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2013-07-06

Jane Birkin ジェーン・バーキン 「Lolita Go Home」


以前書いたカヒミ・カリィの記事(彼女のいじらしいハミングはいつだって魔法のようだから)でも触れていましたが、「Lolita Go Home」は私にとって少し特別な曲。初めて聴いたのは中学生。歌っていたのはジェーン・バーキンではなくカヒミ・カリィだった。CMで見た姿にひと目惚れし、近所にあった中古屋のカヒミ・カリィのコーナーから『Girly』というアルバムをジャケ買い。当時はジャケットの謂れも、2曲がカバーだということもまったく分からぬまま、同じ日本人とは思えぬ綺麗なお顔と、それまでの人生で一度も聴いたことことのない不思議な歌声にすーっと引き込まれてしまった。衝動的に手に入れたCDが日本語の歌ではなかったので少し戸惑ったけれど。洋楽のCDも一枚も持っていない頃。フランス語とスペイン語の区別もつかなくて読めないのだし、そもそもフランス語を耳にすること自体が初めての体験に近かった。

最初に気に入ったのが2曲目の「Lolita Go Home」だった。ファッション誌で目にする「ロリータ」という単語が入っているという他愛のない理由から。(私は「CUTIE」と「ZIPPER」を購読していた。懐かしい!)ナボコフの小説は読んだことがなく、元々の意味など把握しているわけもない。勿論キューブリックの映画を初めて観たときも相当勘違いしていたのだし。当時は完全にファッション用語だと思っていたから、訳詞を見ても娼婦だとか紳士がヨダレなんて出て来るし正直あまりピンとこなかったけれど、「ロリータ、ロリータ・ゴー・ホーム」と口ずさむのには時間はかからなかった。ちなみに『Girly』の歌詞カードにはロリタ、と記載されている。ロリータともロリィタともロリヰタとも書けば、また違ったニュアンスになる日本語の妙。


*

ジェーン・バーキンのアルバム『Lolita Go Home』がリリースされたのは1975年。ジェーンはすでにゲンスブールとの連名で数枚のアルバムを発表していたけれど、このアルバムはすべての楽曲をゲンスブールが手掛けているわけではない。作詞は映像作家のフィリップ・ラブロによるものが大半を占める。「Lolita Go Home」はゲンスブール作曲、アルバムのオープニングを飾る曲。歌詞にはゲンスブールをそのまま連想させる紳士が登場するけれど、作詞を担当したのはラブロのようだ。

ジェーンの声はなんと形容すれば良いのだろう?私はウィスパー・ヴォイスが大好き!年代を問わずウィスパー・ヴォイスにはガーリーなイメージとノスタルジーが交差する。可憐で儚げな少女を思わせる、弱々しくどこかぎこちない歌い方。もちろんウィスパー・ヴォイスと言っても、砂糖菓子のように甘い歌声もいれば、涼しげな声もあるし、時には毒を持ったアーティストもいる。

ジェーンの声は衝撃的だった。ウィスパー・ヴォイスと括ってしまうにはあまりにも個性的で大胆だとも。官能的な吐息。ジェーンの歌声はジェーン・バーキンの声としか説明がつかない。ジェーンの魅力のひとつに英国訛りのフランス語がある。歌手としてのジェーンを評価する時にも、英国訛りのフランス語が掻き立てる効果云々など書かれていることが多い。正直私は発音のことはよく分からないので(初めて聴いたウィスパー・ヴォイスの女性歌手がカヒミということもあって、フランス語の響きと囁き声に親密な関連性を見出してしまいたくなるのだけれど)、やはりジェーンの歌声の魅力を引き出したのはゲンスブールの歌唱指導によるところが大きいのだと思う。官能ともの憂げな少女が綯い交ぜになったロリータのイメージ。もちろん単純にオツムの弱い尻軽娘ではなかったから、ジェーンは歌手として開花していったのだけれど。



YouTubeより、素晴らしい動画!(どうやら貼付けコードが無効のようです。こちらよりYouTubeへアクセスするとご覧になれます)「Lolita Go Home」を歌うマーメイドのようなジェーン、29歳頃。TV番組のようです。一瞬ですが、ゲンスブールの姿も映ります。借りて来た猫のような歌い方が特徴的だったけれど、この時期は自我も芽生えた感じのファンキーな歌い方。私はファッションやメイク、スウィンギン・ロンドン時代のジェーンに惹かれている時期が長いけれど、年齢を重ねて成熟過程のロリータというオーラのジェーンも大好き!

下記の歌詞は『Girly』より


*

みんなお上品ぶって あたしを振り返るわ
とくに女たち... どうしてかしら?
私の靴やソックスやスカートを じろじろみるの
そしてみんなあたしを"娼婦よ" っていうのが耳に入るわ
ロリタ、ロリタはお家へ帰る......

みんなどこまでもあたしを追ってくるわ
フリッパーの玉みたい
鉄の機械の中で
バカみたいにぶつかりあっている
あたしはバックの中に 厚紙も紐も全部つめたの
みんなの皮肉に もう耐えられなかったの
ロリタ、ロリタはお家へ帰る......

