率が1:50という事実である。
アルファヴィルでは女性は生き残り男性は適応できずに死んで行く。アルファヴィルという未来都市は、女性によって創造されるひとつの階級社会ととらえることができるのだ。1965年はウーマンリヴがさかんに叫ばれ始めた時期であるから、そのような背景から生まれた発想なのだろうという見方もあながち間違いではないかもしれない。
この映画のダイナミズムを体験することはある種の苦行のようでもあり、幸福でもあり、まさにゴダール的な映画といった感じだが、それゆえ実験的な映画と捉えることもできるだろう。銀河系という言葉から単純にSF映画を連想するが、はっきり言って科学とはあまり関係がない。ゴダールによる言葉をめぐる冒険と愛の物語。そう考えるとしっくりくるのではないだろうか。
それにしても、この映画のシックなワンピース姿のアンナ・カリーナはいつも以上に魅力的、です。
アルファヴィル
製作年:1965年 製作国:フランス=イタリア 時間:100分
原題:ALPHAVILLE, Une Etranfe Aventure De Lemmy Caution
監督:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウル・クタール
出演:エディ・コンスタンティーヌ,アンナ・カリーナ,エイキム・タミロフ,ハワード・ヴァーノン,ラズロ・サボ,クリスタ・ラング
2013-06-09
追悼 レイ・マンザレク
今日はロックの日。普段はこういった語呂合わせのイベント事などはあまり意識したことがないのだけれど、ちょうどドアーズの記事を書こうとしていたものだから、このタイミングはなんだか不思議な気持ち。
*
去る5月20日にドアーズのオルガニスト、レイ・マンザレク(Raymond Daniel Manzarek - 1939年〜2013年)が胆管癌で亡くなった。ドアーズのキーボードと紹介されている記事をウェブでいくつか目にしたけれど、ドアーズのサウンドを決定付けていたのは紛れもなく彼の電子オルガンだったから、キーボードという書き方はあまりしっくりこないなあとぶつぶつ呟きながら、美しく狂気じみたその音色を思い出していました。
レイの訃報は21日の夜、たまたまつけたテレビのスターチャンネルかWOWOWの番組で流れたテロップで知った。ドアーズというバンド名を見たとき、一瞬ジムの顔が過って、だいぶ昔にもう死んでるけどなァ?と寝惚けたことを思い、やがてインテリジェンスな物腰のレイを想い浮かべて悲しいというよりは驚いた。
というのも前日の夜、なんとなく棚の奥からドアーズの紙ジャケを引っ張り出してきて、何をすることもなく眺めたばかりだったから。CDは聴かなかったけれど、ドアーズの楽曲のなかで私がもっとも好きな「Touch Me」が収録されている『Soft Parade』のジャケットが見えるよう棚の一番手前に置いたのだ。びっくりするような偶然だけれど、ドアーズだけにこんなストレンジな出来事も、なんでも起こりうるような気がして少し笑ってしまった。
それでもやはりレイの死は悲しい。一番好きなバンドは?と聞かれたら相当悩むけれど、私はドアーズを挙げるような気がしています。今はもう以前のように彼らを、特にジム・モリソンを神格化も崇拝もしていないけれど(ドアーズのファンには程度の違いはあれそういう時期が存在すると思う)、ドアーズの音楽を聴くと単純にもの凄く元気になれる。ジムの呪文のようなバリトンも、時にヒステリックなレイのオルガン、淀むように壮絶な「The End」でさえも、なぜだか不思議とパワーが漲ってくる。私にとってドアーズはずっとそんなバンドなのです。
60年代を体現したロックスター、ドアーズの象徴はジム・モリソンだ。けれど、サウンドの要は間違いなくレイだった。不安定なジムに振り回されながらも忍耐強く付き合い、ステージ上でジムをコントロールしていたのはレイだった。もしかしたらドアーズはレイのバンドだったと言い切ることだってできるかもしれない。ドアーズにはベースがいないから、レイがあとから低音を録音していたと聞いた。そして、「Light My Fire」の印象的な序奏!この曲で彼らを初めて知ったとき、ジムのヴォーカルは怖いような気がしたけれど、レイのオルガンの調べで私はドアーズが好きになったのだ!
Rhino (2011-07-05)
2013-01-20
『勝手にしやがれ』のファム・アンファンなパトリシア、縞模様ファッションのジーン・セバーグ
—ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン!
