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2013-11-17

日曜の朝、ルー・リードの死



ルー・リードの死から三週間が経った。生前最後のインタビューや写真が公開されたり、多くの雑誌でルーの特集が組まれたりしているけれど、それでもまだ信じられないというか、受け止められない気持ちのほうが大きい。ふとルーのことを考えると今も頭がぼーっとして、逝去のニュースからずっと微熱にうなされているような、浮ついた感じが続いている。2、3年前からその姿を写真で拝見するたびに、痩せたなあと感じることが多くなっていたから、いずれこんな日が来るとどこかで覚悟していた自分もいるのに、なぜだろう?この人はそう簡単には死ぬことはないだろうって、本当に勝手だけれど冗談ではなく真面目に思っていた。




とても個人的なことを書くと、4月に父が病気で亡くなった。父の死後、何もなかったかのようにこのブログをせっせと更新していたけれど、どうしても父の死には触れることができなかった。私にとってはそれほどの出来事だったのだと、最近では少し冷静になって話しができる。父とルーは同い年。父と同じようにルーも糖尿病を煩っていたと聞く。私にはどうしても二人の死が重なってしまう。だからルーにはもっと生きて欲しかったし、死なない気がするなどと真剣に考えていたのだと思う。ルーの死を知った時、長い放心状態のあと、とても大きな悲しみがやって来た。そしてなにより父のことを思い出して辛かった。

ちょうど一年前にルー・リードという記事を書きました。私はルーが好きだった。ルックスも大好きだし、ぼそぼそと呟くお経を読んでいるような不安定な声にも完全に虜だったし、なによりも作家としてのルー・リードに憧れていた。十代の終わりに、いつか「Perfect Day」みたいな、なんてことはない日常を切り取った小説が書きたいと、漠然と壮大な夢を見させてくれたのもルーだった。韻を踏みに踏みまくった呪文みたいな歌詞を完璧に言えるようになるまで暗記してみたり、最初に覚えたのは「Femme Fatale」で、 You're written in her books / You're number 37, have a look という部分の響きがとても気に入って、綺麗に発音できるように練習してみたり。「Gift」や「The Murder Mystery」のようなルーの書いた物語を聴いているのも楽しかったから、ルーのアルバムは必ず訳のついた国内盤で揃えると決めた。






ルーが亡くなったのは10月27日、日曜の朝だったという。訃報が飛び込んで来た10月28日の早朝、私はベッドの中でipodから真っ先にこの曲を選んで聴いていた。これが、初めて耳にしたルーの歌声だったから。実はこの曲も当初はニコが歌う予定だったそうだ。ウォーホルの一声で突如として転がり込んで来たニコに楽曲を横取りされる形になったルーは、すでに3曲も歌っているニコに対して、「Sunday Morning」を歌うことだけは絶対に許さないと憤って、わざと女みたいな甘い声で歌ったのだと。

バナナのジャケットのアルバムを初めて聴いた時のことを私は鮮明に覚えている。1曲目と2曲目でルーの歌い方が全く違うものになっているし、さらにニコの声も男だと勘違いして、リード・ヴォーカルが3人いるバンドって一体?ビートルズみたいなバンドなのかなぁ?と、まだ洋楽を聴き始めて間もない頃の出来事だった。よくよく考えるととんでもない発想。

でも、1曲目が「日曜の朝」じゃなかったら、このアルバムを心底好きになれたかどうか分からない。私にとって、バナナは「ヘロイン」でも「毛皮のヴィーナス」でもなく、「日曜の朝」とニコがヴォーカルを取った3曲なのだ。そんなルーの優しい感じの曲が本当に大好き。今はまだ悲しみが消えないけれど、ルーの曲がこれからも私の人生に寄り添ってくれると思うだけで心強いし、笑顔の自分を取り戻せるような気がしてもいます。

ルー、どうか安らかに。ありがとう。




2013-01-16

クシシュトフ・キェシロフスキ


ポーランドが生んだ鬼才、クシシュトフ・キェシロフスキ(Krzysztof Kieślowski-1941年〜1996年)は、『デカローグ』『ふたりのベロニカ』『トリコロール』といった傑作を次々に発表したあと、創作の絶頂期にありながら96年に心臓発作で急逝してしまった。54歳の若さだった。10代の頃にお父様を結核で亡くされたキェシロフスキは、父親の虚弱体質を受け継いでしまったことを口にこそ出さなかったが、生涯にわたり気にかけていたように思われる。

私はキェシロフスキの作品はどれも後追いだけれど、長編映画はすべて観ることができ本当に幸せだと思う。その早すぎる死がとても悲しく残念でならないけれど、なにものにも代え難い時間を与えてくれるキェシロフスキの映画をこれから先もきっと何度も観返すに違いない。


キェシロフスキはロマン・ポランスキーやアンジェイ・ワイダを世に送り出したポーランドの名門、ウィッチ映画大学出身。政治と無関係ではいられなかった戦後のポーランドでドキュメンタリー映画から始めた人だった。いくつかの短編を撮ったあと劇映画に転じ、習作のつもりでテレビドラマの制作に携わっている。共産党政権下のポーランドでは劇場映画の監督と認められるにはいくつかの手順を踏む必要があり、まずはテレビ用の映画を撮るのが通常のやり方とされていた。映画産業は国が統轄し、制作に介入することが可能な時代。共産党による検閲が存在していたけれど、検閲官の目をごまかすことはそれほど難しいことではなく、むしろ国から制作費があてがわれたため、資金の確保や市場の心配といった問題とは無関係に映画を作ることができたのだという。

そしてなにより熱心な観客がいたのだった。検閲官の手を逃れることのできた言葉の意味を観客は正確に読み取ることができたし、監督と観客が一体となって検閲官という敵に立ち向かうような雰囲気があった。検閲制度があったおかげで映画は国民に夢を与えることができた、そんな時代だ。当時についてキェシロフスキは、検閲制度によって自由が大幅に制限されたのではなく、簡単に映画を作ることができるいい時代だった、と語っている。いくらパリが、西側の生活条件がよくても、ポーランドなしの人生は考えられない、とも。


キェシロフスキの作品の何が私を夢中にさせるのか、あらためて考えてみると自分でもその理由はよくわからない。初期の長編は個人を描いているとはいえ、背景には政治的色合いが濃く垂れ込めているので正直なところ心底おもしろいとは言いがたい。けれど、ポーランドについて、共産党についてよくわからない者が観てもわからないなりに最後まで淡々とみせてしまうのもひとつの魅力だろう。そしてキェシロフスキを世界的地位に押し上げることとなった『デカローグ』『ふたりのベロニカ』『トリコロール』、これらの崇高な映画はとてもじゃないけれど書き尽くせない。思い出すたびに胸が震えてしまう。