雨戸は閉まっていたけど あたしは視線を感じていたの
だからあたしは背を曲げて 駅へ行ったわ
みんな、あたしのことを
恐ろしいやつだったっていうと思うわ
あたしは 女たちがギッシリ列をつめて
コーラスを 叫んでいるのをみたわ
ロリタ、ロリタはお家へ帰る......

食堂車で あたしは紅茶を頼んだ
別に何もしていなくて
足を開いて坐っただけ
それなのに あたしの前で
老いぼれの紳士が よだれを流しているわ
そしてあたしは 汽車の音を聞いたの......
ロリタ、ロリタはお家へ帰る......



ロリータ・ゴー・ホーム
ジェーン・バーキン
USMジャパン (2011-05-11)



2012-11-13

『La noyée』(ラノワイエ・溺れるひと)



あなたは流れて行ってしまう/思い出の川の上を
僕は岸の上を走りながら/戻って来るようにと叫ぶ
それでもゆっくりとあなたは遠ざかる
僕は必死に走って/少しずつあなたに追いつく


ときどきあなたは沈む/揺れ動く液体の中に
いくつかの茨をかすめ/ためらいながら僕を待つ
まくれあがったドレスで顔をかくしながら
恥と後悔が/醜くすることをおそれて


あなたはもはや/哀れな漂流物
水に流れる死んだ雌犬にすぎない
けれど僕は今でもあなたの奴隷だから
流れの中に飛び込もう
記憶が停止したとき
忘却の大海が
僕らの心臓や脳を破壊しながら
永遠に二人をひとつにする



ゲンスブールが残した美しい曲のひとつに『La noyée(ラノワイエ)』という溺れ死んで行く女を歌ったものがある。この曲はまだ若造だった頃のゲンスブールがシャンソン界の大スター、イヴ・モンタンにわざわざ彼の家まで足を運んで自ら売り込んだ楽曲であったのだけれど、結局モンタンがこの曲を歌うことはなかった。そしてこの名曲をどういうわけなのか、ゲンスブール自身も録音しなかったので、長い間お蔵入りとなったままだった。しかし2004年にカーラ・ブルーニのカヴァーで世に知られてしまう(!)


ゲンスブールはこの曲を一度だけテレビで歌っている。1972年11月4日、Samedi Loisirという番組のようである。このときの映像は現在DVDにもなっていて、『Gainsbourg et caetera』という写真集に付属したCDに短いインタビューとともに音源が収録されている。幸運にも私はこのCDを持っていて、歌が終わると司会者が「セクシー」と言って、「ムハハ...」というゲンスブールのはにかんだ笑いが聞こえてくるのだった。


ゲンスブールが実際に番組で歌っている映像がYoutubeにあったのだけれど、コードが無効になっていて貼付けられなかったので、こちらからどうぞ。美しきセルジュ!こんなにも美しい詞を小汚いオヤジ(若い頃の作品だけれど)が書いた思うと、それだけでいつも泣きそうになる。私は本当にこの曲が好きで、秋になると無性に聴きたくなる。そしてこの曲を聴くと死にたくなる。





セルジュ・ゲンスブール 1970-1989 [DVD]
ユニバーサル インターナショナル (2011-05-11)

2012-04-01

ブコウスキーとゲンスブール(4)

ブコウスキーはゲンスブールより8歳年上だが、ゲンスブールより3年長く生きた。1991年3月2日、自宅で一人仕事中のゲンスブールは心臓発作で亡くなった。62歳だった。ブコウスキーは1994年3月9日、73歳で白血病で亡くなっている。フランスとアメリカ、二人は異なる社会、まるで価値観のかけ離れた両親のもとに育ちながらも似通った点は多い。移民の息子であること、容姿への強烈なコンプレックスを抱えていたこと、アル中、酒と煙草と女と孤独を愛し、どちらもその作品のなかで常識社会を嘲笑し皮肉りながら、スキャンダラスな挑発をし続けていた。同時代に生きながら、互いの存在を知っていたかどうかも今となってはわからない。

二人に共通するもっとも面白い逸話は、それぞれが自らを投じた分野を端から否定していたということである。ゲンスブールであれば、アンチ・シャンソン、ブコウスキーはアンチ文学の精神である。画家になることを志し、貴族的な教育を受けたゲンスブールにとって一流と呼べる芸術は、音楽であればクラシック、絵画、純文学なのであって、クラブやバーで演奏するシャンソンやスタンダード曲などは二流芸術にすぎず、60年代の華やかなポップスの世界で彼は一時代を築くことに成功したように見えるが、本人にしてみれば、ポップスなんていうものは所詮二流なのである。ゲンスブールにとって純粋芸術である絵画を捨てて二流である歌謡界に身を投じることは、たとえそれが自ら選んだ道だとしても、純粋芸術に対する未練と二流芸術への劣等感は生涯彼につきまとい、成功しながらにして不幸という、決して癒されることのない強迫観念にとらわれることになったのだった。