シャンゼリゼのど真ん中で大声を上げながら新聞を立ち売りするアメリカ娘のパトリシア。『勝手にしやがれ』(ジャン=リュック・ゴダール、1959年)の、そしてヌーヴェル・ヴァーグの象徴としても有名なこのシーンで、ヒロインのパトリシアを演じたジーン・セバーグはなんともファム・アンファン(少年のような魅力を持った女性)な出立ちで登場している。新聞社のロゴの入ったぴったりとしたTシャツにサブリナパンツ、足元はぺったんこシューズ、小さな巾着のバッグを持ち、髪型は超ショートのセシルカットだ。
この作品は今観るとお洒落でファッショナブルな映画、ぐらいに捉えられるのが一般的だと思うのだが、ジーン・セバーグのファッションは、実は当時のパリの流行でもなんでもない。フランス人が抱いていた、性に対して解放的だというアメリカのヤンキー娘のイメージを反映させたファッションにすぎないのだというから驚きだ。Tシャツ姿のセバーグに向かって「ブラジャーつけてねぇのか?」と言うベルモンドの台詞からもそのような意味が汲み取れるかもしれないが、当時の日本人ももちろんパリの最先端のファッションと受け取っていたようだ。
オードリー・ヘプバーンの影響でサブリナパンツが爆発的な人気を誇ったのが1954年以降だから、この映画の公開が1960年ということを考えるとパンツスタイルはすでに定番のファッションであったのだろうと推測されるが、もの凄いラフな恰好のようにも感じられる。そしてセバーグの持つ中性性を際立たせているのは、なんといってもモンチッチばりのセシルカットであろう。
パリの(というかこの映画の)イメージが強すぎて、私自身いまだにセバーグがバリバリのハリウッド女優ということを忘れてしまうのだが、スウェーデン系アメリカ人の娘としてアイオワ州に生まれたジーン・セバーグは、もともとロングヘアの美少女であった。17歳のときに1万8千人の中からオットー・プレミンジャー監督の『聖女ジャンヌ・ダーク』の主役に抜擢されてデビューするが、このときジャンヌ・ダルクを演じる為にばっさりと髪を切っている。この作品は興行的にもふるわず、プレミンジャーはセバーグの演技に不満を爆発させまくっていたそうだ。
にもかかわらず、プレミンジャーはベストセラー小説『悲しみよこんにちは』を映画化するにあたり再びセバーグに主役を与えた。フランスの小説をハリウッド映画へと作り変え、主人公のセシルを文学好きな夢想家の少女から活発なブルジョワ娘へと大幅に変更、そしてセバーグをジャンヌ・ダルクと同じ少年のような短髪で出演させたのだった。セバーグの容姿が放つ溌剌とした健康的な明るさと、それとは対照的な思春期特有の不安定な脆さがうまく描かれた映画であるが、こちらも興行的には失敗している。しかし斬新なセバーグの髪型はセシルカットと名付けられ、世界中で大評判となったのだった。
『勝手にしやがれ』を撮影する際、ゴダールはセバーグに対し、「君は2年後のセシルということでいい」と伝えた。ゴダールの要望通りセシルカットで登場したセバーグは、終始ファム・アンファンな魅力を振りまいている。ゴダールは俳優の見せ方、とりわけ女優の魅力を引き出すことにかけてもかなりの名手である。アンナ・カリーナを筆頭に、この映画のベルモンドもそうだが、無名の俳優を一気にスターの座へと導いた。ジーン・セバーグも例外ではないだろう。プレミンジャーによって引き出されたセバーグのキャラクターを踏襲させたのは、おそらくゴダールにとってセバーグの子供っぽいユニセックスな雰囲気そのものが、インスピレーションの源になっていたからに違いない。ルノワールの少女像の横にセバーグを立たせた演出からもわかるように、この映画でゴダールはセバーグの美しさに対して溢れんばかりの賛辞を並べ上げている。
とはいえ、当時のフランス人が想い描いていたステレオタイプの開放的なアメリカ娘であるパトリシアは、子供っぽいようでいて本心は決して明かさず、狡賢いようなところもあり、なかなか掴みどころのない女性である。ベルモンドに「とびきりの美人というわけではないが、20点満点中15点といった感じの個性的な女」「ちょっと変わった女」と言わせていることからもパトリアがパリの女とはまるで違っていることがうかがえるのだが、パトリシアはパトリシアで一言目にはフランス人への不満を漏らし、「パリっ子のスカートってダサイ」と平然と言ってのける。パリがモードの中心であるという世界的な常識を考えれば、これはおそるべき台詞である。
