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2012-04-01

ブコウスキーとゲンスブール(4)

ブコウスキーはゲンスブールより8歳年上だが、ゲンスブールより3年長く生きた。1991年3月2日、自宅で一人仕事中のゲンスブールは心臓発作で亡くなった。62歳だった。ブコウスキーは1994年3月9日、73歳で白血病で亡くなっている。フランスとアメリカ、二人は異なる社会、まるで価値観のかけ離れた両親のもとに育ちながらも似通った点は多い。移民の息子であること、容姿への強烈なコンプレックスを抱えていたこと、アル中、酒と煙草と女と孤独を愛し、どちらもその作品のなかで常識社会を嘲笑し皮肉りながら、スキャンダラスな挑発をし続けていた。同時代に生きながら、互いの存在を知っていたかどうかも今となってはわからない。

二人に共通するもっとも面白い逸話は、それぞれが自らを投じた分野を端から否定していたということである。ゲンスブールであれば、アンチ・シャンソン、ブコウスキーはアンチ文学の精神である。画家になることを志し、貴族的な教育を受けたゲンスブールにとって一流と呼べる芸術は、音楽であればクラシック、絵画、純文学なのであって、クラブやバーで演奏するシャンソンやスタンダード曲などは二流芸術にすぎず、60年代の華やかなポップスの世界で彼は一時代を築くことに成功したように見えるが、本人にしてみれば、ポップスなんていうものは所詮二流なのである。ゲンスブールにとって純粋芸術である絵画を捨てて二流である歌謡界に身を投じることは、たとえそれが自ら選んだ道だとしても、純粋芸術に対する未練と二流芸術への劣等感は生涯彼につきまとい、成功しながらにして不幸という、決して癒されることのない強迫観念にとらわれることになったのだった。


ブコウスキーの場合はもっと過激だ。ブコウスキーに言わせると、もはや文学にとどまらずすべての芸術は嘘まみれである。肉体労働者であった彼は、貧しさが、飢えが傑作を生み出すということはまずあり得ないということを身をもって経験しているからだ。『勝手に生きろ!』という小説のなかで、ブコウスキーの分身である主人公のチナスキーは金がなくてキャンディーバーだけを舐めながら小説を書いているのだが、そこで彼はこんなことを言っている。「空腹が俺の芸術を高めることはなかった。かえって邪魔になっただけだ」と。ブコウスキーのこの言葉は、貧しさのなか逆境に耐えながら書き続けた作家、または描き続けた芸術家といわれる、彼らの気高く美しい文章、崇高な作品、そんなものはすべてわれわれの幻想が作り上げたきれいごとにすぎないという事実を痛いほど突いている。そして文学とは、芸術とはいったい何であるのかと、ふと考えさせられる。このようなブコウスキーの嘘の否定の文学は、五年生のときに書いた作文で「人は真実よりもきれいな嘘を求めている」と気付いたときにすでに芽生えていたのかもしれない。そもそもブコウスキーの生きたアメリカ社会の常識もまた、嘘だらけなのだ。大多数の人間がアメリカン・ドリームなどと無縁であるにもかかわらず、その大きな嘘はいつの時代もアメリカ社会を覆い隠している。ブコウスキーは労働者の立場からそのような社会の嘘を暴き出す。アメリカを駄目にした張本人であるとしてミッキーマウスを嫌っている。

ブコウスキーの小説は基本的に自身が経験したこと、実際に起きた出来事しか書かれていない。人生にはそうそうドラマティックな展開があるわでけもないし、作られたきれいごとなど通用せず、醜く汚いことのほうが圧倒的に多い。ブコウスキーの小説に書かれていることは、働いて酒を飲んでセックスをして便通の心配する、という日々の繰り返しだ。たまに競馬に打ち込む姿が描かれるが、競馬場などもっとも劇的なドラマとは無縁な場所であるということを強い説得力を持って伝えているにすぎない。それゆえブコウスキーの小説は一見退屈で何も書かれていないというような印象を与える。しかしそのように感じるのはブコウスキーの作品を文学の立場から捉えようとするからである。そもそも文学的価値などとは無縁のところで書いているのがブコウスキーなのだ。

そしてブコウスキーはやはりというか、当然とも言うべきか文壇という世界をもっとも嫌っている。ブコウスキーの作品がアカデミックな文芸界から評価されているのかも怪しいところなのだが、文壇人や文学談話を嫌悪する場面がブコウスキーの小説には何度も出てくる。ブコウスキーは同時代のケルアックやバロウズやギンズバーグなどのビート詩人と一緒にされて論じられることもあまり好ましく思っていないらしく、どちらかといえばパンク詩人と言われるほうが自分に合うように感じると生前に語っていた。