キェシロフスキの作品はそのどれもが物語ではなく感情を扱った映画だ。私が彼の映画に惹き付けられる一番の理由もそこにあるのかもしれない。そして、人生のもっとも大切な瞬間を切り取っている。もっとも大切な瞬間、とは生涯を通じて一番決定的な時間という意味ではなく、その人物にとってのいま現在、その時、ということだ。だからキェシロフスキは愛するという感情を描いた。しかしキェシロフスキの映画が恋愛映画なのかどうかは定かではない。おそらく答えは「ノー」なのだが。ロマンティシズムに陥りかねない状況をギリギリのところでバランスを保ちながら浮遊しているような感覚、とでもいえようか。

キェシロフスキの映画とは一体何なのであろう?キェシロフスキの映画は、はっきりいって結末などどうでもいいように思われる。なぜなら結末は観ている者にすべて委ねられているからだ。感情の生まれる過程を描いているのに、感情が生まれる背景についてはほとんど説明されることがない。つまり、キェシロフスキは物語そのものを描くことを拒否し、点景をパズルのピースのようにちりばめ、観る者がそれぞれの解釈でそれぞれの好きなように物語を構築することが可能な映画を撮った。これは特に『ふたりのベロニカ』と『トリコロール』にみられる方法で、ただの幻想かおとぎ話ではないのかという批判も聞かれた。

しかし私はキェシロフスキのこの2作を観てはじめて、自分がなぜ映画を観るのか?という問いの答えを見出すことができた。そして、これまで無知だったポーランドの歩んできた歴史、その複雑な背景について感心を持ち、なにかを感じ得ることができたのもキェシロフスキとの出会いからだった……。





キェシロフスキの世界
クシシュトフ キェシロフスキ
河出書房新社

2012-12-09

アキ・カウリスマキ

「人生の意味とは、自然と人類を大切にする自分のモラルを作り上げ、それを持ち続けること」

—アキ・カウリスマキ



フィンランドの巨匠(と、もう呼んでしまってもいいよね?)アキ・カウリスマキ!

カウリスマキの映画が三度の飯より好きだ!という日本人はいると思う。カウリスマキの映画を観ていると、フィンランド人と日本人の気質が似ていると言われる理由がなんとなくだけれどわかるような気がしてくる。カウリスマキの世界といえば、極限まで削られた少ない台詞と無表情な登場人物、印象的な音楽(ときに音楽に語らせる!)、どこか暗い雰囲気を持った背景から生まれるぶっきらぼうなユーモア、といった特徴が挙げられる。これらの要素はどの作品においても基本的にブレることがないように思う。

なにも映画がそうだからといって、フィンランド人、はたまた彼らに似ていると言われる日本人が無口で暗いというわけではないのだろうが、たいていのことは口に出さなくても伝わるもの、といった雰囲気が前提に漂うカウリスマキの作品は日本人の心にぐっと突き刺さるものがあるのだ。


カウリスマキは日本の名匠、小津安二郎に多大な影響を受けたという。下の動画は小津の写真を前にカウリスマキがあれこれ語るという趣旨のものだが、カウリスマキを知らないという人も、小津の映画を観たことがないという人も、4分足らずのこの動画でアキ・カウリスマキがどんな監督なのか漠然とわかってもらえるのではないだろうか。カウリスマキという人は話を聞いているだけでも非常に面白い人です。



ところで、カウリスマキの映画は不幸な人間ばかりが主人公なのに、どこか可笑しくて思わずにやりとしてしまうのはなぜか。この可笑しさはいったいどこからくるのだろう?カウリスマキがおかしいのか?フィンランド人というのは滑稽な人間ばかりなのか?

カウリスマキの映画に出てくる、寡黙な人々というのはフィンランドという国の風土を強く反映しているに違いない。私は寒い地方の人間だから、寒い国の人々は口数が少なく感情を心の奥に閉ざすということを日常的に知っている。そこから生まれる可笑しさについても。そんなものだから、カウリスマキの映画で描かれる舞台はどうみても北欧の風景にしか見えないし、フィンランドにも行ったことはないけれど、私はほかのどんな外国映画よりもカウリスマキの世界の親しみを感じ、異常な愛着を持っている。



「人生の意味とは、自然と人類を大切にする自分のモラルを作り上げ、それを持ち続けること」

これは「人生の意味とは何ですか?」という小学3年生の質問に対するカウリスマキの回答だ。スナフキンというか、ソローの名言集にでもそっくりそのまま出てきそうな言葉である。そういえば若い頃のカウリスマキはどことなく顔もスナフキンに似ている。

カウリスマキは学生の頃、編集者として大学誌の手伝いをしながら映画評論も発表していた。シネフィル時代のカウリスマキが書いたものはあまり知られてはいない。評論は恥ずかしくなって辞めてしまったそうだが、82年に発表された「脚本家の死」という文章からは、映画、そして人生に対するカウリスマキの信条がみてとれる。カウリスマキが好きな人なら、なにか込み上げるものがあるだろう。





「この国をどれだけ愛しているだろう。幾千とある湖、そして暗闇の冬の日々。ここで平穏に暮らせないとしても何の問題があるだろう。春、道を歩いてみよう。ほつれかけた袖でぶらぶら歩いていると、人々が七面鳥のような表情で好奇心をむきだしに視線を注ぐ。または、眠ろうとすると誰かがベッドの下から覗いて、居心地はいいかと尋ねてくる。ここで死さえ平穏に迎えられないとしても誰が問題にするだろう。

 こうした条件すべての上に立つ私たちをひとつにするものとは、いったい何か。私たちは空を飛ぼうとするニワトリのようにかなわない欲求を抱えている。私たちには、共通の言語と文化、そして死も覚悟できているほどの、あえていうならば魂の共生といったものが備わっている。

 私たちの中には、時代の黎明からの純粋さや原罪に先立つ無垢のようなものがあるのだ。」

 





アキ・カウリスマキ
アキ・カウリスマキ
posted with amazlet at 12.12.09
ペーター・フォン バーグ
愛育社

2012-11-18

ルー・リード

誰もがみんな、かれに恋してた。誰もかれもがね。すっげえセクシーだった。みんな、ひどくオネツだった......かれ以上にセクシーな人間なんて、あの頃、ほかには見当たらなかった。ヴェルヴェット・アンダーグラウンド時代のかれっていうのは、ニューヨークにいたみんなの一番の性的憧れの的だった...




