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2012-03-02

モニカ・ヴィッティ、アントニオーニ『太陽はひとりぼっち』(1962年・イタリア=フランス)


モニカ・ヴィッティ(Monica Vitti 1931年-)というイタリアの女優を知ったのはアントニオーニの『夜』(1961年・イタリア=フランス)という映画でした。これは私が初めて観たアントニオーニの作品でもあったのですが、マルチェロ・マストロヤンニとジャンヌ・モローが演じる倦怠期の夫婦の行動をひたすらドキュメントし続けるこの映画は極端に台詞も少なく、登場人物の内面を観客に伝えるような説明もなされず、まだそれほど多くの映画を観たことのなかった私には理解しがたく少々退屈に感じられるものでした。

しかし後半になって大富豪のパーティーのシーンに若い娘が登場し、彼女の姿が映し出されると映画の雰囲気が一転してこちらの視界もぱっと明るくひらけたような感じになったのを覚えています。それがモニカ・ヴィッティでした。当時、モニカ・ヴィッティとアントニオーニは恋愛関係にあり、アントニオーニ中期の作品に立て続けに出演しています。そして、アントニオーニのミューズとして、彼の作品を語るうえで欠かせない存在となります。



私が彼女の魅力の虜になったのは『夜』の次に撮られた『太陽はひとりぼっち』(1962年・イタリア=フランス)で決定的になりました。彼女の洗練された美貌は都会的な冷たさを感じさせるのですが、なんとなくどこかふにゃんと抜けているような不思議な印象を受けるのです。彼女のことを「けだるい」と表現されているのをよく見かけますが、まったくその通りで、けだるいのだけれど彼女の場合、それがそのままセクシーさに結びつくというわけでもないので、なかなか素顔がつかめない不思議な女優さんで、それもまた彼女の魅力でもあるのですが、やはりアントニオーニの映画に生きる、虚無感に苛まれた女というキャラクターがもっとも強烈であったがゆえだと思います。笑ったかと思えば作り笑いですぐ無表情になり、いつも不安げな表情を浮かべていて、アントニオーニの映画では笑顔の印象がほとんどありません。それでもやはりモニカ・ヴィッティは魅力的で、たったいま寝て起きたような無造作なヘアスタイルがたまらなく自然で大好きで、ふんわりした猫毛のような美しい髪にいつもうっとりしてしまいます。



この『太陽はひとりぼっち』という映画は決して取っつきやすいとは言い難い内容なのですが、疑問やテーゼに満ちた暗示的なシーンが多く、何度も繰り返して観たくなるような面白い映画です。実は作品への理解を一番ややこしくしているのが『太陽はひとりぼっち』という、いかにもアラン・ドロンにのっかった邦題なのではないかと思っています。原題の「Eclipse(エクリップス)」を辞書で引くと、天文用語の「食」とあり、ラスト数分の風景のシークエンスを観ていると日蝕のことだとわかります。邦題は意訳してあるというよりは、やはり前年の『太陽がいっぱい』にかけたものでしょう。この時代の邦題は『勝手にしやがれ』なんてのは最高にクールで、もはや何にも代え難いほど素晴らしいものもあれば、タイトルだけが一人歩きしているものも多いように感じます。流行の歌謡曲のタイトルをもじってつけたりとか、当時はそれがキャッチーでヒットしたのでしょうから、それはそれで良いのだけれど、時を経て私のような世代から見るとなぜこのタイトル?と疑問に思うこともしばしばあります。おそらく数十年後には昨今の映画の邦題も不思議に感じるのでしょうね。



この映画でもっとも目にとまるのは静と動のコントラストで、無機質で殺伐としたローマ郊外のニュータウン、怒号が渦巻く証券取引所で一喜一憂し、暴落で狂乱する人々の描写がだらだらと続いたあとの一分間の黙祷シーン。(ゴダールの『はなればなれに』で、一分間なにもしないでみよう、という沈黙の場面はここからきたのかなと思っているのですが)さらに静と動を一番端的にあらわしているのが、何を訊ねても「わからない...」という台詞が印象的な虚無感に苛まれるヒロインと、常に飛び跳ねているような軽薄で冷淡なブランド好きの底の浅い、アラン・ドロン演じる株式ブローカー。そして忘れてはいけないのが、モニカ・ヴィッティが黒人の真似をして突然はしゃぎまくるという滑稽なシーンです。