パトリシアはどちらかというとファッションにはあまり興味がない女性のように描かれている。とりわけパリの流行にはまるで感心がない。パトリシアの目下の希望はアルバイト先の新聞社で記事を書かせてもらうことだ。パトリシアの部屋で繰り広げられる会話のシーンからパトリシアの興味の対象が明らかになる。絵画、クラシック、とりわけ文学への憧れが顕著なようだ。
それでも、パトリシアのファッションの趣味がおもしろいほど一貫していることには誰もが気付かずにはいられないだろう。パトリシアはいつも縞模様の洋服ばかり着ているのである。シャツもワンピースもタンクトップも、パトリシアの部屋で待ち伏せているベルモンドが着ているバスローブにいたるまで、なにもかもが縞模様なのだ。おまけにパトリシアがパジャマ代わりに着ているベルモンドのYシャツも縞模様ときている。
『勝手にしやがれ』が公開された当時のショックはいかなる手を使ってももはや体感することができない。どんなに強く望んでも、繰り返しビデオを観ながら想像することしか、誰かの記憶を掘り起こしてまとめられた書物から知り得ることしかできない。それがいまさら何になろう?と否定的に考えることもあるけれど、私はいつものように再生ボタンを押してしまう。
ヌーヴェル・ヴァーグの神話に生きるジーン・セバーグ。鏡のなかの、しかめっ面の彼女は今日も私をほんのすこし切なくさせるのだ。
勝手にしやがれ
製作年:1959年 製作国:フランス 時間:90分
原題:À bout de souffle
監督:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウル・クタール
脚本:フランソワ・トリュフォー
出演:ジャン=ポール・ベルモンド,ジーン・セバーグ,ジャン=ピエール・メルヴィル
2012-11-18
ルー・リード
ルー・リードの唇が好き!などと書いてしまうと、どこかヘンタイめいた趣の内容になってしまいそうだけれど、ヴェルヴェッツ時代のルーはセクシーでチャーミングだったにもかかわらず、その素敵な容姿について語られることはまずない。まあ殊更に語る必要もないわけだが、私はルーの顔が好き。ガラガラヘビみたいな口元が特に好き。くっきりとした輪郭に口角がきゅっと上がっていて本当にセクシーなんだもの。“ひどくオネツ”っていう言葉も誇張されたものではないと思う。この、冒頭に引用した証言は音楽誌の編集者だったダニー・フィールズによるものだ。この人、ポールの嫁リンダの親友だったり、ドアーズのジムにニコを紹介したりイギーやラモーンズのマネージャーもやったりして、すごい経歴の持ち主である。
上の動画、ルーの唇マニアが思わず狂喜乱舞するであろう映像!(コーラの瓶になりたい...というコメントに共感する気持ちも分からなくはないけれど...)これはウォーホルによるスクリーンテストと呼ばれている作品で、1964年から66年のあいだにファクトリーに出入りしていた人物を肖像画のようにカメラに収めたもの。これがものすごい人数にも及ぶらしい。DVDも発売されたけれど今は廃盤になっていて入手し難くなっている。デニス・ホッパー、ボブ・ディラン、ニコ、イーディ、ギンズバーグといったお馴染みのメンバーや、ウォーホルの映画に出演していた連中の顔はYoutubeでも見ることができる。
スクリーンテストにも顔を出しているディランがファクトリーとウォーホルの取り巻き連中を嫌悪していたというのは有名な話だけれど、ルーもまたファクトリーから距離を置いている人間のひとりだった。ルーは表面的にはファクトリーにうまく溶け込んでいるように見せかけながら最後まで完全には染まることはなかったのだ。ウォーホルはあらゆる人物にファクトリーを解放していたが、そこに集まる連中のやることなすことをすべて黙認するというのが彼のやりかたであり、面白い人物がいればひそかに観察することを好んだ。ルーはそんな覗き趣味のウォーホルをさらに観察し、ファクトリーで起こった出来事をネタに物語を引き出していった。ルーはつねに傍観者であり続けた。
スピードを打ちまくって三日に一度しか眠らず、あらゆるドラッグから引き起こされる症状をソングライティングに反映するという実験を試みていたルー。誰もが彼にオネツだったけれど、一方では偉大な才能、小柄な悪魔とも畏れられる。
しかし、ニコ曰く「ルーはとても優しくて、素敵な人だった。ぜんぜん攻撃的じゃないの。初めてかれに会った時、愛しくて抱きしめちゃいそうだった」そうである。ニコは本当にルーのことが可愛くて仕方がなかったらしく、あまりの可愛さにしょっちゅうホットケーキを焼いてあげていたそうだ。初対面の相手を「愛しくて抱きしめちゃいそうだった」というのはニコにしかできない発言であろう。ニコ姉さんレベルのオンナになると言うことが違う!のだ......。