ゲンスブールもまた、フランスの芸能界ではトップクラスの有名人でありながら、芸能界を嫌っていた。偉ぶって嫉妬深い意地の悪い奴らばかりが出入りしていると。同じようにマスコミも嫌っていたが、ゲンスブールはそのマスコミを挑発の場としてうまく利用することを考えたのだった。自らのスキャンダルを売り物にしたのは言うまでもないが、テレビに出る人間たちが皆ネクタイ姿だった時代に、ノーネクタイにジーンズ姿、不精ひげを生やして出演していた。ニュース番組のなかで「税金を払って残るのはこれだけさ」と言いながら500フラン紙幣を燃やして抗議殺到、フランス国歌をレゲエバージョンで歌って右翼に狙われ、生放送中に「あなたとセックスしたい」と大胆な発言で歌手を口説いた。

ブコウスキーとゲンスブール、二人の男について語り継がれる武勇伝(ともいうべき?)はここでは書ききれないし、私の知らない驚くようなエピソードもおそらくまだたくさんあるだろう。私は女だけれど、このとんでもない二人のオヤジの生き方に惹かれるのだ。なぜこんなにも二人が残した作品に心を動かされるのか、なぜ好きなのかと聞かれるとうまく説明ができない。男性としての魅力を感じることがないわけでもないが、そのような憧れとも少し違う。ひとつだけ言えるのは、彼らの作品に漂う、ブコウスキーの精神、ゲンスブールの精神がもっとも私を魅了するということだ。

私はときどき、この二人が出会って酔っぱらいながらジョークを飛ばして互いを罵り合ったり女の趣味をけなしたりするところを想像する。ブコウスキーにしてみれば、ゲンスブールもそのへんのスノッブと何ら変わりはないと思うかもしれない。けれどきっと彼らは意気投合してしまう違いない。もうかなわない、どこか切なく、夢のような話だけれど。


画像上はブコウスキーと晩年をともにすごした妻のリンダ・リー。
画像下はテレビ番組出演時のゲンスブールとバーキン、1969年。

2012-03-28

ブコウスキーとゲンスブール(2)

ヘンリー・チャールズ・ブコウスキー・ジュニア(親しい仲間からは「ハンク」と呼ばれている)は1920年8月16日、ドイツのライン河のほとりにあるアンデルナッハという街で生まれる。母はドイツ人、父はアメリカ軍人で、父ヘンリー・ブコウスキー・シニアが兵役でアンデルナッハに駐留していたときに、その地に住む母キャサリンと知り合った。父方の祖父もドイツ人である。ブコウスキーが3歳の時に一家はアメリカに戻り、ロサンジェルスに暮らす。同世代の子どもたちからは「ドイツ野郎」とからかわれ、孤独で退屈な幼少時代をすごした。

ブコウスキーの父親は牛乳配達員の仕事をしていたが、自分ならもっとまともな職に就けるはずだという恨みや不満は厳しいしつけや冷酷な仕打ちとなって一人息子や母親にふりかかっていた。大恐慌の煽りをうけ、父親が失業すると、ブコウスキーはしばしば虐待の対象となった。自身の幼少期から青春時代までを描いた長編小説『Ham on Rye(日本語訳のタイトルは「くそったれ!少年時代」)』によれば母親は父に絶対服従しており、度重なる一方的な折檻についても「父さんはいつも正しいのよ」と息子に説明し、正当化していたようである。ブコウスキーはそのようにどこか歪んだ環境の家庭で育った。

五年生のとき、時の大統領ハーバード・フーバーがロサンジェルスを訪問したときのことを作文を書くと、先生は彼の文章を絶賛し、クラスみんなの前で発表した。しかしブコウスキーは実際には大統領の演説を見に行ったわけではなく、すべて空想で書いたものだった。後になってそのことを白状すると、先生は彼を叱るどころか、だから上手く書けているのだと褒めたたえた。ブコウスキーはこのとき「人は真実を求めているのではなく、上手く出来た嘘を求めているのだ」と気付き、自分は作家であるということを意識し始めたようである。

中学、高校と退屈な日々は何も変わらなかったが、高校生のときにひどいニキビに悩まされ、それは手術を受けるほど深刻なものだった。顔、身体を治療にあてるも腫れ物はいっこうにひかず、数十回にもわたる施術はブコウスキーの外見を醜いものへと変えてしまう。ブコウスキーは容貌への強烈な劣等感に苦しみながら多感な思春期をすごすことになった。