ルー・リードの唇が好き!などと書いてしまうと、どこかヘンタイめいた趣の内容になってしまいそうだけれど、ヴェルヴェッツ時代のルーはセクシーでチャーミングだったにもかかわらず、その素敵な容姿について語られることはまずない。まあ殊更に語る必要もないわけだが、私はルーの顔が好き。ガラガラヘビみたいな口元が特に好き。くっきりとした輪郭に口角がきゅっと上がっていて本当にセクシーなんだもの。“ひどくオネツ”っていう言葉も誇張されたものではないと思う。この、冒頭に引用した証言は音楽誌の編集者だったダニー・フィールズによるものだ。この人、ポールの嫁リンダの親友だったり、ドアーズのジムにニコを紹介したりイギーやラモーンズのマネージャーもやったりして、すごい経歴の持ち主である。

上の動画、ルーの唇マニアが思わず狂喜乱舞するであろう映像!(コーラの瓶になりたい...というコメントに共感する気持ちも分からなくはないけれど...)これはウォーホルによるスクリーンテストと呼ばれている作品で、1964年から66年のあいだにファクトリーに出入りしていた人物を肖像画のようにカメラに収めたもの。これがものすごい人数にも及ぶらしい。DVDも発売されたけれど今は廃盤になっていて入手し難くなっている。デニス・ホッパー、ボブ・ディラン、ニコ、イーディ、ギンズバーグといったお馴染みのメンバーや、ウォーホルの映画に出演していた連中の顔はYoutubeでも見ることができる。


スクリーンテストにも顔を出しているディランがファクトリーとウォーホルの取り巻き連中を嫌悪していたというのは有名な話だけれど、ルーもまたファクトリーから距離を置いている人間のひとりだった。ルーは表面的にはファクトリーにうまく溶け込んでいるように見せかけながら最後まで完全には染まることはなかったのだ。ウォーホルはあらゆる人物にファクトリーを解放していたが、そこに集まる連中のやることなすことをすべて黙認するというのが彼のやりかたであり、面白い人物がいればひそかに観察することを好んだ。ルーはそんな覗き趣味のウォーホルをさらに観察し、ファクトリーで起こった出来事をネタに物語を引き出していった。ルーはつねに傍観者であり続けた。

スピードを打ちまくって三日に一度しか眠らず、あらゆるドラッグから引き起こされる症状をソングライティングに反映するという実験を試みていたルー。誰もが彼にオネツだったけれど、一方では偉大な才能、小柄な悪魔とも畏れられる。





しかし、ニコ曰く「ルーはとても優しくて、素敵な人だった。ぜんぜん攻撃的じゃないの。初めてかれに会った時、愛しくて抱きしめちゃいそうだった」そうである。ニコは本当にルーのことが可愛くて仕方がなかったらしく、あまりの可愛さにしょっちゅうホットケーキを焼いてあげていたそうだ。初対面の相手を「愛しくて抱きしめちゃいそうだった」というのはニコにしかできない発言であろう。ニコ姉さんレベルのオンナになると言うことが違う!のだ......。

それでもニコの「とても優しくて」という言葉に偽りはないのだろうという気がする。私がルー・リードの音楽でまず思い浮かべるのは『pale blue eyes』や『perfect days』や『〜says』といった優しい曲だ。ヴェルヴェッツのアルバムも3rdと4thを聴くことが多い。俺様至上主義的な発言が目立つルーは大胆で攻撃的で、観客の前でヘロインをぶっ射すという伝説、歌詞の内容から退廃的、破滅的なイメージを持たれることが多いけれど、本当に無茶苦茶な人のではなく、ルーが明知の人だからだ。(いや、当時は無茶苦茶だったのかもしれないけれど)それに、己を知っている人間、自分自身を客観視できる人間というのはたいがい自分のこと以上に他人に対する優しさを持ち合わせているように私は思うから。だからこそヴェルヴェッツの、ルーの、攻撃的で暴力的なサウンドの裏側にはいつも優しさがつきまとうように感じられるのかもしれないな。



Velvet Underground
Velvet Underground
posted with amazlet at 12.11.17
Velvet Underground
Polydor / Umgd (1996-05-07)

2012-04-01

ブコウスキーとゲンスブール(4)

ブコウスキーはゲンスブールより8歳年上だが、ゲンスブールより3年長く生きた。1991年3月2日、自宅で一人仕事中のゲンスブールは心臓発作で亡くなった。62歳だった。ブコウスキーは1994年3月9日、73歳で白血病で亡くなっている。フランスとアメリカ、二人は異なる社会、まるで価値観のかけ離れた両親のもとに育ちながらも似通った点は多い。移民の息子であること、容姿への強烈なコンプレックスを抱えていたこと、アル中、酒と煙草と女と孤独を愛し、どちらもその作品のなかで常識社会を嘲笑し皮肉りながら、スキャンダラスな挑発をし続けていた。同時代に生きながら、互いの存在を知っていたかどうかも今となってはわからない。

二人に共通するもっとも面白い逸話は、それぞれが自らを投じた分野を端から否定していたということである。ゲンスブールであれば、アンチ・シャンソン、ブコウスキーはアンチ文学の精神である。画家になることを志し、貴族的な教育を受けたゲンスブールにとって一流と呼べる芸術は、音楽であればクラシック、絵画、純文学なのであって、クラブやバーで演奏するシャンソンやスタンダード曲などは二流芸術にすぎず、60年代の華やかなポップスの世界で彼は一時代を築くことに成功したように見えるが、本人にしてみれば、ポップスなんていうものは所詮二流なのである。ゲンスブールにとって純粋芸術である絵画を捨てて二流である歌謡界に身を投じることは、たとえそれが自ら選んだ道だとしても、純粋芸術に対する未練と二流芸術への劣等感は生涯彼につきまとい、成功しながらにして不幸という、決して癒されることのない強迫観念にとらわれることになったのだった。


ブコウスキーの場合はもっと過激だ。ブコウスキーに言わせると、もはや文学にとどまらずすべての芸術は嘘まみれである。肉体労働者であった彼は、貧しさが、飢えが傑作を生み出すということはまずあり得ないということを身をもって経験しているからだ。『勝手に生きろ!』という小説のなかで、ブコウスキーの分身である主人公のチナスキーは金がなくてキャンディーバーだけを舐めながら小説を書いているのだが、そこで彼はこんなことを言っている。「空腹が俺の芸術を高めることはなかった。かえって邪魔になっただけだ」と。ブコウスキーのこの言葉は、貧しさのなか逆境に耐えながら書き続けた作家、または描き続けた芸術家といわれる、彼らの気高く美しい文章、崇高な作品、そんなものはすべてわれわれの幻想が作り上げたきれいごとにすぎないという事実を痛いほど突いている。そして文学とは、芸術とはいったい何であるのかと、ふと考えさせられる。このようなブコウスキーの嘘の否定の文学は、五年生のときに書いた作文で「人は真実よりもきれいな嘘を求めている」と気付いたときにすでに芽生えていたのかもしれない。そもそもブコウスキーの生きたアメリカ社会の常識もまた、嘘だらけなのだ。大多数の人間がアメリカン・ドリームなどと無縁であるにもかかわらず、その大きな嘘はいつの時代もアメリカ社会を覆い隠している。ブコウスキーは労働者の立場からそのような社会の嘘を暴き出す。アメリカを駄目にした張本人であるとしてミッキーマウスを嫌っている。

