2012-04-10

ひとりの女と大金をめぐる二人の男の物語、またの名を「はなれ一味」 ジャン=リュック・ゴダール『はなればなれに』(1964年・フランス)

トリュフォーの『突然炎のごとく』のもっとも印象的なシーンに、ヒロインのカトリーヌが「つむじ風」という仲間内で作ったシャンソンを披露する場面がある。このシーンに感動したゴダールはトリュフォーの『突然炎のごとく』に対する答えとして『気狂いピエロ』を撮った。ヒロインのアンナ・カリーナが湖を臨む林の中でジャン=ポール・ベルモンドと「私の運命線」を歌うシーンがそれである。

トリュフォーとゴダール、どちらの作品もとても美しいシーンなのでそれについてはまた後日紹介するとして、ゴダールもまた、ひとりの女と二人の男という組み合わせで『はなればなれに』(1964年・フランス)という映画を撮っている。トリュフォーのように複雑な恋愛模様を展開させた男女の物語ではないが、若い男女の青春の一コマに大金が絡んだ痛快コメディといった感じの、ゴダール作品のなかではもっともお茶目でノーテンキな映画と言えるかもしれない。

原作は女流作家ドロレス・ヒッチェンズが1958年に発表した『愚か者の黄金』という推理小説で、ゴダールはこの小説をトリュフォーに薦められて読んだそうである。小説の舞台はロサンジェルスとその郊外だが、映画の舞台はパリとパリ郊外に、小説では数ヶ月の物語も映画では三日に集約されている。どこかロマンチックな香りのする第三者によるナレーションはゴダール本人によるもので、音楽は『女は女である』『女と男のいる舗道』に引き続き、ミシェル・ルグランが担当している。映画の冒頭で「ミシェル・ルグラン最後の?映画音楽」というクレジットがなされ、ギャグなのか予告なのかその狙いは定かではないが、ゴダールとルグランのコンビによる仕事は長編映画ではこれが最後となった。





『Bande à Part』という原題は「はぐれ軍団」とか「はぐれ一味」といった意味で、日本ではおなじみのズッコケ三人組、おとぼけ三人組といった呼び名がしっくりくるように思う。ひとりの女をめぐる二人の男という側面からこの映画を説明してみると、二人の男、フランツとアルチュールはともに犯罪小説マニアで、時間はたっぷりあるけれど金はない。二人はフランツが英語学校で知り合ったオディールという娘の叔母の屋敷にある大金を強奪する計画を立てる。フランツは美男子だがどこか向こう見ずな性格でいつも冷静だ。オディールからは「暗い」と言われている。一方アルチュールは短気で乱暴でフランツとは真逆の性格のように見える。しかし二人が唐突にはじめるビリー・ザ・キッドごっこや闘牛士ごっこの息はぴったりだ。フランツとアルチュールはまるでコインの表と裏のようである。

ヒロインのオディールを演じるのはやはりアンナ・カリーナだ。オディールのキャラクターを一言でいいあらわすとしたら、可憐な不思議ちゃんということになるのだろうか。アルチュールの言葉を借りれば、可愛いが頭が弱いということになる。自転車で曲がるときには誰もいない小道ですら必ず馬鹿丁寧に手で方向指示を出し、不安げな表情で「なぜ?」と「わからない」ばかり言い、ゴダール映画のアンナ・カリーナにしては珍しくひたすら受け身なヒロインである。オディールはアルチュールに一目惚れするが、粗野なアルチュールに対して怯えているようにも見える。うっかり名前を忘れちゃったとも言っているし、そもそも本気でアルチュールに一目惚れしたのかも怪しいところである。しかしオディールは最終的に二人の計画に加担する。粗暴なアルチュールと優しいフランツのあいだで揺れながらオディールははてのない夢を見ているようだ。





そんなことを書いてみたものの、この映画の面白さは物語そのものにあるのではなく細部にあるのだ。さきほども書いたオディールの自転車の件もそうだし、フランツとアルチュールの西部劇のヒーローの真似事や、アメリカ人観光客のギネス記録に挑もうと三人でルーヴル美術館を激走するシーンも傑作だ。実際には館内を走ることは禁止されていて、このシーンは一発撮りで警備員が止めに入る姿もしっかりと映っている。カンヌで公開される直前の『シェルブールの雨傘』のテーマが流れたり、トリュフォーの『柔らかい肌』への目配せなど、ヌーヴェル・ヴァーグらしい遊び心に満ちているのがなんとも微笑ましい。