それでもニコの「とても優しくて」という言葉に偽りはないのだろうという気がする。私がルー・リードの音楽でまず思い浮かべるのは『pale blue eyes』や『perfect days』や『〜says』といった優しい曲だ。ヴェルヴェッツのアルバムも3rdと4thを聴くことが多い。俺様至上主義的な発言が目立つルーは大胆で攻撃的で、観客の前でヘロインをぶっ射すという伝説、歌詞の内容から退廃的、破滅的なイメージを持たれることが多いけれど、本当に無茶苦茶な人のではなく、ルーが明知の人だからだ。(いや、当時は無茶苦茶だったのかもしれないけれど)それに、己を知っている人間、自分自身を客観視できる人間というのはたいがい自分のこと以上に他人に対する優しさを持ち合わせているように私は思うから。だからこそヴェルヴェッツの、ルーの、攻撃的で暴力的なサウンドの裏側にはいつも優しさがつきまとうように感じられるのかもしれないな。
Polydor / Umgd (1996-05-07)
2012-08-19
2012-04-10
ひとりの女と大金をめぐる二人の男の物語、またの名を「はなれ一味」 ジャン=リュック・ゴダール『はなればなれに』(1964年・フランス)
トリュフォーの『突然炎のごとく』のもっとも印象的なシーンに、ヒロインのカトリーヌが「つむじ風」という仲間内で作ったシャンソンを披露する場面がある。このシーンに感動したゴダールはトリュフォーの『突然炎のごとく』に対する答えとして『気狂いピエロ』を撮った。ヒロインのアンナ・カリーナが湖を臨む林の中でジャン=ポール・ベルモンドと「私の運命線」を歌うシーンがそれである。
トリュフォーとゴダール、どちらの作品もとても美しいシーンなのでそれについてはまた後日紹介するとして、ゴダールもまた、ひとりの女と二人の男という組み合わせで『はなればなれに』(1964年・フランス)という映画を撮っている。トリュフォーのように複雑な恋愛模様を展開させた男女の物語ではないが、若い男女の青春の一コマに大金が絡んだ痛快コメディといった感じの、ゴダール作品のなかではもっともお茶目でノーテンキな映画と言えるかもしれない。
原作は女流作家ドロレス・ヒッチェンズが1958年に発表した『愚か者の黄金』という推理小説で、ゴダールはこの小説をトリュフォーに薦められて読んだそうである。小説の舞台はロサンジェルスとその郊外だが、映画の舞台はパリとパリ郊外に、小説では数ヶ月の物語も映画では三日に集約されている。どこかロマンチックな香りのする第三者によるナレーションはゴダール本人によるもので、音楽は『女は女である』『女と男のいる舗道』に引き続き、ミシェル・ルグランが担当している。映画の冒頭で「ミシェル・ルグラン最後の?映画音楽」というクレジットがなされ、ギャグなのか予告なのかその狙いは定かではないが、ゴダールとルグランのコンビによる仕事は長編映画ではこれが最後となった。
『Bande à Part』という原題は「はぐれ軍団」とか「はぐれ一味」といった意味で、日本ではおなじみのズッコケ三人組、おとぼけ三人組といった呼び名がしっくりくるように思う。ひとりの女をめぐる二人の男という側面からこの映画を説明してみると、二人の男、フランツとアルチュールはともに犯罪小説マニアで、時間はたっぷりあるけれど金はない。二人はフランツが英語学校で知り合ったオディールという娘の叔母の屋敷にある大金を強奪する計画を立てる。フランツは美男子だがどこか向こう見ずな性格でいつも冷静だ。オディールからは「暗い」と言われている。一方アルチュールは短気で乱暴でフランツとは真逆の性格のように見える。しかし二人が唐突にはじめるビリー・ザ・キッドごっこや闘牛士ごっこの息はぴったりだ。フランツとアルチュールはまるでコインの表と裏のようである。
ヒロインのオディールを演じるのはやはりアンナ・カリーナだ。オディールのキャラクターを一言でいいあらわすとしたら、可憐な不思議ちゃんということになるのだろうか。アルチュールの言葉を借りれば、可愛いが頭が弱いということになる。自転車で曲がるときには誰もいない小道ですら必ず馬鹿丁寧に手で方向指示を出し、不安げな表情で「なぜ?」と「わからない」ばかり言い、ゴダール映画のアンナ・カリーナにしては珍しくひたすら受け身なヒロインである。オディールはアルチュールに一目惚れするが、粗野なアルチュールに対して怯えているようにも見える。うっかり名前を忘れちゃったとも言っているし、そもそも本気でアルチュールに一目惚れしたのかも怪しいところである。しかしオディールは最終的に二人の計画に加担する。粗暴なアルチュールと優しいフランツのあいだで揺れながらオディールははてのない夢を見ているようだ。