アントニオーニという人は本当に強烈な個性、視点を持った監督だと思います。本来ならば表立ってスクリーンに登場するはずのない監督自身の存在がそこにいる俳優以上に押し出されているように感じるからなのですが、この作品もいつもながら殺風景な舞台装置には現実味がなく、すべてがアントニオーニによる作り物だということを意識せずに眺めることは不可能です。前に書いた『欲望』ではそのあたりが意図的に抑えられていたように思いますが、それでも60年代のファッションを身にまとった痩せたモデルを横一列に並べたシーンには「俳優は壁」と言っていたアントニオーニの存在を十分に感じさせるものになっていました。

この『太陽はひとりぼっち』で私が驚愕したのはあまりに空虚なラスト数分間の風景のシークエンスでした。この映画を観た人間だけが感じられる「終わり」、それは物語の終わりなのかドロンとヴィッティの恋の終わりなのか、はたまたわたしたち人間の、世界の終わりなのかどうかわからないが、観た人間の数だけ解釈があるというのがアントニオーニの映画で、こうしてあらためて書いてみるとやはり偉大な監督だと感じます。




太陽はひとりぼっち
製作年:1962年 製作国:イタリア・フランス 時間:124分
原題:L'Eclipse
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
出演:モニカ・ヴィッティ、アラン・ドロン ほか




太陽はひとりぼっち [DVD]
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紀伊國屋書店 (2011-12-22)

2012-01-19

60sスウィングするロンドンを切り取った、アントニオーニの『Blow Up』(欲望)


イタリア映画史上もっとも前衛的な作風で世界のアートシーンを魅了した鬼才、ミケランジェロ・アントニオーニが手掛けた1966年のイギリス映画『Blow Up』(引き伸ばしという意味だが、なぜか邦題が『欲望』)は、一度観ただけでは素人には理解し難い抽象的な内容にもかかわらず、60年代なるものに憧れを抱いている私はこれを何度も何度も繰り返し観ては、スウィンギング・ロンドンの風が吹き荒れる真っただ中にワープしてチェルシーを闊歩したつもりになって、当時のポップ・カルチャーに想いを馳せている。思えば、大好きなジェーン・バーキンに出会ったのはこの映画であった。

この映画はあくまでもアントニオーニの目線で描かれた60年代半ばのロンドンであって、当時の若者のムーブメントに彩られてはいるけれども、ビートルズもいなければツィギーもいない。ただ、観る者に多くの謎を投げかける映画である。主人公に関するデータすら売れっ子カメラマンであること以外最後までほとんど不明(DVD等のパッケージの説明書きには一応、主人公のトーマスという名前で紹介されているのだけれど、劇中で彼の名前は一度も明かされない)というように、観た人間の数だけそれぞれの解釈が可能な大胆で面白い映画とも言えます。

主人公の行動原理や登場人物たちの関係性が全く見えてこないので、おそろしく退屈な映画だと嫌う人もいますが、私自身もはじめて観た時はつまらない、退屈な感情しか湧き起こらず、逆にそんな自分の馬鹿さ加減にもうんざりしたので、そのように感じる人の気持ちもよくわかるのです。今では自分なりにこの偉大な謎多き作品を咀嚼して大好きと呼べるまでになったけれど、これを一番好きな映画だと言うようではただの芸術かぶれのようで気が引けますし、さらに人に勧めるのも抵抗がありますが、強烈なインパクトで映画史に残る印象的なシーンがいくつか登場するので、今日はそのことについて少し書いていきます。


この映画のもっとも有名なシーンは、当時世界最高峰とも言われたスーパーモデル、ヴェルーシュカをデヴィッド・ヘミングスが激写し、しまいにはぞんざいに扱うというエキサイティングな撮影風景である。二人のセックスを彷彿させるような展開になっており、カメラを離した途端、一気に興ざめするヘミングスとは対照的に余韻にひたるヴェルーシュカ。この温度差ったらない。

