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2013-06-24

60sイギリスのファッション・シーン、スウィンギング・ロンドン!『ジョアンナ』(1968年)


60年代のファッション、カルチャー・シーンに何らかの影響を受けて生きている。この歳になってもずっと憧れ続けているのだから我ながら飽きれてしまうのだけど、もはやあの時代に思いを馳せることは精神療養のような行為としか言い様がない。文学はビートニク、映画はヌーヴェル・ヴァーグ、音楽とファッションは英国を贔屓にしている。やはり60年代半ばのイギリス、スウィンギング・ロンドンの時代はファッション界、音楽界ともに華やかな顔ぶれも相まってひときわ眩しく映るのだ!


*

1968年のイギリス映画『ジョアンナ』はそんなスウィンギング・ロンドンの空気に思う存分浸ることができる。当時のファッション・シーンを心行くまで楽しむことも。物語自体はなんてことはない、美術学校に通う女の子が主人公の恋愛中心の能天気な青春ドラマなのだけれど、当時のロンドンの街並と、ファッション、アート、インテリアを彩るポップでサイケデリックな配色に彩られた映像が退屈させず、45年経った今でも色褪せない魅力が満載だ。音楽もなかなか凝っていて、馬鹿馬鹿しくしょうもない発想が最高にクールだったあの時代にありがちな、しかし美術と衣装と音楽はやたらとセンスが良いという映画の典型でもあろう。



主人公のジョアンナを演じたのはジュヌヴィエーヴ・ウエイト(Genevieve Waite)という南アフリカ出身のモデルで、長い手足と痩せた身体で着こなす原色多様使いのファッションがまァ素晴らしい。細く長い足はカラータイツがよく似合う。少年のような体型でショートパンツのスタイルが多いけれど、ぐりんぐりんに巻いたショート・ボブと強烈なアイ・メイクは女の子らしくてキュートだし、顔は好みが別れそうだが、着せ替え人形のようにめまぐるしく変わるジョアンナのファッションには感動すら覚える。ジョアンナを取り巻くメンズのファッションもお洒落!ジャック・ペランに似た芸術家を演じるクリスチャン・ドーマーが素敵!(「日本橋」と文字入れされた法被を着ている!)



冒頭、ロンドンの駅に到着した列車から大きなトランクを抱えたジョアンナがホームに飛び出して来るまでの映像の繋ぎ方、再び駅のホームで迎えるラストが秀逸だ。室内のシーンには当時のロンドンっ子も熱狂したであろうモンロー、バルドー、ジェームズ・ディーン等のポスターがさりげなく映り込む。ジョアンナが薄いピンク色のシフォンのドレスを着て漫ろ歩くロンドンの街、公園を駆け抜けるシーンは夢のような気分。スウィンギング・ロンドンの様相を垣間みることができるストリートにも感激。ジョアンナが友人と買い物袋をぶらさげて街を闊歩するシーンに登場するのは、60年代の代表的なデザイナーズ・ブランド「BUS STOP」だ。「ハロッズには何から何まで売ってるわ!」「ボンド・ストリートにグッチがあるわ!」という何気ない会話にもいちいち想像が膨らんでしまう。



しかしこの映画、二度目の鑑賞で単純で楽天的なだけの作品ではないと感じた。こっちへフラフラ、あっちへフラフラとすぐに男と寝てしまうあまりにもオツムが弱そうなジョアンナは、性の解放が叫ばれたこの時代の若者の象徴ともいえる(現在にも十分いそうだが)。60年代に性の解放を描いた映画は数多ある。しかし『ジョアンナ』はそれだけで終わってしまう物語ではないようだ。愛のないセックスに疲れたジョアンナは傷ついて涙を流し、愛する人は黒人であるがゆえの問題を抱え、中絶手術をした友人もなんだか自分が空っぽになってしまったみたい、と後悔する。美術史の先生が授業で言う、「バロックは古典主義への反抗でしかない」と。

セックス、中絶、黒人問題と、今更になってみればいかにも60年代的な映画のように捉えてしまいがちだが、ジョアンナの経験には現代の若者にも通じるストレートで普遍的なメッセージが込められている。『ジョアンナ』はまぎれもなく実直で優等生な映画だ。ファッションや美術の完成度を差し引いてもジョアンナの青春物語にどこか胸を打たれる想いがするのは、そういった強いメッセージ性のためであろう。本作のようにキッチュな60年代の愛らしいB級映画は、この先時代を重ねるごとにどんどん貴重になっていくのかもしれないし、未だDVD化されていない60年代の幻の映画たちに一作でも多く出会えるよう願う!