そんなことを書いてみたものの、この映画の面白さは物語そのものにあるのではなく細部にあるのだ。さきほども書いたオディールの自転車の件もそうだし、フランツとアルチュールの西部劇のヒーローの真似事や、アメリカ人観光客のギネス記録に挑もうと三人でルーヴル美術館を激走するシーンも傑作だ。実際には館内を走ることは禁止されていて、このシーンは一発撮りで警備員が止めに入る姿もしっかりと映っている。カンヌで公開される直前の『シェルブールの雨傘』のテーマが流れたり、トリュフォーの『柔らかい肌』への目配せなど、ヌーヴェル・ヴァーグらしい遊び心に満ちているのがなんとも微笑ましい。
そしてこの映画の一番の見せ場は三人がカフェですごす一連のシーン。「一分間黙っていよう」という沈黙から始まって、三人でダンスを踊るシーンまでの語りと音楽とサウンドの使い方だけでもゴダールが並大抵の監督でないことがわかるでしょう。うまいねえとしか言いようがないわけですよ。一分間の沈黙のシーンというのはアントニオーニの『太陽はひとりぼっち』にも似たようなシーンがあるのだけれど、アントニオーニは静と動の対比という形で沈黙シーンを織り込んだ。しかしゴダールの沈黙は一分と経たないうちに「飽きたからやめようぜ」と言う。このただの遊びにしか見えないシーンをさらっとやってのけるのがゴダールで、結局のところやはりゴダールはすごいということになるのですが、この踊りのシーンはどの映画でも観たことがない。カフェのシーンだけでも観るに値する素晴らしい作品だと私は思います。ゴダールだけれど小難しいことは一切なし、気楽に観れるというのも良いですね。
はなればなれに
製作年:1964年 製作国:フランス 時間:96分
原題:Bande à Part
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原作:ドロレス・ヒッチェンズ「愚か者の黄金」
撮影:ラウル・クタール
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:アンナ・カリーナ、サミー・フレイ、クロード・ブラッスール
2012-04-09
ひとりの女をめぐる二人の男の物語、もしくは純愛の三角関係 フランソワ・トリュフォー『突然炎のごとく』(1961年・フランス)
『突然炎のごとく—ジュールとジム』という映画の構想は、長編デビュー作『大人は判ってくれない』を撮るかなり前の時期からトリュフォーの頭の中にあったという。トリュフォーは映画批評を書きはじめた21歳のときに映画の原作となるアンリ=ピエール・ロシェという老作家の小説に出会い、いつか映画を作れるようになったとしたらこの小説を映画化したいと考えたそうである。この夢が実現されるまでには十年近くの歳月が費やされることになったが、長編映画を撮る機会にめぐまれたトリュフォーは、ひとまず『大人は判ってくれない』と『ピアニストを撃て』の二作品を習作のつもりで撮ったあと、大ファンであったアンリ=ピエール・ロシェの小説を映画化したのである。トリュフォーは三作目にしてやっと自分らしい恋愛映画を撮ることができたのだ。
アンリ=ピエール・ロシェが生涯に発表した小説はわずか二作で、1953年に74歳で処女作『ジュールとジム』を発表し、続けて『二人の英国女性と大陸』という小説を発表している。このふたつの小説は作者であるロシェ自身の人生と女たちの物語で、登場人物はすべて実在し、20世紀初頭のミュンヘン、パリ、ベルリンが舞台になっている。どちらの小説もトリュフォーが映画化した。『二人の英国女性と大陸』という小説は1971年に『恋のエチュード』というタイトルで映画化された(この映画についても後日募る想いを書きたいと思っています。)若きトリュフォーは老作家と文通し、小説の感想や映画化のアイディアをやりとりしていたのだが『突然炎のごとく』の映画化が決まってすぐにロシェは亡くなっている。