ブコウスキーの場合はもっと過激だ。ブコウスキーに言わせると、もはや文学にとどまらずすべての芸術は嘘まみれである。肉体労働者であった彼は、貧しさが、飢えが傑作を生み出すということはまずあり得ないということを身をもって経験しているからだ。『勝手に生きろ!』という小説のなかで、ブコウスキーの分身である主人公のチナスキーは金がなくてキャンディーバーだけを舐めながら小説を書いているのだが、そこで彼はこんなことを言っている。「空腹が俺の芸術を高めることはなかった。かえって邪魔になっただけだ」と。ブコウスキーのこの言葉は、貧しさのなか逆境に耐えながら書き続けた作家、または描き続けた芸術家といわれる、彼らの気高く美しい文章、崇高な作品、そんなものはすべてわれわれの幻想が作り上げたきれいごとにすぎないという事実を痛いほど突いている。そして文学とは、芸術とはいったい何であるのかと、ふと考えさせられる。このようなブコウスキーの嘘の否定の文学は、五年生のときに書いた作文で「人は真実よりもきれいな嘘を求めている」と気付いたときにすでに芽生えていたのかもしれない。そもそもブコウスキーの生きたアメリカ社会の常識もまた、嘘だらけなのだ。大多数の人間がアメリカン・ドリームなどと無縁であるにもかかわらず、その大きな嘘はいつの時代もアメリカ社会を覆い隠している。ブコウスキーは労働者の立場からそのような社会の嘘を暴き出す。アメリカを駄目にした張本人であるとしてミッキーマウスを嫌っている。

ブコウスキーの小説は基本的に自身が経験したこと、実際に起きた出来事しか書かれていない。人生にはそうそうドラマティックな展開があるわでけもないし、作られたきれいごとなど通用せず、醜く汚いことのほうが圧倒的に多い。ブコウスキーの小説に書かれていることは、働いて酒を飲んでセックスをして便通の心配する、という日々の繰り返しだ。たまに競馬に打ち込む姿が描かれるが、競馬場などもっとも劇的なドラマとは無縁な場所であるということを強い説得力を持って伝えているにすぎない。それゆえブコウスキーの小説は一見退屈で何も書かれていないというような印象を与える。しかしそのように感じるのはブコウスキーの作品を文学の立場から捉えようとするからである。そもそも文学的価値などとは無縁のところで書いているのがブコウスキーなのだ。

そしてブコウスキーはやはりというか、当然とも言うべきか文壇という世界をもっとも嫌っている。ブコウスキーの作品がアカデミックな文芸界から評価されているのかも怪しいところなのだが、文壇人や文学談話を嫌悪する場面がブコウスキーの小説には何度も出てくる。ブコウスキーは同時代のケルアックやバロウズやギンズバーグなどのビート詩人と一緒にされて論じられることもあまり好ましく思っていないらしく、どちらかといえばパンク詩人と言われるほうが自分に合うように感じると生前に語っていた。


ゲンスブールもまた、フランスの芸能界ではトップクラスの有名人でありながら、芸能界を嫌っていた。偉ぶって嫉妬深い意地の悪い奴らばかりが出入りしていると。同じようにマスコミも嫌っていたが、ゲンスブールはそのマスコミを挑発の場としてうまく利用することを考えたのだった。自らのスキャンダルを売り物にしたのは言うまでもないが、テレビに出る人間たちが皆ネクタイ姿だった時代に、ノーネクタイにジーンズ姿、不精ひげを生やして出演していた。ニュース番組のなかで「税金を払って残るのはこれだけさ」と言いながら500フラン紙幣を燃やして抗議殺到、フランス国歌をレゲエバージョンで歌って右翼に狙われ、生放送中に「あなたとセックスしたい」と大胆な発言で歌手を口説いた。

ブコウスキーとゲンスブール、二人の男について語り継がれる武勇伝(ともいうべき?)はここでは書ききれないし、私の知らない驚くようなエピソードもおそらくまだたくさんあるだろう。私は女だけれど、このとんでもない二人のオヤジの生き方に惹かれるのだ。なぜこんなにも二人が残した作品に心を動かされるのか、なぜ好きなのかと聞かれるとうまく説明ができない。男性としての魅力を感じることがないわけでもないが、そのような憧れとも少し違う。ひとつだけ言えるのは、彼らの作品に漂う、ブコウスキーの精神、ゲンスブールの精神がもっとも私を魅了するということだ。

私はときどき、この二人が出会って酔っぱらいながらジョークを飛ばして互いを罵り合ったり女の趣味をけなしたりするところを想像する。ブコウスキーにしてみれば、ゲンスブールもそのへんのスノッブと何ら変わりはないと思うかもしれない。けれどきっと彼らは意気投合してしまう違いない。もうかなわない、どこか切なく、夢のような話だけれど。

*
画像上はブコウスキーと晩年をともにすごした妻のリンダ・リー。
画像下はテレビ番組出演時のゲンスブールとバーキン、1969年。

2012-03-29

ブコウスキーとゲンスブール(3)