高校卒業後、デパートに就職するが仕事に興味が持てずに辞めてしまう。ロサンジェルス・シティ・カレッジに入学し、ジャーナリズムを専攻するも、この頃書いていた小説が父親に見つかり、タイプライターと原稿を庭先にばらまかれたことに激高し、家を出る。肉体労働をしながら酒を飲んではギャンブルに明け暮れ、喧嘩を繰り返しながら各地を放浪、無頼の日々を送る。マフィアのボスに気に入られ、仲間に誘われるなどしていた。しかしどんなに滅茶苦茶な生活でも作品は書き続けていた。

1952年ごろから郵便局で働き始める。同じ時期にミニコミ誌に詩を投稿するようになり、その雑誌の主宰者であったバーバラ・フライという女性と文通する。ブコウスキーは彼女に手紙でプロポーズし、55年に二人は初めて対面して結婚した。バーバラはテキサス州の富豪の娘で、ブコウスキーは郵便局の仕事を辞めてテキサスで暮らすが、三ヶ月後にはロサンジェルスに戻っている。バーバラとの結婚生活は57年まで続いた。

郵便局に再就職し(今度は12年間続けることになる)昼は働き夜に書くという生活が始まる。60年に最初の詩集が出版され、その二年後には第二詩集が出版された。この頃ニューオリンズで『ジ・アウトサイダー』という文学誌を作っている夫婦と知り合いになり、彼らの雑誌に作品を寄稿するようになった。また彼らの手で55年から書き溜めていた詩がまとめられ出版された。

63年に同じく詩を書いているフランセス・スミスと知り合い同棲を始める。翌年、二人の間に娘が誕生する。ブコウスキーにとってははじめての子どもだったが、彼女にとっては5人目の子どもだった。執筆は順調で、65年に出版した散文集のなかで初めてヘンリー・チナスキーというブコウスキーの分身ともいえるキャラクターが登場している。66年には寄稿家でもあったLCLAの学生がブコウスキーの詩を集めて作った『ファック・フェイト』というポエトリー・ペーパーがわいせつ文書だとして摘発を受ける。

ブコウスキーの名前が知れ渡るようになるのは、60年代も後半になってからだった。ロサンジェルスのオルタナティヴ・ペーパーの『オープン・シティ』にNote of a Dirty Old Manという連載コラムを書き始めると評判になり、単行本化されるとたちまち二万部が売り切れ、ドイツでも翻訳されて出版された。

70年、50歳のブコウスキーは15年勤務した郵便局を辞め、晴れて専業作家となる。郵便局を辞めた翌日から『ポスト・オフィス』という長編の執筆にとりかかり、わずか三週間で一気に書き上げた。



くそったれ!少年時代 (河出文庫)
チャールズ ブコウスキー
河出書房新社

2012-03-23

チャールズ・ブコウスキー


チャールズ・ブコウスキー(Charles Bukowski / 1920-1994)はアメリカの詩人、作家。1944年、24歳で最初の小説を雑誌に発表するも、職を転々としながら飲んだくれの日々をひたすら執筆に打ち込む。1952年頃より郵便局に勤め(さらに飲んだくれながら)雑誌に詩を投稿するようになる。1960年、初の詩集が出版される。しかし昼間は郵便局で働き、夜に書くという二重生活は十年間も続けられた。50歳で郵便局を辞め、以降は(やはり飲んだくれながら)執筆に専念。遅咲きの奇人であった。73歳で亡くなるまで、50冊にもおよぶ詩集や小説が発表されている。自身の生活、体験を扱った作品が多く(というかほとんど自伝)、長編小説『くそったれ!少年時代』『勝手に生きろ!人生』『ポスト・オフィス』『詩人と女たち』の順に読むとブコウスキーの人生が一通りわかるようになっている。ラディカルで奔放な生き様から、パンク詩人の異名を持つ。