そしてこの映画の一番の見せ場は三人がカフェですごす一連のシーン。「一分間黙っていよう」という沈黙から始まって、三人でダンスを踊るシーンまでの語りと音楽とサウンドの使い方だけでもゴダールが並大抵の監督でないことがわかるでしょう。うまいねえとしか言いようがないわけですよ。一分間の沈黙のシーンというのはアントニオーニの『太陽はひとりぼっち』にも似たようなシーンがあるのだけれど、アントニオーニは静と動の対比という形で沈黙シーンを織り込んだ。しかしゴダールの沈黙は一分と経たないうちに「飽きたからやめようぜ」と言う。このただの遊びにしか見えないシーンをさらっとやってのけるのがゴダールで、結局のところやはりゴダールはすごいということになるのですが、この踊りのシーンはどの映画でも観たことがない。カフェのシーンだけでも観るに値する素晴らしい作品だと私は思います。ゴダールだけれど小難しいことは一切なし、気楽に観れるというのも良いですね。



はなればなれに
製作年:1964年 製作国:フランス 時間:96分
原題:Bande à Part
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原作:ドロレス・ヒッチェンズ「愚か者の黄金」
撮影:ラウル・クタール
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:アンナ・カリーナ、サミー・フレイ、クロード・ブラッスール



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2012-04-09

ひとりの女をめぐる二人の男の物語、もしくは純愛の三角関係 フランソワ・トリュフォー『突然炎のごとく』(1961年・フランス)


『突然炎のごとく—ジュールとジム』という映画の構想は、長編デビュー作『大人は判ってくれない』を撮るかなり前の時期からトリュフォーの頭の中にあったという。トリュフォーは映画批評を書きはじめた21歳のときに映画の原作となるアンリ=ピエール・ロシェという老作家の小説に出会い、いつか映画を作れるようになったとしたらこの小説を映画化したいと考えたそうである。この夢が実現されるまでには十年近くの歳月が費やされることになったが、長編映画を撮る機会にめぐまれたトリュフォーは、ひとまず『大人は判ってくれない』と『ピアニストを撃て』の二作品を習作のつもりで撮ったあと、大ファンであったアンリ=ピエール・ロシェの小説を映画化したのである。トリュフォーは三作目にしてやっと自分らしい恋愛映画を撮ることができたのだ。

アンリ=ピエール・ロシェが生涯に発表した小説はわずか二作で、1953年に74歳で処女作『ジュールとジム』を発表し、続けて『二人の英国女性と大陸』という小説を発表している。このふたつの小説は作者であるロシェ自身の人生と女たちの物語で、登場人物はすべて実在し、20世紀初頭のミュンヘン、パリ、ベルリンが舞台になっている。どちらの小説もトリュフォーが映画化した。『二人の英国女性と大陸』という小説は1971年に『恋のエチュード』というタイトルで映画化された(この映画についても後日募る想いを書きたいと思っています。)若きトリュフォーは老作家と文通し、小説の感想や映画化のアイディアをやりとりしていたのだが『突然炎のごとく』の映画化が決まってすぐにロシェは亡くなっている。



ひとりの女性をめぐる二人の男の物語という設定から、二人の男の対比が自ずと浮かび上がってくるが、この映画のテーマはジュールとジムという二人の男の対比を描くことではないように思う。ジュールとジム、そしてカトリーヌを中心とした三人の物語であることに間違いないが、一にも二にもカトリーヌの物語という印象の映画ではある。しかし語り手はジュールということになっていて、ならばジュールの物語であるかといえば必ずしもそうとは言い切れない部分があるし、なんといっても驚かされるのが、私はこの映画をこれまでに5回ほど観ているのだけれど、そのつど自己投影する人物が変わるのである。初めて見た時は同じ女性ということも手伝って強烈な個性をもった感情的なカトリーヌに、あらためて冷静に観ることのできた二度目の鑑賞はジムに、三度目になってもっとも理性的なキャラクターのジュールに、という感じで知らず知らずのうちに気付けば三人それぞれの立場でこの物語を見渡していた、というとても不思議な映画である。