ジョアンナ
製作年:1968年 製作国:イギリス 時間:115分
原題:JOANNA
監督:マイケル・サーン
出演:ジュヌヴィエーヴ・ウエイト,カルヴィン・ロックハート,クリスチャン・ドーマー,グレンナ・フォースター=ジョーンズ,ドナルド・サザーランド,フィオナ・ルイス


ジョアンナ [DVD]
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20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン (2011-04-22)

2013-01-20

『勝手にしやがれ』のファム・アンファンなパトリシア、縞模様ファッションのジーン・セバーグ


—ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン!


シャンゼリゼのど真ん中で大声を上げながら新聞を立ち売りするアメリカ娘のパトリシア。『勝手にしやがれ』(ジャン=リュック・ゴダール、1959年)の、そしてヌーヴェル・ヴァーグの象徴としても有名なこのシーンで、ヒロインのパトリシアを演じたジーン・セバーグはなんともファム・アンファン(少年のような魅力を持った女性)な出立ちで登場している。新聞社のロゴの入ったぴったりとしたTシャツにサブリナパンツ、足元はぺったんこシューズ、小さな巾着のバッグを持ち、髪型は超ショートのセシルカットだ。

この作品は今観るとお洒落でファッショナブルな映画、ぐらいに捉えられるのが一般的だと思うのだが、ジーン・セバーグのファッションは、実は当時のパリの流行でもなんでもない。フランス人が抱いていた、性に対して解放的だというアメリカのヤンキー娘のイメージを反映させたファッションにすぎないのだというから驚きだ。Tシャツ姿のセバーグに向かって「ブラジャーつけてねぇのか?」と言うベルモンドの台詞からもそのような意味が汲み取れるかもしれないが、当時の日本人ももちろんパリの最先端のファッションと受け取っていたようだ。

オードリー・ヘプバーンの影響でサブリナパンツが爆発的な人気を誇ったのが1954年以降だから、この映画の公開が1960年ということを考えるとパンツスタイルはすでに定番のファッションであったのだろうと推測されるが、もの凄いラフな恰好のようにも感じられる。そしてセバーグの持つ中性性を際立たせているのは、なんといってもモンチッチばりのセシルカットであろう。



パリの(というかこの映画の)イメージが強すぎて、私自身いまだにセバーグがバリバリのハリウッド女優ということを忘れてしまうのだが、スウェーデン系アメリカ人の娘としてアイオワ州に生まれたジーン・セバーグは、もともとロングヘアの美少女であった。17歳のときに1万8千人の中からオットー・プレミンジャー監督の『聖女ジャンヌ・ダーク』の主役に抜擢されてデビューするが、このときジャンヌ・ダルクを演じる為にばっさりと髪を切っている。この作品は興行的にもふるわず、プレミンジャーはセバーグの演技に不満を爆発させまくっていたそうだ。

にもかかわらず、プレミンジャーはベストセラー小説『悲しみよこんにちは』を映画化するにあたり再びセバーグに主役を与えた。フランスの小説をハリウッド映画へと作り変え、主人公のセシルを文学好きな夢想家の少女から活発なブルジョワ娘へと大幅に変更、そしてセバーグをジャンヌ・ダルクと同じ少年のような短髪で出演させたのだった。セバーグの容姿が放つ溌剌とした健康的な明るさと、それとは対照的な思春期特有の不安定な脆さがうまく描かれた映画であるが、こちらも興行的には失敗している。しかし斬新なセバーグの髪型はセシルカットと名付けられ、世界中で大評判となったのだった。