みんなが感心したりすることにわたしはまったく感心できず、ひとり取り残されてしまったりするのだ。例を挙げていってみると、次のようなことが含まれる。社交ダンス、ジェット・コースターに乗ること、動物園に行くこと、ピクニック、映画、プラネタリウム、テレビを見ること、野球、葬儀への参列、結婚式、パーティ、バスケット・ボール、自動車競争、ポエトリー・リーディング、美術館、政治集会、デモ、抗議運動、子供たちの遊び、大人の遊び.....ビーチや水泳、スキー、クリスマス、新年、独立記念日、ロック・ミュージック、世界の歴史、宇宙探検、ペットの犬、サッカー、大聖堂、優れた美術作品といったことにも、わたしはまるで興味を引かれなかった。
 ほとんどどんなことにも興味を引かれない人間が、どうしてものを書くことができるのか?どっこい、わたしは書いている。わたしは取り残されたものについて書いて書いて書きまくっている。通りをうろつく野良犬、亭主を殺す妻、ハンバーガーに食らいつく時に強姦者が考えたり感じたりしていること、工場での日々、貧乏人や手足を切断された者、発狂した者がひしめく部屋や路上での生活、そういったたわごと。わたしはそういったたわごとをせっせと書く.....―『ブコウスキーの酔いどれ紀行』中川五郎訳より




チャールズ・ブコウスキーという作家を知ったのはたまたまレンタルで借りてきた『ブコウスキー・オールド・パンク』(2006年)というドキュメンタリー映画だった。レンタル屋の棚に並ぶ映画という映画を片っ端から借りて観ていたモラトリアム期に(今だって充分そうだが)、ブコウスキーの名前を見つけたのだ。だから私は彼の作品を読む前に、彼の、年老いたパンクじじいの姿をこの目にひしと焼きつけることになったのだ。映画は朗読会の映像から始まるのだが、仄暗い部屋のライトの下、煙草をくゆらし、すでに呂律はまわらず酒瓶を片手に聴衆に向かって悪態をつき、酒がないと帰るだのとわめき散らす。ただの飲んだくれじじいである。

私はそれより以前にブコウスキーと同時代人でもあるケルアックが自身の小説をテレビ番組か何かの企画で朗読している映像を観たことがあったのだが、スーツを着込んだケルアックは俳優のようで、舌も滑らか、韻を踏むセンテンスは歌のように聞こえ、さらにはピアノ演奏付きという華やかな演出がなされていた。それにくらべてブコウスキーという爺さんは手始めにバーボンを一気に飲み下し、ぐだぐだと酒をくれだのなんだのと客とやり合う。そしてその特異な容姿。疣に覆われた赤ら顔、背を丸めた大きな図体、なんだか鰐のような男だと思った。

ブコウスキーは自身が醜いということも、ドブネズミのようにみじめな(みじめだった)生活を何の偽りもなしに作品のなかで洗いざらいさらけ出す。彼は専業作家になるまで怠慢な日雇いの肉体労働者で、稼いだ金はすべて競馬と酒代に消え、女と一緒に毎日飲んだくれるという生活を送っていた。酔っぱらいながら書いて書いて書きまくって、たとえ売れなくても文学的価値を認められなくても書くことをやめなかったし、死ななかった。毎晩郵便局の仕事から帰宅したあと、明日こそ辞表を出してあんな仕事辞めてやると酔っぱらいながら息を巻いてタイプライターに向かうのだが、次の日帰宅してみると、結局辞めることができなかったと言って女に泣きつく。それでもブコウスキーは死ななかった。

そんなわけで、私はこの数年というもの、ブコウスキーの作品を頻繁に読んでいる。U2のボノやショーン・ペーンがリスペクとする作家というフレコミで、日本では90年代にブコウスキーブームがにわかに起こったらしいのだが、私はだいぶ遅れてブコウスキーに夢中になっている。




ブコウスキー:オールド・パンク [DVD]
コロムビアミュージックエンタテインメント (2006-08-02)

2012-02-14

阿部和重の処女作『アメリカの夜』(1994)


おそらくこの小説に出会っていなければ、このブログで扱っている内容とは一切無縁であっただろうし、そもそも今の私を形成するあらゆる事柄はほとんどこの小説に影響されたといってもよい。ここ数日というもの相変わらず偏頭痛がひどいのだが、この小説について書くのはいったい何度目になるだろうと思いながら、荒れ狂った本棚から文庫本を引っ張り出してみる。