ひとりの女性をめぐる二人の男の物語という設定から、二人の男の対比が自ずと浮かび上がってくるが、この映画のテーマはジュールとジムという二人の男の対比を描くことではないように思う。ジュールとジム、そしてカトリーヌを中心とした三人の物語であることに間違いないが、一にも二にもカトリーヌの物語という印象の映画ではある。しかし語り手はジュールということになっていて、ならばジュールの物語であるかといえば必ずしもそうとは言い切れない部分があるし、なんといっても驚かされるのが、私はこの映画をこれまでに5回ほど観ているのだけれど、そのつど自己投影する人物が変わるのである。初めて見た時は同じ女性ということも手伝って強烈な個性をもった感情的なカトリーヌに、あらためて冷静に観ることのできた二度目の鑑賞はジムに、三度目になってもっとも理性的なキャラクターのジュールに、という感じで知らず知らずのうちに気付けば三人それぞれの立場でこの物語を見渡していた、というとても不思議な映画である。
ヒロインのカトリーヌは感情的で衝動的、わかりやすい言葉を借りれば自由奔放な女性として描かれている。カトリーヌのモデルは原作ではナボコフの『ロリータ』をドイツ語に翻訳したとして知られるヘレン・ヘッセルという女性ということになっているが、映画のなかでジャンヌ・モローが演じるカトリーヌはロシェの小説や日記に登場するさまざまな女性を綜合して作り上げられたキャラクターであり、非常に魅力的だ。カトリーヌはジュールと結婚するが同時にジムも愛し、他の男とも関係を持つ。そんなカトリーヌをジュールは許し、彼女のそばにいられることが自分の幸せだと確信し、それを実現させるためであればどんな苦労も惜しまない。カトリーヌが誰と寝てもかまわないし、ジムと結婚すると言い出してもかまわないのだ。
ジュールは基本的には理性的な男である。無条件でカトリーヌを愛し、ジュールにも絶対的な信頼を寄せている。ジュールとジムの友情というのは文学への愛情によって結ばれている。二人とも文学青年であるから互いに情緒的ではあるのだろう。ジムはカトリーヌを愛しながらも昔の恋人とのあいだをふらふらと行ったり来たりして、ジュールに比べるとどちらかと言えば感情に流されやすい。そういう点でカトリーヌとジムは似ているのかもしれない。
しかしカトリーヌとジムの恋愛感情が決定的に違うのは、カトリーヌと昔の恋人のあいだを右往左往するジムに対して、カトリーヌは目の前にいる相手だけを瞬間的に愛することができるという点である。カトリーヌの感情はジュールとジムのあいだで揺れ動くことはない。ジュールと一緒にいる時は彼を愛し、ジムが目の前に現れるとそこにいるジムだけを愛するからだ。それは『突然炎のごとく』というタイトルそのままに、突如として沸き上がる感情なのだ。
もしカトリーヌが同時に何人もの男性を愛するこができる女ならば、不倫という形で多くの男と関係を持ったとしてフローベールの『ボヴァリー夫人』のように描かれるだろう。そのように考えてみるとカトリーヌは実に律儀な女性なのである。解放的であるがゆえにジュールとジムという二人の男を裏切るような真似はしない。ジュールとジムの関係もカトリーヌが引き金となって壊れるようなことは決してない。この映画を面白くしているのはそのようなカトリーヌのキャラクターと、多くの恋愛映画とは一線を画した揺るぎない三角関係の描かれ方にあるのだろう。そんなことをあれこれ書いてみてもこの作品を前にしてみればすべて無駄である。この映画はもはや男と女の神話なのである。
2012-03-02
モニカ・ヴィッティ、アントニオーニ『太陽はひとりぼっち』(1962年・イタリア=フランス)
モニカ・ヴィッティ(Monica Vitti 1931年-)というイタリアの女優を知ったのはアントニオーニの『夜』(1961年・イタリア=フランス)という映画でした。これは私が初めて観たアントニオーニの作品でもあったのですが、マルチェロ・マストロヤンニとジャンヌ・モローが演じる倦怠期の夫婦の行動をひたすらドキュメントし続けるこの映画は極端に台詞も少なく、登場人物の内面を観客に伝えるような説明もなされず、まだそれほど多くの映画を観たことのなかった私には理解しがたく少々退屈に感じられるものでした。
しかし後半になって大富豪のパーティーのシーンに若い娘が登場し、彼女の姿が映し出されると映画の雰囲気が一転してこちらの視界もぱっと明るくひらけたような感じになったのを覚えています。それがモニカ・ヴィッティでした。当時、モニカ・ヴィッティとアントニオーニは恋愛関係にあり、アントニオーニ中期の作品に立て続けに出演しています。そして、アントニオーニのミューズとして、彼の作品を語るうえで欠かせない存在となります。