ヴェルーシュカはドイツとポーランド、ロシアの混血で、父親は100以上の部屋を持つ屋敷に暮らすドイツの伯爵でもありました。しかし父親はヒトラー暗殺未遂で処刑され、母親もナチスによって投獄されるという悲惨な幼少時代を送っている。20歳前後の頃、アメリカに渡りモデルを始めます。ヴェルーシュカの飾らないライフスタイルはヒッピーたちに支持されました。彼女のモットーでもある自然回帰ともとれるようなボディペイントを施し風景に同化させるようなアート作品『ヴェルーシュカ:変容』を発表しています。


そして公開当時、カンヌで物議を醸したというジェーン・バーキンのヘアヌードが拝めるのである。まだゲンスブールに出会う前の19歳のバーキンは、先にフランスで活動した経歴を持つジリアン・ヒルズとともにモデル志望の女の子役で出演。ミニのワンピにカラータイツという出立ち。これがまた最高に可愛くて、わたしはこれで彼女に一目惚れしてしまったのでした。

問題のシーンは3分間にわたって繰り広げられる脱がせ合いごっこです。このあたりはもうめちゃくちゃで、演技なのか素なのかほとんどわからない、裸になりながらキャーとかギャハハというはしゃぎ声がメイン。バーキンだけ死にものぐるいの本気モードで相手に襲いかかっているあたりに女優魂を感じます。このあたりからもう大物ぶりを発揮していたのでしょう。


最後は映画史に残る重要なシーンというよりは、ロックファンにとって貴重な映像となるヤードバーズのライヴシーンです。末期を迎えつつあったバンドの最後の勇姿と言ってさしつかえのない映像となっておりまして、ジェフ・ベックとジミー・ペイジによるツインギターを見ることができます。ギターを破壊するパフォーマンスは当時そのようなパフォーマンスで話題になっていたザ・フーにならってのもので、監督からぜひギターを破壊してくれとの要求があってのことでした。




ライヴシーンの出演も当初はザ・フーに依頼していたというのはよく聞かれる話でありますが、昨年SMJから出たサントラの解説によると、監督はザ・フーの前に秘かにヴェルヴェット・アンダーグラウンドに出演依頼をしていたということです(!)ウォーホールからビザと労働許可の問題で引き受けられないと断られたそうですが、もしこのライヴシーンがヴェルヴェッツのでものであったなら、この映画はまったく別物になっていただろうと思います。イギリスを舞台にNYのアヴァンギャルドなバンドであるヴェルヴェッツの出演など素人にはほとんど思いつかないのですが、しかもまだデビューしていない彼らのことをアントニオーニがどこまで知っていたのか疑問ではありますが、そのような先見の明を持っているあたりはさすがとしか言い様がありません。

それにしても棒立ちの観客が愚かな群衆心理にしたがって破壊されたギターにたかるというのは、この映画のなかではもっとも解釈を与えやすいシーンではないかと思います。壊れたネックは熱狂的なファンの集うライブハウスの中では絶対的な価値を放つけれど、一歩ライブハウスの外に出てみれば壊れたギターはただのガラクタでしかない。



この映画は真実とは何か?という実に平凡な問いかけをテーマに掲げているように思います。それは美女と暮らす画家が抽象画を描いていることに対して主人公が奇妙な目で見ていることや、白塗りの若者たちがボールもラケットも見えないパントマイムの仮想テニスを披露するシーンに象徴されているようにも見えるのです。


私はアントニオーニの作風というのは現代人の病(やまい)を反映させた結果のように感じているのです。アントニオーニの映画は大概にして人があまり出てこないのだけれど、人がいて然るべき場所に人がいないというような、作り込まれた感じが観客に与える虚無感こそ、まさにアントニオーニが描こうとしたもののひとつであっただろうと思います。

この『欲望』はそのような彼の作風とはまた異なるもので商業的につくられた映画であるから、ただ単純に楽しむべき映画で、そういう映画とは愛される映画なのだとも思っております。





欲望
製作年:1966年 製作国:イギリス・イタリア 時間:111分
原題:BLOW UP
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
出演:デヴィッド・ヘミングス、ヴァネッサ・レッドグレーヴ、サラ・マイルズ、ジェーン・バーキン




欲望 [DVD]
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