私はとにかく影響を受けやすいタイプの人間で、ヒトラーが同じ誕生日だと知った時にはとてつもないショックを受けたものだが、その一方で、自分が特別な人間であることの証明になるのではないかと、ヒトラーと誕生日が一緒だということをことあるごとに周囲に喋りまくっていた。もちろんここでは自分以外の4月20日生まれについてはまるで問題にしないというのが暗黙の了解といわんばかりに前提としてあるわけだが、このどうしようもない自意識でうまくやっていけていた十代の頃を振り返ってみると、自信家でアイドル気取りのいびつな恰好をした小娘が何を根拠に自称特別足りうる存在で、ある人曰く明朗活発に暮らしていたのかまるで不思議でならない。今のわたしにとって過去というものは少なくとも良き思い出というよりひとつの脅威になりつつあるのだが、結局のところ大人になったと言えばよいのか、早い話が、自分は特別な人間でもなんでもないという事実を受け入れることがこんなにも困難で苦痛をともなう経験だということを否応にも思い知らされているところである。私もまた、ろくでなしのジレッタントにありがちなストーリーを歩んでいるというわけだ。


阿部和重の『アメリカの夜』(1994年)という小説はそんな私の姿を生き写しにしたようなばかばかしくおかしな面白い話で、長いあいだ私のバイブルだった。もちろん今でも大好きで、さきほど数年振りに読み返してみたのだが、二十代前半の頃に夢中になった時ほどの、この作家について行くぞと思わせるような情熱はもはや薄らいでいたものの、やはり面白い小説だった。強いて言えばおびただしいほどの文学作品の引用というやりかたで文学に近づいていきながらも、裏では文学的な気取りを極力おさえようという、いかにも新人賞に応募するような、真新しいことをしてやろうという素人っぽさが露骨にあらわれていたぐらいのものだった。もはや承知のとおり、『アメリカの夜』というタイトルはトリュフォーの映画からとったものだが、応募時は『生ける屍の夜』というタイトルだった。阿部和重は映画学校出身なのだが、もちろんいつか映画を撮るつもりで脚本を書いていたのである。しかし彼のいうところの脚本が回りくどくどんどん長くなってしまい、それならばという感じで小説を書くようになってしまった人である。


この小説の主人公である中山唯生に自分自身の姿を重ねる人は多いのかもしれない。よくある若者の自分探しの物語だが、誰よりも「特別な自分」であることを証明するためにこの主人公はブルース・リーの模倣をしたり、既存の小説の主人公にならって気違いになってみようとする。十代の頃であれば誰もが経験したであろう憧れの人物の髪型を真似てみたり、ファッションや立ち振る舞いを真似してその人物になりきったところで、そのことが友人と自分の差異を引き延ばすわけでも、自分を一段高い場所へと導くわけでもなく、結局は「特別な存在」にはとうていなれないという虚しさを募らすだけなのだが、中山唯生はそのことを十分に理解していながらも馬鹿馬鹿しいほどせっせと「特別な自分」の証明を試みようとする。なにがそこまで彼を駆り立てるのかといえば、理由は単純で、秋分の日が「特別」な意味を持った一日であるという情報をある小説から得た彼は、秋分の日生まれである自分が「特別な存在」となるためには春分の日よりも秋分の日が勝っていることを証明しなければならないと思いはじめたからである。このあたりはまさしくヒトラーと同じ誕生日だということになにか「特別」な啓示を受取ったような気でいた私と大差なく、最初から最後までまるで自分のことが書いてあるような小説だと思ったのだ。


というわけで阿部和重はずっと私の文学的アイドルの頂点に君臨している作家なのだが、この小説でトリュフォーはもちろん、ゴダール、アンナ・カリーナの名前を知り、映画の世界に足を踏み入れ、プルーストを読み、ドン・キホーテを読み、バロウズを読み、彼のほかの作品も読んでいくうちに60年代のサブカルチャーにも興味を持つようになっていったのである。阿部和重の小説はどうも男子校の雰囲気が強く、女性の読者が少数だと言われているのだが(おそらくそれは嘘である)、なぜだか私は彼の小説も彼のことも大好きで、同じ東北の出身というあたりにどこか共感するものがあるのかもしれないし、どことなく胡散臭い感じのする部分が好きなのかもしれない。そういえば阿部和重はコーネリアスが好きで、この『アメリカの夜』は既存の文学からのおびただしい引用で彩られている小説なのだが、コーネリアスのサンプリング音を駆使した作風をどこか感じさせるものである。阿部和重はデビュー当時に文学界のフリッパーズ・ギターと呼ばれていたそうだが、小沢健二に例えられた人物はいったい誰なのか私は知らないのである。ご存知の方がおればぜひ教えて下さい。