ブコウスキーの小説は基本的に自身が経験したこと、実際に起きた出来事しか書かれていない。人生にはそうそうドラマティックな展開があるわでけもないし、作られたきれいごとなど通用せず、醜く汚いことのほうが圧倒的に多い。ブコウスキーの小説に書かれていることは、働いて酒を飲んでセックスをして便通の心配する、という日々の繰り返しだ。たまに競馬に打ち込む姿が描かれるが、競馬場などもっとも劇的なドラマとは無縁な場所であるということを強い説得力を持って伝えているにすぎない。それゆえブコウスキーの小説は一見退屈で何も書かれていないというような印象を与える。しかしそのように感じるのはブコウスキーの作品を文学の立場から捉えようとするからである。そもそも文学的価値などとは無縁のところで書いているのがブコウスキーなのだ。

そしてブコウスキーはやはりというか、当然とも言うべきか文壇という世界をもっとも嫌っている。ブコウスキーの作品がアカデミックな文芸界から評価されているのかも怪しいところなのだが、文壇人や文学談話を嫌悪する場面がブコウスキーの小説には何度も出てくる。ブコウスキーは同時代のケルアックやバロウズやギンズバーグなどのビート詩人と一緒にされて論じられることもあまり好ましく思っていないらしく、どちらかといえばパンク詩人と言われるほうが自分に合うように感じると生前に語っていた。


ゲンスブールもまた、フランスの芸能界ではトップクラスの有名人でありながら、芸能界を嫌っていた。偉ぶって嫉妬深い意地の悪い奴らばかりが出入りしていると。同じようにマスコミも嫌っていたが、ゲンスブールはそのマスコミを挑発の場としてうまく利用することを考えたのだった。自らのスキャンダルを売り物にしたのは言うまでもないが、テレビに出る人間たちが皆ネクタイ姿だった時代に、ノーネクタイにジーンズ姿、不精ひげを生やして出演していた。ニュース番組のなかで「税金を払って残るのはこれだけさ」と言いながら500フラン紙幣を燃やして抗議殺到、フランス国歌をレゲエバージョンで歌って右翼に狙われ、生放送中に「あなたとセックスしたい」と大胆な発言で歌手を口説いた。

ブコウスキーとゲンスブール、二人の男について語り継がれる武勇伝(ともいうべき?)はここでは書ききれないし、私の知らない驚くようなエピソードもおそらくまだたくさんあるだろう。私は女だけれど、このとんでもない二人のオヤジの生き方に惹かれるのだ。なぜこんなにも二人が残した作品に心を動かされるのか、なぜ好きなのかと聞かれるとうまく説明ができない。男性としての魅力を感じることがないわけでもないが、そのような憧れとも少し違う。ひとつだけ言えるのは、彼らの作品に漂う、ブコウスキーの精神、ゲンスブールの精神がもっとも私を魅了するということだ。

私はときどき、この二人が出会って酔っぱらいながらジョークを飛ばして互いを罵り合ったり女の趣味をけなしたりするところを想像する。ブコウスキーにしてみれば、ゲンスブールもそのへんのスノッブと何ら変わりはないと思うかもしれない。けれどきっと彼らは意気投合してしまう違いない。もうかなわない、どこか切なく、夢のような話だけれど。


画像上はブコウスキーと晩年をともにすごした妻のリンダ・リー。
画像下はテレビ番組出演時のゲンスブールとバーキン、1969年。

2012-03-29

ブコウスキーとゲンスブール(3)


セルジュ・ゲンスブール(本名:ルシアン・ギンスブルグ)は1928年4月2日、パリのブランシュ街に生まれる。父はオデッサ出身のユダヤ系ロシア人、母もクリミア半島出身のユダヤ系ロシア人で、夫婦はロシア革命の混乱のなか1927年にパリに亡命した。クラシックの作曲家であった父親は、バーでピアノを弾いて慣れない異国での暮らしを支えていた。二人は最初に生まれた長男を悪性肺炎のために一歳4ヶ月で亡くしており、まだ二歳と幼い長女を抱えての貧しい生活であった。母は三人目を身籠ったときに堕胎をする決意をしたが、当時のフランスでは堕胎は犯罪であり、闇医者に頼るしかなかった。しかし下町の闇医者をたずねた彼女はあまりの不潔さに逃げ帰っている。このとき生まれたのがルシアン、セルジュ・ゲンスブールである。しかも驚くべきことに双子であった。ゲンスブールにはジャクリーヌという名の姉と、リリアンヌという双子の姉がいる。


ゲンスブールの父親はロシアの知識階級の出身で、幅広い教養を身に着けたディレッタント、芸術至上主義者であったために、ゲンスブールは貧しくとも貴族的な教育を受けている。学校から帰ると毎日父親からピアノのレッスンを受け、バッハやショパンを弾かされていたが、そのことがとても嫌だったという。幼い頃から絵の才能に秀でていたルシアンは、誰に打ち明けることもなく画家になることを夢見ていた。臆病で内向的な感受性の強い少年で、家庭での恵まれた愛情に反して学校ではいつも孤独であった。


1940年、ドイツ軍による占領がはじまると、一家はフランス中を転々としながらナチスによるユダヤ人狩りから逃げ回った。12歳のルシアン少年もユダヤ人であることを示す黄色い星を胸につけられ、森林伐採などの強制労働をさせられたという。堕胎未遂の末に生まれたゲンスブールは「生まれる前から死に損なった」とのちに語っているが、ナチスによるユダヤ人排斥もまた、望まれざる命であることへの絶望感を強めることになった。そしてユダヤ人で醜男というコンプレックスはゲンスブールに生涯つきまとう。


戦後、美術学校の建築科に入学し、フェルナン・レジェら画家のアトリエにも通って絵を学ぶ。47年から兵役も経験しているが (脱走を企てたことで3ヶ月投獄されてもいる)、あまりにも退屈で13ヶ月の任期を終える頃には立派なアル中になっていたと語っている。しかしアル中はそのときに始まったことではなく、13歳頃からアルコールの味を覚えると、過度の飲酒により意識喪失も経験していた。さらに13歳から吸い始めた煙草はジタンを一日に七箱ともいわれる。