セルジュ・ゲンスブール(本名:ルシアン・ギンスブルグ)は1928年4月2日、パリのブランシュ街に生まれる。父はオデッサ出身のユダヤ系ロシア人、母もクリミア半島出身のユダヤ系ロシア人で、夫婦はロシア革命の混乱のなか1927年にパリに亡命した。クラシックの作曲家であった父親は、バーでピアノを弾いて慣れない異国での暮らしを支えていた。二人は最初に生まれた長男を悪性肺炎のために一歳4ヶ月で亡くしており、まだ二歳と幼い長女を抱えての貧しい生活であった。母は三人目を身籠ったときに堕胎をする決意をしたが、当時のフランスでは堕胎は犯罪であり、闇医者に頼るしかなかった。しかし下町の闇医者をたずねた彼女はあまりの不潔さに逃げ帰っている。このとき生まれたのがルシアン、セルジュ・ゲンスブールである。しかも驚くべきことに双子であった。ゲンスブールにはジャクリーヌという名の姉と、リリアンヌという双子の姉がいる。


ゲンスブールの父親はロシアの知識階級の出身で、幅広い教養を身に着けたディレッタント、芸術至上主義者であったために、ゲンスブールは貧しくとも貴族的な教育を受けている。学校から帰ると毎日父親からピアノのレッスンを受け、バッハやショパンを弾かされていたが、そのことがとても嫌だったという。幼い頃から絵の才能に秀でていたルシアンは、誰に打ち明けることもなく画家になることを夢見ていた。臆病で内向的な感受性の強い少年で、家庭での恵まれた愛情に反して学校ではいつも孤独であった。


1940年、ドイツ軍による占領がはじまると、一家はフランス中を転々としながらナチスによるユダヤ人狩りから逃げ回った。12歳のルシアン少年もユダヤ人であることを示す黄色い星を胸につけられ、森林伐採などの強制労働をさせられたという。堕胎未遂の末に生まれたゲンスブールは「生まれる前から死に損なった」とのちに語っているが、ナチスによるユダヤ人排斥もまた、望まれざる命であることへの絶望感を強めることになった。そしてユダヤ人で醜男というコンプレックスはゲンスブールに生涯つきまとう。


戦後、美術学校の建築科に入学し、フェルナン・レジェら画家のアトリエにも通って絵を学ぶ。47年から兵役も経験しているが (脱走を企てたことで3ヶ月投獄されてもいる)、あまりにも退屈で13ヶ月の任期を終える頃には立派なアル中になっていたと語っている。しかしアル中はそのときに始まったことではなく、13歳頃からアルコールの味を覚えると、過度の飲酒により意識喪失も経験していた。さらに13歳から吸い始めた煙草はジタンを一日に七箱ともいわれる。


22歳のとき教育センターで美術教師の職を得る。ユダヤ人の子どもたちや収容所から生還した人たちをサポートする施設での仕事であった。生活は厳しく、自宅でピアノを教えて収入を補い、近所の生涯学習センターでワークショップを催したりしている。23歳で一度目の結婚をする。昼は教育センターで美術を教え、生活のために夜はバーやキャバレーでピアノを弾いて稼いでいた。しかし昼夜の二重生活はそう長くは続けられず、夜の仕事のほうが収入が良かったため、思い切って教育センターの仕事を辞めるが、昼間にバーやクラブが開いているわけがなく、家具の塗装やフィルムの色塗りなどのさまざまな副業で食いつないでいた。


ゲンスブールは才能に限界を感じていた画家になるという夢を断念し、音楽の道を選ぶ。26歳のときにはミュージシャン組合に加入し、そのための試験まで受けるという堅実ぶりであった。後のゲンスブールの姿からはまるで想像がつかないが、ソングライターへの予感があったからだった。しかし内気なゲンスブールは歌手にデモテープを売り込むことができず、あまり成果が得られずに終わっている。


ミロール・ラルスイユというキャバレーで、ミシェル・アルノーの専属伴奏者となった。そこで精神的兄弟ともいえるボリス・ヴィアンに出会う。そしてヴィアン自作の歌を聴いたゲンスブールは、この分野なら自分にも何かできるかもしれないと思った。ヴィアンの歌はこれまでの愛を嘆く甘いシャンソンとは違って、常識社会を嘲笑し皮肉った挑発的なものであった。56年、28歳のゲンスブールは『リラの門の切符切り』で歌手デビューする。



ゲンスブール、かく語りき
永瀧 達治
愛育社

2012-03-27

ブコウスキーとゲンスブール(1)

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...私は目を閉じて波の音に耳を傾けた。海の中には無数の魚たちがいて、お互いを食べ合っている。飲み込んでは排泄する果てしない数の口と尻の穴。この世はすべて穴に尽きる。食べて排泄して性交するだけだ。—チャールズ・ブコウスキー『Ham on Rye』(1982年)


*
俺はリラの門の切符切り/人がすれ違っても目にもとめない男/地下に太陽はない/妙なクルージングさ/......穴をあける、小さい穴、ほらまた小さい穴/小さい穴、小さい穴、いつもいつも小さい穴/これじゃあ気も狂うさ/銃も手にしたくなる/その銃で穴をあけるのさ、小さい穴、最後の小さい穴/それで俺は大きい穴に入れられる/そこだともう穴の話は聞かずにすむ、穴のおとはいっさいなし/小さい穴の、小さい穴の、小さい穴の...—セルジュ・ゲンスブール『Le poinçonner des Lilas』(1958年)