ところでいま読んで初めて気がついたのだが、ストーンズの『悪魔を憐れむ歌』の邦訳が引用されていて、この部分から感じたのはこの小説は中山唯生の延々と続く自己紹介のようなものだということだ。それは、『悪魔を憐れむ歌』が「自己紹介させてください/私は財産家で贅沢屋の男です/私は何世紀も生きてきました/大勢の人の魂と信仰を奪いました〜」という歌詞にはじまる6分半にわたるルシファー大魔王の曲であるのと同じで、饒舌な語り手が間髪を入れずひたすら喋り続けているのである。この小説を読むときに必ずはまりこむ文学的な要素を完全に無視した阿部和重の文体のスピード感のなさ、しかしそこにくっきりとあらわれる滑稽なリズム感が何かに似ているとずっと思っていたのだが、おそらく『悪魔を憐れむ歌』を聴いているのと同じような作用をもたらしているのだろうということがわかった。もちろん『悪魔を憐れむ歌』が滑稽だというわけではなくて、曲の冒頭から最後までずっと規則正しく刻まれるビートに思わず体を揺らさずにはいられない曲である。そして阿部和重の小説も一度そのビートに乗るとおそろしいほどのドライヴ感に身をさらすことができるというわけである。


アメリカの夜 (講談社文庫)
阿部 和重
講談社

2012-01-11

私たちが子どもだったころ、世界は戦争だった

今日はいつか機会があれば真っ先に紹介したいと思っていた一冊の本をとりあげる。これは一年半ほど前に図書館の新刊コーナーからたまたま借りて読んだものであるが、いたく感銘をうけるとともに、それから何日もこの本の持つ影響下から抜け出せなくなってしまったという多少の痛みを伴う読書体験でもあった。



この本はイギリスのBBCで近代現代史番組の制作にたずさわった経験のある女性二人によって書かれたものである。きっかけとなったのは、第一次世界大戦に関するテレビ番組の制作過程で史料収集を行った際に、名もない兵士や市民たちが遺した日記や手紙を入手したが、なかでも子どもたちの書いた日記に釘づけになったことだという。

「やむなく戦争の中で成長期を過ごさざるをえなかった子どもたちが、さまざまな不条理や大人たちの論理とぶつかりあいながらも、あくまで自己に正直であろうとする姿勢に、私たちは強くうたれたのです」(スヴェトラーナ・パーマー)

二人の著者はその後、舞台を第二次世界大戦にうつし、第二次世界大戦中に青春時代をすごしたティーンエイジャーたちが遺した日記、手紙類の収集をはじめた。

「連合国と枢軸国の両側から『子どもたちのみた戦争』を描きだしたいと考えていた」(サラ・ウォリス)

二人は数年かけて集めた膨大な資料のなかから、英語、ロシア語、ドイツ語で書かれたものは自分たちで直接読み、ポーランド語、日本語のものは調査を依頼するなどして、著作権継承者の許可を得るという作業も含めて、本書の完成には約五年の歳月がついやされている。



ナチスによるホロコーストをつたえる書物といえば、ユダヤ人の少女が書いた『アンネの日記』が真っ先に思い浮かぶが、親の目からも敵の手からも離れた場所で若者によって書かれ、戦火を免れることのできた記録は我々が想像する以上に現存している。この本は日記や手紙を中心とした少年少女の記録を収集し、さらにそのなかから文章の質の高いものやユニークな語り口のものを選んで翻訳したものである。著者の最初の目的は、第二次世界大戦のはじまりから終戦までを思春期として体験した人物の日記を探すつもりであったそうだが、現実はそううまい具合にできてはおらず、戦時中をとおして書かれている日記もあれば、戦争が始まってから少しおいて日記を書き始めた者もいたり、一部が欠けていたり、途中で長い空白の時期があってから再度書き始めていたり、突然日記が途絶えたものもいる(多くの場合それは書き手の短い人生を意味している)


本書における若者の記録は1939年9月から1945年の終戦までを年代順に並べているが、戦争の歴史をたどるのが目的なのではなく、あくまでも戦争という出来事にまきこまれた登場人物たちの考えや感情たどることである。もちろん彼らが国の代表というわけではなく、敵国であろうが何千マイルも離れた地にいようが、そんなことはあまり関係なく、彼らの考えや感情が衝突したり思いがけず重なり合ったりするところに戦争の闇と光が見え隠れする。偶然だと思うが虫歯、歯医者について同時期に数名が心配している箇所もあった。


登場する若者は16人で、それぞれの国籍はポーランド、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、ロシア、日本となるが、戦時中どこに身を置くかによって彼、彼女らにはまったく異なる運命がふりかかることを読者は今更ながら目撃せねばならないだろう。開戦から終戦まで随所に登場する、本書の中心ともいえる人物が数人おり、彼らの存在がこの本に光をあててくれている。