ヒロインのカトリーヌは感情的で衝動的、わかりやすい言葉を借りれば自由奔放な女性として描かれている。カトリーヌのモデルは原作ではナボコフの『ロリータ』をドイツ語に翻訳したとして知られるヘレン・ヘッセルという女性ということになっているが、映画のなかでジャンヌ・モローが演じるカトリーヌはロシェの小説や日記に登場するさまざまな女性を綜合して作り上げられたキャラクターであり、非常に魅力的だ。カトリーヌはジュールと結婚するが同時にジムも愛し、他の男とも関係を持つ。そんなカトリーヌをジュールは許し、彼女のそばにいられることが自分の幸せだと確信し、それを実現させるためであればどんな苦労も惜しまない。カトリーヌが誰と寝てもかまわないし、ジムと結婚すると言い出してもかまわないのだ。



ジュールは基本的には理性的な男である。無条件でカトリーヌを愛し、ジュールにも絶対的な信頼を寄せている。ジュールとジムの友情というのは文学への愛情によって結ばれている。二人とも文学青年であるから互いに情緒的ではあるのだろう。ジムはカトリーヌを愛しながらも昔の恋人とのあいだをふらふらと行ったり来たりして、ジュールに比べるとどちらかと言えば感情に流されやすい。そういう点でカトリーヌとジムは似ているのかもしれない。

しかしカトリーヌとジムの恋愛感情が決定的に違うのは、カトリーヌと昔の恋人のあいだを右往左往するジムに対して、カトリーヌは目の前にいる相手だけを瞬間的に愛することができるという点である。カトリーヌの感情はジュールとジムのあいだで揺れ動くことはない。ジュールと一緒にいる時は彼を愛し、ジムが目の前に現れるとそこにいるジムだけを愛するからだ。それは『突然炎のごとく』というタイトルそのままに、突如として沸き上がる感情なのだ。

もしカトリーヌが同時に何人もの男性を愛するこができる女ならば、不倫という形で多くの男と関係を持ったとしてフローベールの『ボヴァリー夫人』のように描かれるだろう。そのように考えてみるとカトリーヌは実に律儀な女性なのである。解放的であるがゆえにジュールとジムという二人の男を裏切るような真似はしない。ジュールとジムの関係もカトリーヌが引き金となって壊れるようなことは決してない。この映画を面白くしているのはそのようなカトリーヌのキャラクターと、多くの恋愛映画とは一線を画した揺るぎない三角関係の描かれ方にあるのだろう。そんなことをあれこれ書いてみてもこの作品を前にしてみればすべて無駄である。この映画はもはや男と女の神話なのである。



突然炎のごとく
製作年:1961年 製作国:フランス 時間:107分
原題:Jule et Jim
原作:アンリ=ピエール・ロシェ
監督:フランソワ・トリュフォー
出演:ジャンヌ・モロー、オスカー・ウェルナー、アンリ・セール、マリー・デュボワ、ヴァナ・ユルビノ、サビーヌ・オードパン、ミシェル・シュポール



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2012-04-07

ジム・ジャームッシュ『ゴースト・ドッグ』(1999年)

少し前に『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の記事でも似たようなことを書いたかもしれないけれど、ジャームッシュの映画のどこが好きなのかといえば、やはりジャームッシュ自身が好きなのだ。いつもロックスター然としていて、かっこいい映画を撮ってしまうジャームッシュが好きなのである。ジャームッシュの映画で感心させられるのは、鼻につくような気取りがない。細かい笑いも忘れず、キャラクターの作り込みもすごい。本当にかっこいい人はかっこいい映画を作れるのだろう。


ジャームッシュの日本好きは有名で、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』は小津安二郎ばりのローアングルの長回しに始まり、『ミステリー・トレイン』の永瀬正敏と工藤夕貴の起用、そしてこの『ゴースト・ドッグ』は武士道について書かれた『葉隠』という本を題材にして、ゴースト・ドッグと呼ばれる殺し屋を描いた物語だ。『葉隠』という本は、享保元年(1976年)に鍋島藩士山本常朝が口述したもので、のちに三島由紀夫が『葉隠入門』という本を出して一般に広まった。