22歳のとき教育センターで美術教師の職を得る。ユダヤ人の子どもたちや収容所から生還した人たちをサポートする施設での仕事であった。生活は厳しく、自宅でピアノを教えて収入を補い、近所の生涯学習センターでワークショップを催したりしている。23歳で一度目の結婚をする。昼は教育センターで美術を教え、生活のために夜はバーやキャバレーでピアノを弾いて稼いでいた。しかし昼夜の二重生活はそう長くは続けられず、夜の仕事のほうが収入が良かったため、思い切って教育センターの仕事を辞めるが、昼間にバーやクラブが開いているわけがなく、家具の塗装やフィルムの色塗りなどのさまざまな副業で食いつないでいた。


ゲンスブールは才能に限界を感じていた画家になるという夢を断念し、音楽の道を選ぶ。26歳のときにはミュージシャン組合に加入し、そのための試験まで受けるという堅実ぶりであった。後のゲンスブールの姿からはまるで想像がつかないが、ソングライターへの予感があったからだった。しかし内気なゲンスブールは歌手にデモテープを売り込むことができず、あまり成果が得られずに終わっている。


ミロール・ラルスイユというキャバレーで、ミシェル・アルノーの専属伴奏者となった。そこで精神的兄弟ともいえるボリス・ヴィアンに出会う。そしてヴィアン自作の歌を聴いたゲンスブールは、この分野なら自分にも何かできるかもしれないと思った。ヴィアンの歌はこれまでの愛を嘆く甘いシャンソンとは違って、常識社会を嘲笑し皮肉った挑発的なものであった。56年、28歳のゲンスブールは『リラの門の切符切り』で歌手デビューする。



ゲンスブール、かく語りき
永瀧 達治
愛育社

2012-03-28

ブコウスキーとゲンスブール(2)

ヘンリー・チャールズ・ブコウスキー・ジュニア(親しい仲間からは「ハンク」と呼ばれている)は1920年8月16日、ドイツのライン河のほとりにあるアンデルナッハという街で生まれる。母はドイツ人、父はアメリカ軍人で、父ヘンリー・ブコウスキー・シニアが兵役でアンデルナッハに駐留していたときに、その地に住む母キャサリンと知り合った。父方の祖父もドイツ人である。ブコウスキーが3歳の時に一家はアメリカに戻り、ロサンジェルスに暮らす。同世代の子どもたちからは「ドイツ野郎」とからかわれ、孤独で退屈な幼少時代をすごした。

ブコウスキーの父親は牛乳配達員の仕事をしていたが、自分ならもっとまともな職に就けるはずだという恨みや不満は厳しいしつけや冷酷な仕打ちとなって一人息子や母親にふりかかっていた。大恐慌の煽りをうけ、父親が失業すると、ブコウスキーはしばしば虐待の対象となった。自身の幼少期から青春時代までを描いた長編小説『Ham on Rye(日本語訳のタイトルは「くそったれ!少年時代」)』によれば母親は父に絶対服従しており、度重なる一方的な折檻についても「父さんはいつも正しいのよ」と息子に説明し、正当化していたようである。ブコウスキーはそのようにどこか歪んだ環境の家庭で育った。

五年生のとき、時の大統領ハーバード・フーバーがロサンジェルスを訪問したときのことを作文を書くと、先生は彼の文章を絶賛し、クラスみんなの前で発表した。しかしブコウスキーは実際には大統領の演説を見に行ったわけではなく、すべて空想で書いたものだった。後になってそのことを白状すると、先生は彼を叱るどころか、だから上手く書けているのだと褒めたたえた。ブコウスキーはこのとき「人は真実を求めているのではなく、上手く出来た嘘を求めているのだ」と気付き、自分は作家であるということを意識し始めたようである。

中学、高校と退屈な日々は何も変わらなかったが、高校生のときにひどいニキビに悩まされ、それは手術を受けるほど深刻なものだった。顔、身体を治療にあてるも腫れ物はいっこうにひかず、数十回にもわたる施術はブコウスキーの外見を醜いものへと変えてしまう。ブコウスキーは容貌への強烈な劣等感に苦しみながら多感な思春期をすごすことになった。

高校卒業後、デパートに就職するが仕事に興味が持てずに辞めてしまう。ロサンジェルス・シティ・カレッジに入学し、ジャーナリズムを専攻するも、この頃書いていた小説が父親に見つかり、タイプライターと原稿を庭先にばらまかれたことに激高し、家を出る。肉体労働をしながら酒を飲んではギャンブルに明け暮れ、喧嘩を繰り返しながら各地を放浪、無頼の日々を送る。マフィアのボスに気に入られ、仲間に誘われるなどしていた。しかしどんなに滅茶苦茶な生活でも作品は書き続けていた。

1952年ごろから郵便局で働き始める。同じ時期にミニコミ誌に詩を投稿するようになり、その雑誌の主宰者であったバーバラ・フライという女性と文通する。ブコウスキーは彼女に手紙でプロポーズし、55年に二人は初めて対面して結婚した。バーバラはテキサス州の富豪の娘で、ブコウスキーは郵便局の仕事を辞めてテキサスで暮らすが、三ヶ月後にはロサンジェルスに戻っている。バーバラとの結婚生活は57年まで続いた。

郵便局に再就職し(今度は12年間続けることになる)昼は働き夜に書くという生活が始まる。60年に最初の詩集が出版され、その二年後には第二詩集が出版された。この頃ニューオリンズで『ジ・アウトサイダー』という文学誌を作っている夫婦と知り合いになり、彼らの雑誌に作品を寄稿するようになった。また彼らの手で55年から書き溜めていた詩がまとめられ出版された。

63年に同じく詩を書いているフランセス・スミスと知り合い同棲を始める。翌年、二人の間に娘が誕生する。ブコウスキーにとってははじめての子どもだったが、彼女にとっては5人目の子どもだった。執筆は順調で、65年に出版した散文集のなかで初めてヘンリー・チナスキーというブコウスキーの分身ともいえるキャラクターが登場している。66年には寄稿家でもあったLCLAの学生がブコウスキーの詩を集めて作った『ファック・フェイト』というポエトリー・ペーパーがわいせつ文書だとして摘発を受ける。

ブコウスキーの名前が知れ渡るようになるのは、60年代も後半になってからだった。ロサンジェルスのオルタナティヴ・ペーパーの『オープン・シティ』にNote of a Dirty Old Manという連載コラムを書き始めると評判になり、単行本化されるとたちまち二万部が売り切れ、ドイツでも翻訳されて出版された。

70年、50歳のブコウスキーは15年勤務した郵便局を辞め、晴れて専業作家となる。郵便局を辞めた翌日から『ポスト・オフィス』という長編の執筆にとりかかり、わずか三週間で一気に書き上げた。