セルジュ・ゲンスブールのデビュー曲『リラの門の切符切り』は、ぼそぼそとつぶやく男の暗いシャンソンのようなポーズをとりながらも革新的な内容で、作家・詩人・トランペット奏者・画家・劇作家・俳優・歌手と、20以上の顔を持つボリス・ヴィアンから「アンチ・シャンソンの誕生、シャンソンはゲンスブールとともに新世紀に入る」と激賞された。

ゲンスブールはこの曲で、ひたすら切符を切り続ける地下鉄の改札員のことを歌っているのだが、地下の暗い世界で切符を切り続ける孤独な男が外の世界へ逃げ出したいと願うも、来る日も来る日も小さな穴をあけているうちについには気が変になって死の願望にとりつかれるようになり、自らの頭にピストルで穴をあけて棺桶の待つ穴に急ぐという、まるで帝政ロシア時代の小説を思わせるような内容で(ゴーゴリのようなユーモアを持っていると私は思うのだが)、さらには繰り返される穴という単語がダブル・ミーニングで性的なメタファーを孕んでいるという、一筋縄ではいかないような歌詞である。

ゲンスブールはデビュー以来このような言葉遊びを好み、プロデューサーとしてアイドルや女優たちに楽曲を提供する時も彼のスタイルは徹底していた。主に性的な内容を扱ったものが多いのだが、それはロリコン趣味のエロオヤジといったイメージを安易に連想させるものではあるが、ユーモアのなかにありったけの皮肉を込めて、ある時には過激なほど自虐的な詞も書いた。

チャールズ・ブコウスキーの小説もまた、過激で自虐的だ。おそらくブコウスキー本人は自虐的な小説を書いているという意識はまるでないと思うのだが(彼が意識的に自虐的な内容を語るときは故意に誇張してユーモアたっぷりに、そしていつでも作家としての冷静な眼差しを欠くことはない)、私にはそのように感じられる。前回の記事でも書いたのだけれど、ブコウスキーの小説は自伝的というか、ほとんど自伝だ。だからブコウスキーの小説を過激で自虐的だと感じるのだとすれば、それはブコウスキーの人生、ブコウスキーそのものが過激に満ちた存在なのであり、自虐的に振る舞うざるを得ない決定的な何かが彼の人生にはあったのだ。

ゲンスブールにも同じようなことが言えるだろう。ゲンスブールに関する書物を読んでいると(どれも永瀧達治氏の本なのだが)、ゲンスブールにもっとも近い「危ないオヤジ」としてブコウスキーの名前が挙げられている。私は偶然にもブコウスキーとゲンスブールをほとんど大差ないタイミングで知ることになったので、ゲンスブールを聴きながらブコウスキーを読むという、方や伊達男の飲んだくれ、方や無頼派の飲んだくれという危険なオヤジとの三角関係に身をまかせながら、なぜこんなにも滅茶苦茶なオヤジに惹かれるのか、もはや狂気の沙汰ともいえるの彼らの生活、彼らの人生について想い、なぜ彼の歌は、なぜ彼の小説はこんなにも美しいのだろうと、もはや時代遅れとなって久しい彼らのこと、彼らの残した作品のこと、それらに恭しくキスをして行き着くことのない想いをめぐらせることにせっせと時間を費やしてきた。そのような私もだいぶ気違いじみているかもしれない。しかしこの二人の男は無茶苦茶でいながら、脆く、繊細で内気な男たちなのだ。まるで思春期の少年の心をそのまま残して、歳だけとってしまったような男たち。要は、とんでもない男たちなのだが。そんな二人の男について思うことを、明日にでも、もう少し。


ベスト・オヴ・セルジュ・ゲンスブール(2CD)
セルジュ・ゲンスブール
ライス・レコード (2011-05-01)

2012-01-07

彼女のいじらしいハミングはいつだって魔法のようだから

昨夜の予告どおり、今日は私の十年来のミューズとして心の核に君臨し続けておられる歌姫について付随する想いを綴りたいと思う。なにやら宗教めいた香りの漂う表現になってしまったが、今もなお聡明で可愛らしい方なので、今日は私の文体もいつもより柔らかな口調になりそうな気がしてもいる。

2000年代に入り、歌姫という言葉が幅広い意味であらゆる分野の女性歌手にあてがわれたが、今ではだいぶ使い古され、記号化された無機質な言葉のようでさえあるわけだが、さらに時代を遡ると、90年代前半にどこからともなくふらりとあらわれた歌姫がひとり、いたのであった。世間は彼女のことを「渋谷系の歌姫」とさかんに紹介したがっていたが、私自身(当時11-12歳)が渋谷系と呼ばれるものを渋谷の文化として体験しておらず、彼女の歌も渋谷系という名のつくモノのひとつとして聴いていたわけではなかった。そもそも渋谷系という言葉を知っていたかどうかすらあやしいところである。そしてそのころ渋谷系の王子と呼ばれていた小沢健二は「オザケン」として、襟の大きなシャツを着て、ブラウン管の向こうからいささかの胡散臭さをふりまいていた。(小沢健二のこのイメージは十年後に私のなかで激変する。もちろん素晴らしく良いものにである)