私が彼女の魅力の虜になったのは『夜』の次に撮られた『太陽はひとりぼっち』(1962年・イタリア=フランス)で決定的になりました。彼女の洗練された美貌は都会的な冷たさを感じさせるのですが、なんとなくどこかふにゃんと抜けているような不思議な印象を受けるのです。彼女のことを「けだるい」と表現されているのをよく見かけますが、まったくその通りで、けだるいのだけれど彼女の場合、それがそのままセクシーさに結びつくというわけでもないので、なかなか素顔がつかめない不思議な女優さんで、それもまた彼女の魅力でもあるのですが、やはりアントニオーニの映画に生きる、虚無感に苛まれた女というキャラクターがもっとも強烈であったがゆえだと思います。笑ったかと思えば作り笑いですぐ無表情になり、いつも不安げな表情を浮かべていて、アントニオーニの映画では笑顔の印象がほとんどありません。それでもやはりモニカ・ヴィッティは魅力的で、たったいま寝て起きたような無造作なヘアスタイルがたまらなく自然で大好きで、ふんわりした猫毛のような美しい髪にいつもうっとりしてしまいます。
この『太陽はひとりぼっち』という映画は決して取っつきやすいとは言い難い内容なのですが、疑問やテーゼに満ちた暗示的なシーンが多く、何度も繰り返して観たくなるような面白い映画です。実は作品への理解を一番ややこしくしているのが『太陽はひとりぼっち』という、いかにもアラン・ドロンにのっかった邦題なのではないかと思っています。原題の「Eclipse(エクリップス)」を辞書で引くと、天文用語の「食」とあり、ラスト数分の風景のシークエンスを観ていると日蝕のことだとわかります。邦題は意訳してあるというよりは、やはり前年の『太陽がいっぱい』にかけたものでしょう。この時代の邦題は『勝手にしやがれ』なんてのは最高にクールで、もはや何にも代え難いほど素晴らしいものもあれば、タイトルだけが一人歩きしているものも多いように感じます。流行の歌謡曲のタイトルをもじってつけたりとか、当時はそれがキャッチーでヒットしたのでしょうから、それはそれで良いのだけれど、時を経て私のような世代から見るとなぜこのタイトル?と疑問に思うこともしばしばあります。おそらく数十年後には昨今の映画の邦題も不思議に感じるのでしょうね。
この映画でもっとも目にとまるのは静と動のコントラストで、無機質で殺伐としたローマ郊外のニュータウン、怒号が渦巻く証券取引所で一喜一憂し、暴落で狂乱する人々の描写がだらだらと続いたあとの一分間の黙祷シーン。(ゴダールの『はなればなれに』で、一分間なにもしないでみよう、という沈黙の場面はここからきたのかなと思っているのですが)さらに静と動を一番端的にあらわしているのが、何を訊ねても「わからない...」という台詞が印象的な虚無感に苛まれるヒロインと、常に飛び跳ねているような軽薄で冷淡なブランド好きの底の浅い、アラン・ドロン演じる株式ブローカー。そして忘れてはいけないのが、モニカ・ヴィッティが黒人の真似をして突然はしゃぎまくるという滑稽なシーンです。
アントニオーニという人は本当に強烈な個性、視点を持った監督だと思います。本来ならば表立ってスクリーンに登場するはずのない監督自身の存在がそこにいる俳優以上に押し出されているように感じるからなのですが、この作品もいつもながら殺風景な舞台装置には現実味がなく、すべてがアントニオーニによる作り物だということを意識せずに眺めることは不可能です。前に書いた『欲望』ではそのあたりが意図的に抑えられていたように思いますが、それでも60年代のファッションを身にまとった痩せたモデルを横一列に並べたシーンには「俳優は壁」と言っていたアントニオーニの存在を十分に感じさせるものになっていました。
この『太陽はひとりぼっち』で私が驚愕したのはあまりに空虚なラスト数分間の風景のシークエンスでした。この映画を観た人間だけが感じられる「終わり」、それは物語の終わりなのかドロンとヴィッティの恋の終わりなのか、はたまたわたしたち人間の、世界の終わりなのかどうかわからないが、観た人間の数だけ解釈があるというのがアントニオーニの映画で、こうしてあらためて書いてみるとやはり偉大な監督だと感じます。
太陽はひとりぼっち
製作年:1962年 製作国:イタリア・フランス 時間:124分
原題:L'Eclipse
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
出演:モニカ・ヴィッティ、アラン・ドロン ほか
2012-02-26
活字のない世界、フランソワ・トリュフォー『華氏451』(1966年・イギリス=フランス)
近未来。活字のない世界。そこでは読書が全面的に禁じられ、本を読む者は反社会分子とみなされていた。すべてが耐火住宅になり、本来ならば火を消すはずであった「消防士」の仕事は禁止されている本を探し、それらに火をつけて燃やすこと......