一人目はイギリスのブライアン・プールという16歳の少年で、ボーイ・スカウトを卒業し、軍に入隊できる日を楽しみに待ちわびている。彼はアメリカのニュージャージー州に住むトルーディーという同い年の女の子と文通していて、二人の交信は戦時中も途切れることなく続いていく。

二人目はフランス、パリに住む13歳のミシュリーヌ・サンジェという女の子。彼女は負けん気が強く、おませで、思春期の少女らしい恋の悩みなどを日記につづっている。イタリア将校に恋をし、自らの立場と彼への想いのあいだで揺れ動く。

三人目はニューヨークに住むデヴィッド・コーガンという12歳の少年。両親はユダヤ系の移民である。彼はユダヤ人移民のコミュニティ活動を通じて交友を広げ、青春を謳歌していたが、大西洋の向こう側では同胞への迫害が始まっている。その思いを日記に綴っている。




そのほか、ポーランドには虐殺の恐怖におびえながら運命に立ち向かうことを決めた少年や、手に入る唯一の紙であった『ほんとうの豊かさ(レ・ブレ・リシュ)』というフランスの小説の余白にびっしりとヘブライ語、イディッシュ語、ポーランド語、英語を使い分けて思いを吐露した少年がいた。そしてドイツには熱心なナチス党員である父と兄に遅れをとるまいと、祖国へ身を捧げる情熱を持つ少年がいた。

ロシアでは飢えに苦しみながら日記で食糧難を嘆いて亡くなっていった少年、男子だけでなく女子も国のために闘うべきだという信念のもと、前線へ出向いた少女。日本からは、疑問を持ちながらも特攻隊に志願し、戦地で亡くなった佐々木八郎という青年、軍の飛行場があった福島県原町に住む加藤美喜子という女生徒と、家業の牛乳店に息抜きにやってくる特攻隊員との交流がれている。


訳本でありながら手紙や日記部分のダイナミズムが損なわれていないのは、日本語版を出版する際に、英語で書かれた原書をそのまま日本語に訳したのではなく、登場人物たちが遺した日記や手紙はそれぞれの母国語(ロシア語、ドイツ語、フランス語など)で書かれているため、英語版の翻訳ではなく、それぞれの言語から日本語へ直接翻訳するという形をとっているからだ。さらにこれらを翻訳したのは亀山郁夫(ロシア語)、河野万里子(フランス語)、関口時正(ポーランド語)、赤根洋子(ドイツ語)、田口俊樹(英語)、という翻訳界の第一線におられる方々である。(恥ずかしながら私は亀山郁夫氏の『カラマーゾフの兄弟』しか読んだことはないが、河野万里子氏はサガンの新訳や『星の王子さま』、赤根洋子氏は『ヒトラーの秘密図書』や『フロイト先生の嘘』など多くの翻訳を手がけおられる)


ナチスによるホロコーストという非常に重苦しい空気がたれ込めるが、この本に登場する若者たちは戦争という酷く悲惨な事態に身を置きながらも、戦時下の少年少女として生きなくてはならなかった運命のなかに、喜びや笑い、勇気や希望を見出しながらしっかりと前を見据えて生きるまっすぐな姿にまずいちばん心打たれる。今日はこれを書くにあたって再読しようと思い、図書館からふたたび借りてきたのだが、このような素晴らしい本は手元に置いておきたいのでいつか購入しようと思っている。多くの人に手にとってもらいたい本である。



私たちが子どもだったころ、世界は戦争だった
サラ・ウォリス スヴェトラーナ・パーマー
文藝春秋

2012-01-02

好きなものについて書くこと、杞憂

作家、ジョイスの研究者としても知られる丸谷才一氏の『文学のレッスン』によれば、エッセイというものはなにを書いてもいいが、いちばん基本的にあるのは好きなものを書くことなのだそうだ。この、好きなものを書くというシンプルな選択は、実はなにより日本の文化にのっとった行為なのである。なぜなら「好きなもの」というコラムは、そのまま『枕草子』『徒然草』『方丈記』の共通点であるからだ。

丸谷氏が言うように、人が好きなものについて語るのは聞いていて純粋に面白い。まあ批判や愚痴を聞かされるよりはずっといいに決まっているわけだが、好きなものについて語るときの人間というのはまず良い表情をしている。自然と舌も滑らかになる。聞き手にとってまったく興味のない話でも、喋っている本人が楽しそうなのだからなんとなくいいやという感じになってくる。これが延々と続く愚痴であればそういうわけにはいかない。