ここでも感心させられるのは、単なる日本かぶれのような作品ではなく、ジャームッシュ独自の世界に日本という要素をうまく取り込んで新たな世界を確立させているところ。「羅生門」の本や日本刀なんかも出てくるけれど、ジャームッシュのスタイルは変わらない。鳩、犬、フランス語しか話せないアイスクリーム屋、老人クラブみたいなマフィアといった脇役のキャラクターもすごい。この映画では最後に黒澤明がクレジットされていて、これはKUROSAWAに対するジャームッシュの弔意の表明なのだそうだ。劇中に「羅生門」の小説が登場するのも彼なりの敬意をあらわしているのかもしれない。


映画のタイトルには「The way of the Samurai」という副題がついている。文字通り武士道の精神に魅せられた物静かな殺し屋が主人公で、『葉隠』を読むシーンや銃を日本刀にみたてた所作はなかなか味があって唸らせられる。そしてやはりジャームッシュがただのアクション映画を撮るはずもなく、不条理やユーモアが散りばめられている。家賃を払わないマフィアというのも考えてみればいそうだが、普通の映画では見られない。しかしジャームッシュはそこまで描く。フランス語しか喋れないアイスクリーム屋とゴースト・ドッグの滅茶苦茶だが通じてしまう会話、パンチの効いた少女、そんな細かい笑いのジャブが繰り出される。そしてどうしても「すべて熟知」と書かれたTシャツで笑ってしまうわけだが、これも日本人へのサービスなのかもしれない。やはりジャームッシュはかっこいい。


ゴースト・ドッグ
製作年:1999年 製作国:アメリカ・ドイツ・フランス・日本 時間:116分
原題:Ghost Dog : The way of the Sumurai
監督:ジム・ジャームッシュ
出演:フォレスト・ウィッテカー、ジョン・トーメイ、クリフ・ゴーマン、ヘンリー・シルビア、ヴィクター・アルゴ、トリシア・ヴェッセイ、カミール・ウィンブッシュ



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2012-04-06

ヴィム・ヴェンダース『都会のアリス』(1973年・西ドイツ)


ヴィム・ヴェンダースといえば『ベルリン・天使の詩』(1987年)もしくは『パリ、テキサス』(1984年)が真っ先に思い浮かぶだろう。前者は映像美の極み、後者はロード・ムービーを代表する不動の名作だ。ヴェンダースの映画を観ているとなぜかいつも20分と経たないうちに寝てしまう。ヴェンダースの淡々とした作風は好きだし、決して退屈というわけではないのだが、どの作品でもだいたい同じようなぐあいに眠たくなるというからには、ヴェンダースの映画には眠気を引き起こす装置のようなものがあるのかと考えてしまう。なにも監督自らが意図的に観客の眠気を誘う映画を作るはずもないので、あくまでもなぜ私が眠たくなるのかということですが。

ヴェンダースは映像作家として知られ、映像が美しいことで有名ですが、その細部まで作り込まれた映像こそ、眠気を誘う理由のひとつなのかもしれません。画面は淡々としていて余計な説明がなく表情と風景がすべてを物語る。決して台詞に語らせることなく、映像に語らせる。特に初期の作品なんかは劇的なプロットがあるわけではないし、登場人物のキャラクターもどこかぼやけた感じで、冒頭からの数十分などはとても単調で、私がいつも映画がはじまってすぐ寝てしまうというのもそのような理由からだろう。しかしヴェンダースの映画は面白いし、なんといっても映像が素晴らしい。毎回寝てしまうのはどうにかならないのかと思っているのですが、それもまたヴェンダース映画の深い味わいなのでしょう。

『都会のアリス』(1973年・西ドイツ)はヴェンダースの初期の作品で、このあと『まわり道』(1974年)『さすらい』(1975年)と続く、いわゆるロード・ムービー三部作の第一作目にあたる。三部作では『さすらい』もすごく良い映画だが、今日はひとまず『都会のアリス』についてつらつらと思うことを。


私はどうもくたびれたどうしようもない中年男性の自分探しの物語、再生するような物語に弱いようです。『都会のアリス』の主人公は中年というにはまだ若く、青年の美しさも残しているけれど、そのくたびれ加減は上等だ。ポラロイドで写真を撮りながらアメリカを放浪するドイツ人作家のフィリップは、持ち金も底をついたところでドイツへ戻ることにした。彼はアメリカについて何か書かなくてはならないが、ただひたすらポラロイドで風景の写真を撮っただけで、書くことのほうは行き詰まっている。アメリカを旅するうち、彼はだいぶ消耗してしまったように見える。帰国を決めるも、ドイツでは空港がストライキで閉鎖され足止めをくらってしまう。しかたなくアムステルダム経由で帰国することにするが、空港で出会った女性に娘のアリスをアムステルダムまで一緒に連れて行ってくれと頼まれる。