『勝手にしやがれ』を撮影する際、ゴダールはセバーグに対し、「君は2年後のセシルということでいい」と伝えた。ゴダールの要望通りセシルカットで登場したセバーグは、終始ファム・アンファンな魅力を振りまいている。ゴダールは俳優の見せ方、とりわけ女優の魅力を引き出すことにかけてもかなりの名手である。アンナ・カリーナを筆頭に、この映画のベルモンドもそうだが、無名の俳優を一気にスターの座へと導いた。ジーン・セバーグも例外ではないだろう。プレミンジャーによって引き出されたセバーグのキャラクターを踏襲させたのは、おそらくゴダールにとってセバーグの子供っぽいユニセックスな雰囲気そのものが、インスピレーションの源になっていたからに違いない。ルノワールの少女像の横にセバーグを立たせた演出からもわかるように、この映画でゴダールはセバーグの美しさに対して溢れんばかりの賛辞を並べ上げている。

とはいえ、当時のフランス人が想い描いていたステレオタイプの開放的なアメリカ娘であるパトリシアは、子供っぽいようでいて本心は決して明かさず、狡賢いようなところもあり、なかなか掴みどころのない女性である。ベルモンドに「とびきりの美人というわけではないが、20点満点中15点といった感じの個性的な女」「ちょっと変わった女」と言わせていることからもパトリアがパリの女とはまるで違っていることがうかがえるのだが、パトリシアはパトリシアで一言目にはフランス人への不満を漏らし、「パリっ子のスカートってダサイ」と平然と言ってのける。パリがモードの中心であるという世界的な常識を考えれば、これはおそるべき台詞である。



パトリシアはどちらかというとファッションにはあまり興味がない女性のように描かれている。とりわけパリの流行にはまるで感心がない。パトリシアの目下の希望はアルバイト先の新聞社で記事を書かせてもらうことだ。パトリシアの部屋で繰り広げられる会話のシーンからパトリシアの興味の対象が明らかになる。絵画、クラシック、とりわけ文学への憧れが顕著なようだ。

それでも、パトリシアのファッションの趣味がおもしろいほど一貫していることには誰もが気付かずにはいられないだろう。パトリシアはいつも縞模様の洋服ばかり着ているのである。シャツもワンピースもタンクトップも、パトリシアの部屋で待ち伏せているベルモンドが着ているバスローブにいたるまで、なにもかもが縞模様なのだ。おまけにパトリシアがパジャマ代わりに着ているベルモンドのYシャツも縞模様ときている。



『勝手にしやがれ』が公開された当時のショックはいかなる手を使ってももはや体感することができない。どんなに強く望んでも、繰り返しビデオを観ながら想像することしか、誰かの記憶を掘り起こしてまとめられた書物から知り得ることしかできない。それがいまさら何になろう?と否定的に考えることもあるけれど、私はいつものように再生ボタンを押してしまう。

ヌーヴェル・ヴァーグの神話に生きるジーン・セバーグ。鏡のなかの、しかめっ面の彼女は今日も私をほんのすこし切なくさせるのだ。



勝手にしやがれ
製作年:1959年 製作国:フランス 時間:90分
原題:À bout de souffle
監督:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウル・クタール
脚本:フランソワ・トリュフォー
出演:ジャン=ポール・ベルモンド,ジーン・セバーグ,ジャン=ピエール・メルヴィル



ジーン・セバーグ
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ギャリー マッギー
水声社

勝手にしやがれ [DVD]
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ジェネオン・ユニバーサル (2012-04-13)



2012-08-19

Lovely 60's Girls


60年代のファッション関連の書籍と手持ちの画像を動画にしてみました。
iMovieがこんな簡単に使えることをいまさら知ったのだった...。



2012-02-17

ジャック・ドゥミによるフレンチ・ミュージカルの至宝『ロシュフォールの恋人たち』(1967年)


ああ!こんなに素敵な映画があってよいのだろうか!登場人物も衣装も画面をおどる色彩も音楽も、すべてがかわいくてお洒落でいかしてて、いつだってこれを観れば幸せな気分になれる!たとえ人生に疲れて、はたまた恋人に振られて三日三晩泣き明かしたとしても、この映画があればなんとかやっていけそうな、嫌なこともぜんぶ乗り越えられそうな前向きな気持ちにしてくれるのがこの映画、『ロシュフォールの恋人たち』なのです!私は心理描写にを重点を置いた静謐な雰囲気の映画が好きだし、この映画はどちらかといえば突っ込みどころ満載のバカ騒ぎ風な作品なのだけれど、ああやっぱり私も女の子だなあと、女に生まれてよかったなあと感じさせてくれる数少ない映画のひとつなのだ。