くそったれ!少年時代 (河出文庫)
チャールズ ブコウスキー
河出書房新社

2012-03-27

ブコウスキーとゲンスブール(1)


...私は目を閉じて波の音に耳を傾けた。海の中には無数の魚たちがいて、お互いを食べ合っている。飲み込んでは排泄する果てしない数の口と尻の穴。この世はすべて穴に尽きる。食べて排泄して性交するだけだ。—チャールズ・ブコウスキー『Ham on Rye』(1982年)



俺はリラの門の切符切り/人がすれ違っても目にもとめない男/地下に太陽はない/妙なクルージングさ/......穴をあける、小さい穴、ほらまた小さい穴/小さい穴、小さい穴、いつもいつも小さい穴/これじゃあ気も狂うさ/銃も手にしたくなる/その銃で穴をあけるのさ、小さい穴、最後の小さい穴/それで俺は大きい穴に入れられる/そこだともう穴の話は聞かずにすむ、穴のおとはいっさいなし/小さい穴の、小さい穴の、小さい穴の...—セルジュ・ゲンスブール『Le poinçonner des Lilas』(1958年)





セルジュ・ゲンスブールのデビュー曲『リラの門の切符切り』は、ぼそぼそとつぶやく男の暗いシャンソンのようなポーズをとりながらも革新的な内容で、作家・詩人・トランペット奏者・画家・劇作家・俳優・歌手と、20以上の顔を持つボリス・ヴィアンから「アンチ・シャンソンの誕生、シャンソンはゲンスブールとともに新世紀に入る」と激賞された。

ゲンスブールはこの曲で、ひたすら切符を切り続ける地下鉄の改札員のことを歌っているのだが、地下の暗い世界で切符を切り続ける孤独な男が外の世界へ逃げ出したいと願うも、来る日も来る日も小さな穴をあけているうちについには気が変になって死の願望にとりつかれるようになり、自らの頭にピストルで穴をあけて棺桶の待つ穴に急ぐという、まるで帝政ロシア時代の小説を思わせるような内容で(ゴーゴリのようなユーモアを持っていると私は思うのだが)、さらには繰り返される穴という単語がダブル・ミーニングで性的なメタファーを孕んでいるという、一筋縄ではいかないような歌詞である。

ゲンスブールはデビュー以来このような言葉遊びを好み、プロデューサーとしてアイドルや女優たちに楽曲を提供する時も彼のスタイルは徹底していた。主に性的な内容を扱ったものが多いのだが、それはロリコン趣味のエロオヤジといったイメージを安易に連想させるものではあるが、ユーモアのなかにありったけの皮肉を込めて、ある時には過激なほど自虐的な詞も書いた。

チャールズ・ブコウスキーの小説もまた、過激で自虐的だ。おそらくブコウスキー本人は自虐的な小説を書いているという意識はまるでないと思うのだが(彼が意識的に自虐的な内容を語るときは故意に誇張してユーモアたっぷりに、そしていつでも作家としての冷静な眼差しを欠くことはない)、私にはそのように感じられる。前回の記事でも書いたのだけれど、ブコウスキーの小説は自伝的というか、ほとんど自伝だ。だからブコウスキーの小説を過激で自虐的だと感じるのだとすれば、それはブコウスキーの人生、ブコウスキーそのものが過激に満ちた存在なのであり、自虐的に振る舞うざるを得ない決定的な何かが彼の人生にはあったのだ。

ゲンスブールにも同じようなことが言えるだろう。ゲンスブールに関する書物を読んでいると(どれも永瀧達治氏の本なのだが)、ゲンスブールにもっとも近い「危ないオヤジ」としてブコウスキーの名前が挙げられている。私は偶然にもブコウスキーとゲンスブールをほとんど大差ないタイミングで知ることになったので、ゲンスブールを聴きながらブコウスキーを読むという、方や伊達男の飲んだくれ、方や無頼派の飲んだくれという危険なオヤジとの三角関係に身をまかせながら、なぜこんなにも滅茶苦茶なオヤジに惹かれるのか、もはや狂気の沙汰ともいえるの彼らの生活、彼らの人生について想い、なぜ彼の歌は、なぜ彼の小説はこんなにも美しいのだろうと、もはや時代遅れとなって久しい彼らのこと、彼らの残した作品のこと、それらに恭しくキスをして行き着くことのない想いをめぐらせることにせっせと時間を費やしてきた。そのような私もだいぶ気違いじみているかもしれない。しかしこの二人の男は無茶苦茶でいながら、脆く、繊細で内気な男たちなのだ。まるで思春期の少年の心をそのまま残して、歳だけとってしまったような男たち。要は、とんでもない男たちなのだが。そんな二人の男について思うことを、明日にでも、もう少し。


ベスト・オヴ・セルジュ・ゲンスブール(2CD)
セルジュ・ゲンスブール
ライス・レコード (2011-05-01)

2012-03-23

チャールズ・ブコウスキー


チャールズ・ブコウスキー(Charles Bukowski / 1920-1994)はアメリカの詩人、作家。1944年、24歳で最初の小説を雑誌に発表するも、職を転々としながら飲んだくれの日々をひたすら執筆に打ち込む。1952年頃より郵便局に勤め(さらに飲んだくれながら)雑誌に詩を投稿するようになる。1960年、初の詩集が出版される。しかし昼間は郵便局で働き、夜に書くという二重生活は十年間も続けられた。50歳で郵便局を辞め、以降は(やはり飲んだくれながら)執筆に専念。遅咲きの奇人であった。73歳で亡くなるまで、50冊にもおよぶ詩集や小説が発表されている。自身の生活、体験を扱った作品が多く(というかほとんど自伝)、長編小説『くそったれ!少年時代』『勝手に生きろ!人生』『ポスト・オフィス』『詩人と女たち』の順に読むとブコウスキーの人生が一通りわかるようになっている。ラディカルで奔放な生き様から、パンク詩人の異名を持つ。





みんなが感心したりすることにわたしはまったく感心できず、ひとり取り残されてしまったりするのだ。例を挙げていってみると、次のようなことが含まれる。社交ダンス、ジェット・コースターに乗ること、動物園に行くこと、ピクニック、映画、プラネタリウム、テレビを見ること、野球、葬儀への参列、結婚式、パーティ、バスケット・ボール、自動車競争、ポエトリー・リーディング、美術館、政治集会、デモ、抗議運動、子供たちの遊び、大人の遊び.....ビーチや水泳、スキー、クリスマス、新年、独立記念日、ロック・ミュージック、世界の歴史、宇宙探検、ペットの犬、サッカー、大聖堂、優れた美術作品といったことにも、わたしはまるで興味を引かれなかった。
 ほとんどどんなことにも興味を引かれない人間が、どうしてものを書くことができるのか?どっこい、わたしは書いている。わたしは取り残されたものについて書いて書いて書きまくっている。通りをうろつく野良犬、亭主を殺す妻、ハンバーガーに食らいつく時に強姦者が考えたり感じたりしていること、工場での日々、貧乏人や手足を切断された者、発狂した者がひしめく部屋や路上での生活、そういったたわごと。わたしはそういったたわごとをせっせと書く.....―『ブコウスキーの酔いどれ紀行』中川五郎訳より