聞いていて面白いというのはつまりそういうことなのだと思う。私の好きなものという価値基準を言葉で語るには実は相当の労力がいるはずで、見境なしにべらべらと喋ってしまってはそのものの価値を落としかねない。だから人は好きなものを語るとき、普段より饒舌なようでいて実は慎重に言葉を選んでいるのだろうと思う。聞き手はそこから引き出されるエピソードに哲学を探し、言葉の節々に美しさを見出したりする。そう考えると、『枕草子』や『徒然草』や『方丈記』といった好きなものを書き並べた個人的な日記に文学的価値が与えられたのも当然であることのように思える。

前置きが長くなってしまったが、昨日も書いた通り、このブログは私の好きなものについて書くつもりであるが、なにも上記のようなことをこのブログに見出そうとしているわけではない。単純に長続きしそうなテーマだと思ったからだ。

ところで、私が初めてブログというものを付け始めたのは2005年の春、23歳になったばかりの時であった。主に読書後の感想をまとめた本(文学?)ブログとして一年半ばかり継続し、2年ほど休んで年に2、3回更新したが、現在そのブログは全く作動していない。2008年の暮れ頃から映画についてのブログを新たに書き始めたがこちらも今は休戦状態である。そのあいだに画像添付でメモ程度の携帯専用のブログを持ったり、SNSにも登録してみたのだけれど、それらすべてがどれも長続きせずに中途半端な状態に陥ってしまったのであった。

飽きやすいという性格上、まっとうな結果だということに異論はないが、自分は日常線上のコミュニケーションとしてのツールとしてこれらのサービスを利用するというよりは、コメント欄でのやりとりが、密かな匿名性で行われるほうが面白いといまだに思っているからでもある。そしてブログが続かない大きな理由のひとつに、作家の保坂和志氏があるエッセイで論じていたことを真に受けてしまったという、ばからしい経緯があるのでいちおうここに紹介しておく。(ばからしいとは野蛮な表現になったが、氏は私がもっとも尊敬する現代作家の一人である)

「老子」と「荘子」は漠然として焦点の定まらない時期に一番適切な思考の案内だという氏の意見に続く文章である。(全文は『猫の散歩道』という本で読める)



...アルバイトをして社会を知ったような気になったところで所詮アルバイトの立場で見える程度の社会でしかないし、いろいろ文章が書けるからといって雑誌で記事を書いたりウェブでいろいろ発表してみたりしても、これも“所詮”二十年ぐらいしか生きていない人間の知識と経験に基づく文章でしかない。...それはともかく、二十歳やそこらで表現できるものなんてたいしたものではない。




私はこの文章を、まるで自分に宛てられた訓示であるという錯覚とともに、“所詮”たいしたものではない、とはまさにこの私のことであると理解してしまったのである。こんなことをつらつらと書いていると、こいつは病んでいるのではないか?と思われるかもしれないが、いや、現実に私は病んでいるのかもしれないのだが、氏の言うところの“所詮”たいしたものではないというのはウェブ上に溢れたブログであるとかホームページであるとか、その類いのほとんどがあてはまるのであって、当然のことながらなにも自分だけが杞憂することではない。

このブログはそんな自己嫌悪と誤解と勘違いな葛藤とともに生まれた。とにもかくにも、「たいしたものではない」なりにも進まなければならない。4月20日まで毎日なにかしらについて書くこと。どうしてかわからないが、なんというジレンマ。今の私には変化、邁進、躍進したい願望があるようだ。そのことが気持ち悪いほど癪に障る。昨夜は最初の記事を投稿したあとベッドに横になった途端にそれを消してしまいたい衝動に駆られた。今日もこのあとで同じ症状が起きるだろう。書くことで得られる変化が不安や苦痛でしかないのだとしたら、その時にはどうしたら良いものかわからない。

それはそうと悩んでいたブログの表題はやはりインスピレーションを頼りに今のもので決定することにした。そして大した問題ではないが、私が私自身について書くとき、いくばくかの虚構が混じっていると考えてよい。私はここで自分の好きなものについて書くが、自分自身についてはなにも語らないつもりでいる。もしもあなたが自分自身のことを自分以外の誰かに深く知ってもらいたいと考える場合、好きなものについて語るより、嫌いなものを2、3挙げるほうがより早く相手の理解を得られるだろう。これは誰かの書いたもののような気がするが、私自身の意見かもしれない。あまりよく覚えていない。

明日は2012年1月2日現在、私が世界でもっとも愛する男について書く。