カヒミ・カリィを知ったのはアニメ「ちびまる子ちゃん」である。『ハミングがきこえる』(さくらももこ作詞、小山田圭吾作曲による)が「まる子」のオープニングを飾っていたのだ。同世代の人間と好きな音楽の話をしてカヒミ・カリィの名前を挙げると、たいていの相手は「ちびまる子ちゃん」のオープニングを連想するらしい。しかも、まる子の歴代のオープニングでは「ピーヒャラピーヒャラ」の次にこれを記憶している人も多いらしく、歌詞も覚えていてモノマネで歌えるという器用な方もなかにはいる。けれどカヒミが好きという友人はまわりにいなかったので(案の定、声がちょっと苦手という子もいた)学校ではカヒミ好きを公言することを封印していた。



そして私が動いている彼女を見たのは、「まる子」の放送の合間に流れていた森永ハイチュウのCMである。真っ赤なパッケージのハイチュウの山に寝転がって短い台詞を喋るのだが、彼女のウィスパーヴォイスは不思議なトーンを放ち、片言の日本語のように聞こえ、画面下に出現する「カヒミ・カリィ」というテロップも手伝い、国籍不明な佇まいであった。そして私は名前と歌声しか知らない彼女に淡い憧れを抱くようになる。

カヒミ・カリィ。魔術的な響きを持つミステリアースな名前、溜め息のような欠伸のような猫の鳴き声のような蚊の羽ばたきのような歌声、可憐で聡明な容姿、すべてにおいて完璧な一目惚れであった。こんなふうに書いてしまうとちょっと狂信的な気もするけれど、彼女はもうずっと私の憧れの女性のひとりである。アクサン、セディーユ、慣れない綴り字記号にうっとりした十代の頃は、歌詞カードの中から意味もわからぬままフランス語を書き写していた。彼女の活動に影響されて第二外国語には迷わず仏語を取った。(ここまでしておきながら仏語の上達とは無縁のまま現在に至る)




初めて買ったCDはまだ小山田圭吾がプロデュースしていた頃の『Girly』である。まずはキュートなタイトルにロック・オン!(余談ですが私の携帯のメールアドレスは変更するときには決まってこのカヒミ界隈をうろついています)彼女の容姿が好きだったので、ジャケットに顔が大きく出ているものを選んだ。このジャケットはゲンスブールの『メロディー・ネルソン』のジャケットのパスティーシュ。ぬいぐるみを抱いたキュートな姿のジェーン・バーキンで有名。もちろんそんな背景を知るよしもなく、さらには収録されている『LOLITA GO HOME』がゲンスブールの楽曲のカバーであることにもまったく気付かずに、そのまま十年近い歳月をすごした。のちにゲンスブールに興味を持って色々と調べていくうちに、実は自分が気付いていなかっただけで彼の曲を何度も何度も聴いていたという事実を知って驚き、そしてとても嬉しくなんとも言えぬ誇らしい(!)気持ちになる。
当時13歳?か14歳の私。カヒミ・カリィについてはほとんど何も知らないのに、小山田圭吾の名前は知っていて、彼がソロデビューした際にミュージックステーションでタモリに「一人なのにコーネリアスなの?小山田圭吾でいいんじゃない?」と突っ込まれていたのをなぜだかずっと覚えていた。しかし肝心な(?)、二人が恋人同士であるという事実はずっと知らずにいた。彼女のCDは近所の今はなき中古屋さんですべて揃えていった。運良くそこの中古屋さんには当時発売されていた彼女のCDがすべて置いてあったので、好きなジャケットから選んで買い揃えていった。CDは幾度となく聴いたけれど、彼女に興味はありながらも音楽雑誌まで手に取るようなことはなかったので、あのとき必死になって読み漁ってたらもっと早くゲンスブールやフレンチ・ポップ、ソフトロック、もちろん音楽だけではなく60年代〜70年代の素敵な映画の世界についても深く知ることができたのに、そう思うととても残念でならない。だから私はその時間を取り戻す為に、30代を目前にしてまさに十代の頃のような必死さで未だなまぬるい時に浸りながらこのようなブログをせっせと書いてしまっているのだろう。


カヒミは小柄で、歌声だけでなく普通に喋っているときの声もか細くて聞き取り難いくらいだけれど、声のイメージから儚げな女性をイメージすると、それは彼女にはあまり似つかわしくないような気がする。彼女は強く気高くて美しい人だ。凛々しさをたたえた大きな瞳は彼女の意思の強さをあらわしていそう である。ライフワークからは知的でクールな印象を受けることもあるけれど、彼女のインタビューや文章からは特別なバリアを張ることのないチャーミングな人柄が垣間見えたりする。そして、結婚されてからは言葉の節々にやさしさや柔らかさをまとった「色」が感じられるようになった気がしている。以前はカヒミ・カリィといえ ば白か黒、どちらか一色の人というイメージがあった。


カヒミ・カリィは正体不明だがなんだかとても趣味の良い人、という勝手なイメージが良くも悪くも90年代から現在もそのまま徹底して一人歩きしているような人かもしれない。しかし最近では定期的に更新されるブログを見ると、昔の彼女からは想像もつかなかったようなライフスタイルを提示していて、ほっとしたような寂しいような、複雑な気持ちでながめてしまうこともある。それでもカヒミはこれからも私の一部を負ってくれるのだろうと思う。だって、彼女のいじらしいハミングはいつだって魔法のようだから。その声で私は少女の気持ちを取り戻す。私はまだまだ甘い砂糖菓子の溶ける世界でくたびれたぬいぐるみを抱いていたいのかもしれない。