チャールズ・ブコウスキーという作家を知ったのはたまたまレンタルで借りてきた『ブコウスキー・オールド・パンク』(2006年)というドキュメンタリー映画だった。レンタル屋の棚に並ぶ映画という映画を片っ端から借りて観ていたモラトリアム期に(今だって充分そうだが)、ブコウスキーの名前を見つけたのだ。だから私は彼の作品を読む前に、彼の、年老いたパンクじじいの姿をこの目にひしと焼きつけることになったのだ。映画は朗読会の映像から始まるのだが、仄暗い部屋のライトの下、煙草をくゆらし、すでに呂律はまわらず酒瓶を片手に聴衆に向かって悪態をつき、酒がないと帰るだのとわめき散らす。ただの飲んだくれじじいである。

私はそれより以前にブコウスキーと同時代人でもあるケルアックが自身の小説をテレビ番組か何かの企画で朗読している映像を観たことがあったのだが、スーツを着込んだケルアックは俳優のようで、舌も滑らか、韻を踏むセンテンスは歌のように聞こえ、さらにはピアノ演奏付きという華やかな演出がなされていた。それにくらべてブコウスキーという爺さんは手始めにバーボンを一気に飲み下し、ぐだぐだと酒をくれだのなんだのと客とやり合う。そしてその特異な容姿。疣に覆われた赤ら顔、背を丸めた大きな図体、なんだか鰐のような男だと思った。

ブコウスキーは自身が醜いということも、ドブネズミのようにみじめな(みじめだった)生活を何の偽りもなしに作品のなかで洗いざらいさらけ出す。彼は専業作家になるまで怠慢な日雇いの肉体労働者で、稼いだ金はすべて競馬と酒代に消え、女と一緒に毎日飲んだくれるという生活を送っていた。酔っぱらいながら書いて書いて書きまくって、たとえ売れなくても文学的価値を認められなくても書くことをやめなかったし、死ななかった。毎晩郵便局の仕事から帰宅したあと、明日こそ辞表を出してあんな仕事辞めてやると酔っぱらいながら息を巻いてタイプライターに向かうのだが、次の日帰宅してみると、結局辞めることができなかったと言って女に泣きつく。それでもブコウスキーは死ななかった。

そんなわけで、私はこの数年というもの、ブコウスキーの作品を頻繁に読んでいる。U2のボノやショーン・ペーンがリスペクとする作家というフレコミで、日本では90年代にブコウスキーブームがにわかに起こったらしいのだが、私はだいぶ遅れてブコウスキーに夢中になっている。




ブコウスキー:オールド・パンク [DVD]
コロムビアミュージックエンタテインメント (2006-08-02)

2012-03-07

ジョニー・デップ

いつからか、フランスを中心としたヨーロッパの映画を自然と好んで観るようになったけれど、それでもアメリカ映画のほうがずっと身近に感じるのはなぜだろうと不思議に思っていた。中学の頃にスクリーンという雑誌を定期購読していた子がいて、私は洋画はほとんど観たことがなく、彼女が話題に挙げる俳優の名前を覚えるだけでもちんぷんかんぷんだった。彼女は亡きリヴァー・フェニックス、そしてジョージ・クルーニーが最高だと言っていた。当時、ジョージ・クルーニーは医療ドラマのシリーズに出演していて、映画ではまだブレイクしていなかった。それでも彼女は「ジョージは最高だよ」と来る日も来る日も喋り続けていた。中学を卒業するその日までずっと、「ジョージは最高だよ」と言っていた。その直後、ジョージ・クルーニーがハリウッドで活躍する姿を芸能ニュースなどでもたびたび見かけるようになった。彼女には先見の明があったのだと私はひどく感心したのであった。そんなわけで、ジョージ・クルーニーを見ると今でも私は彼女のことを思い出すのだった。そして彼女のことを思い出すと、あの頃の、教室での出来事がよみがえってくるのだった。スクリーンからお気に入りの俳優の記事を切り抜いてノートにぺたぺたと貼っていた彼女。彼女を通じてハリウッドのゴシップをごくわずかだけれど私も齧っていたのだった。当時、世間ではいわゆるブラピ、ジョニデブームだった。しかし私のまわりではブラピは大人気だったけれど、ジョニー・デップの名前は一度も挙がったことがなかった。ディカプリオが好きだという子もいた。ちょうど『タイタニック』が公開される少し前のことだった。


またもやだいぶ脱線したが、私はアメリカ映画も好きである。そして私も例に漏れず、ジョニー・デップが大好き!なのである。しかし彼の出演作を観たのはだいぶ遅く、『パイレーツ・オブ・カリビアン』で文字通り大スターになってからだ。そこであまのじゃくな私は、あえて『パイレーツ〜』を最初に観ることは避け、彼のフィロモグラフィーをさかのぼって観ていくことにした。するとジョニー・デップという人はとても不思議な俳優だということが(今さら言わなくても誰もがそのように感じているだろうけれど)ことさらに浮き彫りになってくるのであった。

『パイレーツ〜』という映画は、どのシリーズを観てもその面白さはジョニー・デップが演じるジャック・スパロウというキャラクターに依るところが大きい。私は二作目の「デッドマンズ・チェスト」が一番好きで、普通に主役かと思いきや、主演であるジョニー・デップの立ち位置が絶妙である。オーランド・ブルームとキーラ・ナイトレイは基本的に一組でロマンスを展開するのだから物語の中心からブレないのだけれど、ジャック・スパロウはなにやら脇で一人チョロマカしている印象の作品なのだ。ジャック・スパロウという人物は基本的にはヒーローである。しかしヒーローでありながら同時に道化でもあり、すごいことをしながら面白いこともしてしまう。そしてアンチ・ヒーロー的な一面も持っている。そんなとんでもないキャラクターをジョニー・デップはいとも簡単に演じてみせるのだが、そのジャック・スパロウのキャラクターこそが、ハリウッドにおけるジョニー・デップの俳優としてのスタンスを見事にあらわしているのではないだろうか。