アリスの母親が突然姿を消したことでフィリップは夢とも現実つかないような、宙ぶらりんな精神状態のままアリスを連れてあてどもなく彷徨う。ニューヨークからアムステルダム、さらにはドイツの田舎へと二人は旅をするはめになるのだが、二人のあいだに会話らしい会話は見られない。移動することで物語は活気を帯び、フィリップとアリスの関係も変化していくが、それを語るのはやはり表情と風景を捉えたモノクロの画面なのだ。互いをあまり語らず、二人の言葉にならない交流こそがこの映画の一番の魅力なのだから、それをここで文章にするのも難しいのだけれど、人生にくたびれ果てていたフィリップがアリスとの交流によって癒されていくというのが物語の焦点になっているのかもしれない。


そしてなにより可愛らしいアリスは物怖じせずに好き嫌いをはっきりと言い、行儀も良く、母親がいなくなっても弱音を吐かずに気丈にふるまう。アムステルダムではオランダ語がわからないフィリップをリードする場面も。一方、フィリップはわけのわからない独り言を延々とつぶやき、アリスを寝かしつけるときもまともなお話すらできない、優しいのだけれどどこか頼りない、子どものような大人といった印象(決してダメ男ではない!)。だからこそなのか、二人が一緒にいるどのシーンもぐっとくるものがあります。ヴェンダースの映画ではこれが一番好きかもしれません。


都会のアリス
製作年:1973年 製作国:西ドイツ 時間:111分
原題:Alice Den Standten
監督:ヴィム・ヴェンダース
出演:リュディガー・フォグラー、イエラ・ロッドレンダー、リサ・クロイツァー、エッダ・ヒッケル


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バップ (2008-01-23)

2012-04-01

ブコウスキーとゲンスブール(4)

ブコウスキーはゲンスブールより8歳年上だが、ゲンスブールより3年長く生きた。1991年3月2日、自宅で一人仕事中のゲンスブールは心臓発作で亡くなった。62歳だった。ブコウスキーは1994年3月9日、73歳で白血病で亡くなっている。フランスとアメリカ、二人は異なる社会、まるで価値観のかけ離れた両親のもとに育ちながらも似通った点は多い。移民の息子であること、容姿への強烈なコンプレックスを抱えていたこと、アル中、酒と煙草と女と孤独を愛し、どちらもその作品のなかで常識社会を嘲笑し皮肉りながら、スキャンダラスな挑発をし続けていた。同時代に生きながら、互いの存在を知っていたかどうかも今となってはわからない。

二人に共通するもっとも面白い逸話は、それぞれが自らを投じた分野を端から否定していたということである。ゲンスブールであれば、アンチ・シャンソン、ブコウスキーはアンチ文学の精神である。画家になることを志し、貴族的な教育を受けたゲンスブールにとって一流と呼べる芸術は、音楽であればクラシック、絵画、純文学なのであって、クラブやバーで演奏するシャンソンやスタンダード曲などは二流芸術にすぎず、60年代の華やかなポップスの世界で彼は一時代を築くことに成功したように見えるが、本人にしてみれば、ポップスなんていうものは所詮二流なのである。ゲンスブールにとって純粋芸術である絵画を捨てて二流である歌謡界に身を投じることは、たとえそれが自ら選んだ道だとしても、純粋芸術に対する未練と二流芸術への劣等感は生涯彼につきまとい、成功しながらにして不幸という、決して癒されることのない強迫観念にとらわれることになったのだった。