*
数年前に母親が「昼間、BSで面白い映画をやってたわ。本が燃やされるのよ!それでみんなぜーんぶ暗記しちゃうの!華氏なんとかっていう...それが紙が燃える温度なのよ!」と興奮した様子で喋っていたことがあった。あまり映画を観ることのない彼女にしては珍しいこともあるものだと思い、私は一緒にはしゃぎたい持ちを抑え、あえて冷静に「あぁ、それはトリュフォーじゃないか」と答えたのだった。それから半年もたたぬうちに「あの映画、またやってたわよ」と母が教えてくれたのだが、ヌーヴェル・ヴァーグかトリュフォーの特集かなにかをやっていたのだろうか。残念ながら私はまだトリュフォーの作品をテレビ放映で観たことがない。ゴダールは父と一緒に『軽蔑』を観たおぼえがあるのだが。
*
私がトリュフォーの映画に惹かれる大きな理由は、そのどれもが本好きの人間のための映画のように思えるからだ。トリュフォーの映画では、書物を読む、手紙を書く、文章をタイプする、といった活字をめぐる行為が非常に重要な役割を果たしている。どの作品も読書好きのトリュフォーらしいユーモアに彩られ、本好きの人間であればその粋な心配りに親しみを感じるだろう。
そんなトリュフォーの書物への愛がひしひしと伝わってくるのが、この『華氏451』である。トリュフォーの監督作品としては4作目にあたる。活字が全面的に禁止された社会を描いたレイ・ブラッドベリのSF小説が原作なのだが、実はトリュフォーは大のSF嫌いであることを公言していた。同志ゴダールの映画についても近未来の都市を舞台にした『アルファヴィル』だけは好きにはなれないと言っていたほどである。にもかかわらずこの小説の映画化を引き受けた背後には様々な理由があってのことだろうと推測するが、まず間違いなくトリュフォーはこの原作の小説を面白いと思ったのだろう。
というか、この原作は相当面白いはずである。本が禁止されるということ(活字とはなにも小説や専門書や辞書ばかりではなく、活字が含まれていれば漫画や美術書なども対象になっている。主人公のモンターグ青年はイラストの吹き出し部分に台詞のない新聞?のようなものを読んで、というか見ている)それを取り締まるのが消防士という発想がすごい。そして原作の世界を見事に再現したトリュフォーもまたすごいということなのである。60年代からみた未来という設定であるから、もしかしたら今の時代を想定したのかもしれない。「いとこ」たちが出演するスクリーン、モノレール、規格化された住宅。まあ、いま観ると失笑してしまう箇所もあるのだが、殺伐としたひとつのイメージを伝えるのは十分である。
そしてなにより、本が燃えるシーンの美しさ。本を読むシーンの素晴らしさ。これらのシーンに心が動かされるということは、感情移入ではないけれど、本に愛着を覚えるからではないだろうか。もちろん映画の主人公は消防士のモンターグなのだけれど、焦点が当てられるのは本である。本が燃えるシーンを見つめているときの自分の心理を見つめ返すことによって、この映画の素晴らしさが理解できるのだろう。そして本への愛着があれば、自ずとラストシーンが美しく感動的なものになるのだ。
この映画はトリュフォー自身も失敗作とみなしていたほど、いわく付きの作品である。モンターグを演じたオスカー・ウェルナーとの確執は有名な話だが、そもそもこの主人公の役には前々作の『ピアニストを撃て』に出演したシャルル・アズナブールの名前が最初にあがり、次にジャン=ポール・ベルモンドが、ベルモンドはかなり乗り気だったのだけれど、フランスでは製作資金のめどがつかず白紙になってしまった。アズナブールが演じていればピアノの弦の下に本を隠したり、ベルモンドだったらりジュリー・クリスティーとまるで兄妹みたいに映りそうだが、そんなネタも豊富にあったのだろうなと勝手に想像している。とにもかくにも、イギリスで行われた撮影で英語が話せないトリュフォーは苦戦し、遂には誰とも話さずに日記ばかり綴っていたそうである。そんな状況下で唯一彼の救いだったのはジュリー・クリスティーの存在だったらしく、当時のインタビューを読んでみると作品についてはあまり語らず、やたらと彼女を絶賛しているものばかりである。
しかし私はこの映画をそれほど悪い作品だとは思わない。むしろトリュフォーの映画のなかでは好きなほうに入るくらいである。もし失敗作と言われる原因があるとすれば、トリュフォーの書物への愛が強すぎるために、細部にこだわりすぎてしまったことにあるのではないだろうか。先にも書いたが、本が次々に燃えるシーンの紙のアップは美しくとても効果的で、逆に空からの襲撃シーンはやたらとチープで不思議な出来映えになってしまっているように思う。もしかしたらこのような部分がトリュフォーの言う、あまりにSF的な要素を排除した、というところの意味なのかもしれない。
そしてこの映画にもやはりトリュフォーらしい目配せというのが感じられるのである。例えば、ラスト近くの床に臥せったお爺さんが子どもに暗唱させるシーンに時間を割いているあたりに、もうひとつのドラマがみえてくるのである。物語の本筋とは別のところで印象深い意味を持たせるあたりはトリュフォーはならではといった感じである。そしてラストになるのだが、書物の内容を一字一句すべて暗記してしまったいわゆる「本人間」たちがそれぞれ暗唱しながらすれ違うシーンに日本語の台詞が聞こえるような気がしているのだが、もしそうであったのなら一体誰の何の本なのか、日本語で喋っているぐらいだから日本の書物だと思うのだが、それがずっと気になっている。そしてこの映画を観終えた私はいつも、ごまんとあるお気に入りの本の中からいったいどの本を暗唱しようかなどと、本気で考えてしまうのである。
華氏451
製作年:1966年 製作国:イギリス・フランス 時間:112分
原題:Fahrenheit 451
原作:レイ・ブラッドベリ
脚本:フランソワ・トリュフォー、ジャン=ルイ・リシャール
監督:フランソワ・トリュフォー
出演:オスカー・ウェルナー、ジュリー・クリスティー ほか







