最後に『Girly』の可愛らしい歌詞カードを。これを見た瞬間(渋谷系のCDの作りってほとんどがそうなのだが)やっぱりカヒミはお洒落な人!というイメージが決定的になる。映画『カラスの飼育』に登場する「Porque Te Vas」のカバーも大好きで、今も時々当時を想い出しては聴いている。



Girly
Girly
posted with amazlet at 12.01.08
Kahimi Karie
CRUE-L RECORDS (1994-06-25)


さて、明日は語ることもためらってしまうほど美しい、世界一見目麗しきロック・スターでトリック・スターでスーパー・スターのお誕生日です。

2012-01-04

彼が生まれてきたのは、既製の美を掻き集めるためではなく、未成の美を作り出すためであった(2)

彼、とはゲンスブールである。

バルドーとの出口なしの愛に終止符を打ったゲンスブールは、心の傷も癒えぬまま一本の映画に出演することを決める。のちに世紀のカップルが誕生した記念碑的映画として語られることになるピエール・グランブラの『スローガン』である。1968年5月、ゲンスブールはイギリスからやってきた若干21歳の小娘、ジェーン・バーキンに出会う。



二人の出だしは最悪であった。ゲンスブールは無名のイギリス娘が相手役であることに腹を立て、フランス語の発音が気に食わないなどと19歳も年下のバーキンに対して大人げない態度をとる。事あるごとに彼女を槍玉に挙げては、内心、バルドーとの破局後、傷ついた心のやり場をなくしていたようでもあった。バーキンは、初めてゲンスブールに会ったときの印象を嫌なやつだと思ったと言っている。撮影のあいだじゅう、イライラと激高しているゲンスブールが怖くて仕方がなかったとも、しかしそんな彼に一目惚れをしたとも。

映画の撮影が順調に進むわけもなく、見るにみかねたスタッフが二人きりで食事をさせようと画策。するとその翌日には二人は手をつないで撮影にあらわれ、映画の内容そのままに恋人同士になっていた。翌年、二人は結婚する。のちに娘のシャルロット・ゲンスブールが生まれるのは承知のとおりであろう。


ゲンスブールはある日バーキンの鼻歌を耳にして、かつてバルドーに捧げ、封印した、あの『ジュテーム・モワ・ノン・プリュ』を再度、彼女と録音することに決める。バルドーとのデュエット同様にバーキンによる喘ぎ声と、性行為あらわすような男女の睦言がひたすら流れるこの曲は、ローマ法王が過激だと激怒し、放送禁止の声明を出したほどであったが、ヨーロッパでは大ヒットする。ちなみに『Je t'aime moi non plus』を日本語に訳すと、「愛しているわ、でも僕はそうでもないよ」といったぐあいになるのだが、ゲンスブールはこのように微妙なニュアンスを含んだ歌詞を好み、言葉遊びを楽しむ天才でもあった。

バーキンにとってはこれが歌手デビューとなったのだが、おそらく聴く人によってはヘタクソ極まりない歌である。さらにイギリス訛りが強いため、フランス語の発音もままならないのだが、なぜかそれが生々しいエロティシズムを感じさせるのである。歌手になりたいという夢を抱いたこともあったというものの、歌の経験は全くなかったバーキンは腹筋が弱く、高音が不安定なか細い声であったが、ゲンスブールはその後、彼女の弱点を最大限に利用するような曲を無数に書き、歌わせる。1969年に二人の連名で発表した『ジェーン&セルジュ』はフレンチ・ポップの金字塔的なアルバムといえるだろう。

バーキンはイギリスで活動していた頃、ミケランジェロ・アントニオーニの映画『欲望』のなかで、映画史上初めてヘアをさらした女優として、もともとスキャンダラスなイメージを持ちあわせてはいたが、『ジュテーム・モワ・ノン・プリュ』『69年はエロな年』といったゲンスブールとのデュエットで彼女のイメージは決定的になった。そしてナボコフの崇拝者でもあったゲンスブールは、バーキンを得たことで理想のロリータを具現化してみせることに成功したのだった。それはフランス・ギャルでは失敗したことであり、ポップスは所詮、二流芸術だと自虐的に言ってみせる彼の、密かな勝利宣言でもあっただろう。

ゲンスブールは「ジェーンは俺が待ち望んでいた女だ」と語る。それはバーキンにとっても同じだろう。聡明な彼女はのちにゲンスブールのために尻軽イギリス娘を演じ続けていたのだと、苦しかったのだと告白した。しかしロンドンのチェルシーをスウィングしていた小娘を、ジェーン・バーキンという美しい女に完成させたのは間違いなくゲンスブールであろう。彼が生まれてきたのは、既製の美を掻き集めるためではなく、未成の美を作り出すためであったからだ。


ゲンスブールについてはまた書くだろうと思います。
明日は2012年1月4日現在、世界でもっとも美しい私の友人について書くつもりでいる。

掲載した画像は私が所有しているゲンスブールの写真集からスキャンしたものです。

2012-01-03

彼が生まれてきたのは、既製の美を掻き集めるためではなく、未成の美を作り出すためであった(1)