ブコウスキーの場合はもっと過激だ。ブコウスキーに言わせると、もはや文学にとどまらずすべての芸術は嘘まみれである。肉体労働者であった彼は、貧しさが、飢えが傑作を生み出すということはまずあり得ないということを身をもって経験しているからだ。『勝手に生きろ!』という小説のなかで、ブコウスキーの分身である主人公のチナスキーは金がなくてキャンディーバーだけを舐めながら小説を書いているのだが、そこで彼はこんなことを言っている。「空腹が俺の芸術を高めることはなかった。かえって邪魔になっただけだ」と。ブコウスキーのこの言葉は、貧しさのなか逆境に耐えながら書き続けた作家、または描き続けた芸術家といわれる、彼らの気高く美しい文章、崇高な作品、そんなものはすべてわれわれの幻想が作り上げたきれいごとにすぎないという事実を痛いほど突いている。そして文学とは、芸術とはいったい何であるのかと、ふと考えさせられる。このようなブコウスキーの嘘の否定の文学は、五年生のときに書いた作文で「人は真実よりもきれいな嘘を求めている」と気付いたときにすでに芽生えていたのかもしれない。そもそもブコウスキーの生きたアメリカ社会の常識もまた、嘘だらけなのだ。大多数の人間がアメリカン・ドリームなどと無縁であるにもかかわらず、その大きな嘘はいつの時代もアメリカ社会を覆い隠している。ブコウスキーは労働者の立場からそのような社会の嘘を暴き出す。アメリカを駄目にした張本人であるとしてミッキーマウスを嫌っている。

ブコウスキーの小説は基本的に自身が経験したこと、実際に起きた出来事しか書かれていない。人生にはそうそうドラマティックな展開があるわでけもないし、作られたきれいごとなど通用せず、醜く汚いことのほうが圧倒的に多い。ブコウスキーの小説に書かれていることは、働いて酒を飲んでセックスをして便通の心配する、という日々の繰り返しだ。たまに競馬に打ち込む姿が描かれるが、競馬場などもっとも劇的なドラマとは無縁な場所であるということを強い説得力を持って伝えているにすぎない。それゆえブコウスキーの小説は一見退屈で何も書かれていないというような印象を与える。しかしそのように感じるのはブコウスキーの作品を文学の立場から捉えようとするからである。そもそも文学的価値などとは無縁のところで書いているのがブコウスキーなのだ。

そしてブコウスキーはやはりというか、当然とも言うべきか文壇という世界をもっとも嫌っている。ブコウスキーの作品がアカデミックな文芸界から評価されているのかも怪しいところなのだが、文壇人や文学談話を嫌悪する場面がブコウスキーの小説には何度も出てくる。ブコウスキーは同時代のケルアックやバロウズやギンズバーグなどのビート詩人と一緒にされて論じられることもあまり好ましく思っていないらしく、どちらかといえばパンク詩人と言われるほうが自分に合うように感じると生前に語っていた。


ゲンスブールもまた、フランスの芸能界ではトップクラスの有名人でありながら、芸能界を嫌っていた。偉ぶって嫉妬深い意地の悪い奴らばかりが出入りしていると。同じようにマスコミも嫌っていたが、ゲンスブールはそのマスコミを挑発の場としてうまく利用することを考えたのだった。自らのスキャンダルを売り物にしたのは言うまでもないが、テレビに出る人間たちが皆ネクタイ姿だった時代に、ノーネクタイにジーンズ姿、不精ひげを生やして出演していた。ニュース番組のなかで「税金を払って残るのはこれだけさ」と言いながら500フラン紙幣を燃やして抗議殺到、フランス国歌をレゲエバージョンで歌って右翼に狙われ、生放送中に「あなたとセックスしたい」と大胆な発言で歌手を口説いた。

ブコウスキーとゲンスブール、二人の男について語り継がれる武勇伝(ともいうべき?)はここでは書ききれないし、私の知らない驚くようなエピソードもおそらくまだたくさんあるだろう。私は女だけれど、このとんでもない二人のオヤジの生き方に惹かれるのだ。なぜこんなにも二人が残した作品に心を動かされるのか、なぜ好きなのかと聞かれるとうまく説明ができない。男性としての魅力を感じることがないわけでもないが、そのような憧れとも少し違う。ひとつだけ言えるのは、彼らの作品に漂う、ブコウスキーの精神、ゲンスブールの精神がもっとも私を魅了するということだ。

私はときどき、この二人が出会って酔っぱらいながらジョークを飛ばして互いを罵り合ったり女の趣味をけなしたりするところを想像する。ブコウスキーにしてみれば、ゲンスブールもそのへんのスノッブと何ら変わりはないと思うかもしれない。けれどきっと彼らは意気投合してしまう違いない。もうかなわない、どこか切なく、夢のような話だけれど。


画像上はブコウスキーと晩年をともにすごした妻のリンダ・リー。
画像下はテレビ番組出演時のゲンスブールとバーキン、1969年。