ジョニー・デップの過去のフィロモグラフィーはどれも作家性の強い佳作が多く、自ら好んでそういった作品に出演してきた俳優だということがわかる。ティム・バートンの映画だって『エド・ウッド』(1994年)なんてのはB級感が強すぎてけっこうひどい。それでも彼はドル箱映画が主流のハリウッドでいまだにスターの型に外れた反体制的(と書くと大袈裟かもしれないけれど)なことをしていたりする。『パイレーツ〜』への出演が決まったとき、ジョニー・デップはハリウッドに魂を売ったと嘆いたファンも大勢いたと聞く。しかし『パイレーツ〜』のジャック・スパロウのキャラクターというのも、実はハリウッドにおける彼自身の立ち居振る舞いを反映しているがゆえに魅力的にうつることは確かで、ジョニー・デップという人は子どもが生まれて父親になろうが、歳を重ねるごとに角がとれて丸くなったとしても、根本的な部分はぶれたりしないのである。それどころか新作が公開されるたびに、いまだに彼はいつもファンをドキドキさせたりハラハラさせたりする。


私は大半の作品が後追いになってしまったけれども、これから歳を重ねられ、俳優として進化し続ける彼を追いかけることができるのは幸せである。いつの時代も素敵だけれど、93〜95年頃の容姿がもっとも美しくて、その澄んだ少年のような瞳にはいつもほれぼれしてしまう。一番上の画像は93年頃で下は95年頃である。93〜95年というと、出演作もラッセ・ハルストレムのやさしい作品からジム・ジャームッシュの詩的で繊細な作品まで、私の好きな映画が並んでいるのも嬉しい。

こういった少しミーハーな記事もたまには良いかなと思っています。大好きな俳優、ミュージシャン、作家、男性に関する記事は「天井桟敷より愛をこめて」というカテゴリでこれから綴っていきたいと思います。女性はすでに「私のミューズ」というカテゴリで綴ってあります。


2012-01-08

デヴィッド・ボウイ

今日はおそらくまともな内容が書けないだろうということを最初に断っておく。1982年生まれの自分にとって、83年における活動とその来日時にボウイが日本人に与えたイメージと後の影響力を考えれば、83年のボウイ・フィーバー(ものすごい陳腐な言い方で申し訳なく思う)を経験していない自分には彼についてなにかを書くなど、その資格はほとんど持ち合わせていないと自覚しているので、それでも好きなアーティストという枠には収まらないボウイのことをどのように書いてよいのか非常に迷っている。


正直なところ、私はボウイについてそれほど多くのことを知っているわけではない。いくら大好きだとはいえたったの十年弱にすぎないのであるから、語るといってもせいぜいお気に入りのアルバムについて一言か二言書ける程度だろう。2004年の、美しさ衰えぬ50代のボウイを拝見することもかなわなかった。


と、言い訳じみた話ばかりしていても仕方がないので、こんなちっぽけな場所でああだこうだと嘆いている今も、ボウイが音楽界にもたらした革新的な偉業は消えることはなく、いつのボウイも美しいという事実に勝るものはないのだから、個人的な想いをいくつか綴ることにしたいと思う。


好きな映画、好きな音楽、好きな芸術家、その他諸々の好きなもの。私の場合、それらすべてが文学から始まっていると言える。そしてボウイを知るきっかけとなったのも文学からであった。それは20歳ぐらいの頃に阿部和重という映画学校出身の面白い純文学作家を知ってからであるが、寡作で知られる彼の小説なかに『プラスティック・ソウル』という名のついたものがあったからである。これについては阿部和重本人が、白人がやるソウル・ミュージックだと揶揄されていたボウイからとったのだとインタビューで答えており、そのことが私の興味をボウイに向かわせたのであった。(阿部和重についても後々書くことになるだろう)


また初心者のようなことを書いて申し訳ないのだが、ボウイといえばアルバムごとにサウンドとそれに付随するような形で容姿を変化させ続けきたことがまず一番に言われる。そしてボウイのファンは一番好きなアルバムを選ぶという過酷な選択を強いられるのであるが、一番好きなアルバムは...などと言っているようでは、まだまだボウイの音楽を十分に聴き込めていないのだとも痛感している。どのアルバムを一番に挙げるかによってその人の性格まで透けて見えるようだと言う人もいるけれど、どのアルバムもその時代その当時のボウイの精一杯の意識を体現した作品なので私はあまりそのように考えることはない。けれど、やはり一番好きなボウイのアルバムについて、ブログなどに書かれている文章を読むのは相手がどこの誰か知らなくとも楽しい。





そして今の私は絶対に『LOW』である。このアルバムは私が勝手に別名「穴」と名付けているアルバムでもある。なぜなら、一曲目の『Speed of Life』を聴くといつも不思議の国のアリスのごとく、穴に落ちていくような感覚をおぼえるからである。一曲ごとに場面が変わる。ホテルの一室、遊園地、サーカス小屋、宇宙、暗く凍てついたワルシャワの街路、このイメージはそのときどきによって変化するが、ボウイのアルバムのなかでは多彩なサウンドのみならずもっとも視覚野を刺激する作品なのである。そして最後には眠りに落ちるようなアルバムである。実際に私はこのアルバムをかけて眠ることが多い。


ところで私の記憶では、80年代に日曜のお昼に生放送されていたたけしのスーパージョッキーのオープニングに『Speed of Life』が使用されていたような気がしていたのだけれど、検索をかけてもそのような内容はヒットしないので、一体どこではじめてこの曲を聴いたのかいっこうに謎が解けないでいる。






さて、最後になるが、上の写真はおそらくマニッシュ・ボーイズという名前のモッズバンドに在籍して活動していた、まだ10代の頃のボウイである。特別めずらしい写真ではないが、私はベッドの脇のコルクボードにこの画像を引き伸して印刷したものを貼っている。その隣には『二十歳の恋』に出演したときのジャン=ピエール・レオーの写真がある。私のすきなものである。

ボウイは私のアイドルに違いないが、とても不思議な存在だ。彼の顔、佇まいはそれがどんなに退廃的な時期であってもひじょうに美しいが、同時にグロテスクであり、胡散臭さすらおぼえる時があるからである。美と醜が共存しているような人なのである。

私は以前、ギリシャ神話を読みながら、登場する神々に性格や特徴の似たロック・スターを当てはめて読み耽っていたことがあったが、ボウイはどちらかというと神の側ではなく人間の側に近い人物なのだった。多くの誘惑に負けては過ちを認めて立ち上がり、さらに負けては再起するを繰り返すような、ひじょうに人間臭い人物のように私にはうつるのである。そしてやがて神としてむかえられるような、そのような人間だと思うのだ。

今日はボウイ65歳の誕生日である。