元日にプルーストの文章を載せたが、その記事に登場させてもいる私のノートのなかに、プルーストに関して次のような文章も書き込まれてあった。

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彼(プルースト)は生涯の終りに至るまで、自分の部屋を悪趣味だが神聖な物品で満たしていたが、それらは彼に、死んだ両親、自分の幼少時代、失われた時について語りかけるのであった。彼が生まれてきたのは、既製の美を掻き集めるためではなく、未成の美を作り出すためであった。(ジョージ・ペインダー)

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情けないがどの書物から抜粋したものか把握しておらず、さらにジョージ・ペインダーなる人物が分からないので検索してみると、プルーストの伝記を書いた人物のようである。(彼の本は読んでいないのだが、プルーストの伝記であればエドマンド・ホワイト氏による『マルセル・プルースト』が面白かったと記憶している。偶然なのかわからないが著者も同性愛者であり、「ならでは」の視点が持ち込まれた新しいプルースト伝である。)

さて、昨日の記事で予告していたように、今日は昨夜の時点で私が世界でもっとも愛する男について書こうと思うのだが(今さらながらだいぶ誇張された予告ではある)、引き続きプルーストの話なのかとしかめっ面をされていた方には朗報である。今日の主役はプルーストではない。ジョージ・ペインダーによるプルーストに関する上の文章を引用したのは、本日の「私の好きなもの」である人物の一面をひじょうにうまく表しているように思えたからである。

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「彼が生まれてきたのは、既製の美を掻き集めるためではなく、未成の美を作り出すためであった」
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ここでいう既製の美とはブリジット・バルドー、未成の美とはジェーン・バーキンである。
そして彼とは、20世紀最後のデカダンなオヤジ、セルジュ・ゲンスブールにほかならない。

セルジュ・ゲンスブールについて語るべきことはもはや何ひとつ残されていないのではないか?そう考えるのは私だけではないだろう。彼ほどスキャンダルをベースに活動していた音楽家はいないからだ。自らプライベートを切り売りして、そこに喜びを見出していた男である。おそらく今日もこの暗くて湿っぽい場所以外の、世界中どこかのブログで彼の美しい音楽について、それ以上に酒、煙草、女をめぐるエピソードが武勇伝として語られているだろう。そして私はゲンスブールが愛し、創造した、既製の美と未成の美について書こうとしている。これもまた、語り尽くされたお話だ。


画家になる夢を諦め、ピアニストの道を選んだゲンスブールは30歳で歌手デビューするも、暗い歌詞ばかりを歌うさえないシャンソン歌手の一人とみなされていた。彼に転機が訪れるのは1965年、18歳のフランス・ギャルに『夢見るシャンソン人形』を書いて一躍名声を得、これがフレンチ・ポップス(俗に言うイェイェ)の幕開けとなったことはあまりにも有名な話だ。

ゲンスブールとバルドーが出会ったのは実はそれ以前の、1959年、『気分を出してもう一度』(原題:Voules-vous danser avec moi?)という映画での共演である。当時、バルドーはすでにトップ・スター、ゲンスブールはただの歌い手のひとりでしかなかった。二人が恋人同士になるのはまだまだ先の話で、1962年頃から楽曲の提供などを行うようになるも、本格的な恋愛関係に陥るのは「ブリジット・バルドー・ショー」というテレビの企画で共演した1967年の秋頃からである。

これはバルドーの歌とダンスを特集した番組で、『ボニー&クライド』『ハーレイ・ダビッドソン』『コミック・ストリップ』などの名曲が、デュエットの相手であり恋人、不倫相手(バルドーはこのとき人妻)でもあるゲンスブールの手によって次々と生み出される。そして、バルドーに「世界でもっとも美しい曲を書いて」と言われて生まれた、かの有名な『ジュテーム・モワ・ノン・プリュ』もこのとき録音される。しかしセックスを連想させる歌詞と喘ぎ声の演技がはさまれたデュエットは人妻であったバルドーの意思によってお蔵入りとなる。これをきっかけに二人の関係も、燃えさかる炎が消える頃合いをまたずに(特にゲンスブールにとってはかなりの痛手であった)終わってしまうこととなる。

67年のフランスを熱く駆け抜けたスキャンダラスなカップルはこうして伝説となり後世へと語り継がれていくわけだが、バルドーとゲンスブールの蜜月関係はなんとわずか三ヶ月(!)という短い期間であったということはあまり知られていない。


画像は私が所有しているゲンスブールの写真集からスキャンしたものであるが、一枚目のゲンスブールの表情がすげーいいです。ひょっとしてジェーンとのツーショットでも見たことがないのでは?と思わせるような、いい顔だ。とにかくいい顔。完全に恋する男の顔である。すでに完成されたスターに自ら手ほどきをするのは、ゲンスブールにとって涙がでるほど嬉しかったに違いない。のちにゲンスブールは、バルドーと関係を持ったことでユダヤ人で醜男という深く重いコンプレックスが軽減され、自信を持ったとまで言っている。さて、興奮してきたところで続きは明日に書く。