フレンチ・ミュージカルの最高峰といえば、監督ジャック・ドゥミ、音楽ミシェル・ルグランのコンビにお人形のように麗しいカトリーヌ・ドヌーヴ主演の『シェルブールの雨傘』(1963年)に間違いないのだが、そして私が初めてまともに最後まで観ることのできたフランス映画がまさにその『シェルブールの雨傘』だった。フランス語の授業で見せてもらい、担当の先生(どこかの大学から来ていた中年の「超」がつくほど優しい先生だった)がドヌーヴがすっかりおばさんになってしまったと嘆いていたのを思い出す。ドヌーヴが先生のタイプだったのかもしれないが、女性はきっと気に入ると思うと言いながらお勧めしてくれたのだった。二年時の必修課目だったのだが、二年生が私と友人の2人に四年生が2人というあわせてたったの4人という不思議な人員構成で、大学はあまり好きではなかったのだけれど、そのときの出来事は鮮明に覚えているのだから、今になって考えるとその授業は好きだったのだろう。

と、いきなり脱線したが、この『ロシュフォールの恋人たち』は、ドゥミ、ルグラン、ドヌーヴの黄金トリオにドヌーヴの実姉であるフランソワーズ・ドルレアックを加えた、運命の相手をめぐるとびきりハッピーな恋物語である。ハッピーなどと書くととても軽い感じがするのだが、というか実際にそのような印象の映画なのだが、このミュージカルが凄いのはシリアスな場面を歌っても悲恋の持つ暗さとはまるで無関係ともいわんばかりに、すべての物事が否定から肯定へ、どの登場人物もそのような姿勢をもって進行していく精神である。たとえドヌーヴが哀しげな表情を浮かべていても、『シェルブールの雨傘』ほどの深刻さで迫ってくることはない。舞台となるロシュフォールの小さな町がまばゆいばかりの愛と光に溢れ、『シェルブールの雨傘』とはまるで正反対な姿をしているからであろうか。しかしなんといってもそこに暮らす双子の姉妹が実像をともなって美しいからであろう。



フランソワーズ・ドルレアックはカトリーヌ・ドヌーヴの1歳年上の実姉である。小さい頃から演劇の道で活躍されていた。私はトリュフォーの『柔らかい肌』で彼女のことをはじめて拝見し、ドヌーヴの姉であることも知る。そういわれてみれば似ているような気もするが、ドヌーヴより大柄で役柄のせいもあるのだろうが自由で大胆な感じのする女性だった。私はドヌーヴの人形のような完璧な美しさに冷酷さを見たりしていたのだが、姉はドヌーヴに比べると顔の表情も自然にころころと変わり、なにより明朗活発そうでお人形の妹よりは取っつきやすいような印象を勝手に抱き、可憐なドヌーヴより大人っぽいドルレアックがかっこいい!と感化されやすい私はいつもの調子で美しい姿を眺めていた。彼女たちの本名はドルレアックなのだが、妹は姉に対して強い劣等感を抱いていたために、本名を捨てドヌーヴと名乗ったとも言われている。あれだけの大女優になられたドヌーヴがまさかとは思うのだけれど、本当に姉妹のことはわからない。けれど、この映画の双子のように二人の仲は良かったそうで、ドルレアックが事故に遭う直前も姉妹で休暇を楽しんでいたのだった。姉のドルレアックはこの『ロシュフォールの恋人たち』の撮影を終えた直後、25歳で亡くなってしまった。自ら運転する車で事故に遭い、脱出を試みるも叶わず帰らぬ人となってしまったのだ。だからこの映画は、姉妹がそろった若く美しい健康的な姿を拝見できるとても貴重な作品でもある。



映画はジャズを基調としたルグランの「キャラバンの到着」からはじまる。映画の内容よりもサントラのほうが有名であるからもはや説明不要なのだが、ルグランのスコアにあわせて踊る!弾む!恋!恋!恋!まさに人生謳歌!といった感じで、パステルカラーを存分に使った画面構成と、控え目でチープなミュージカル・シーンにはアメリカ映画とは一味も二味も違った魅力がある。私はやはり姉妹のデュエットのシーンが一番好きで、ファッションも振り付けもすべてが可愛らしくて、ずっとこの双子の世界に浸っていたいと何度思ったことだろうか。そしてまた余談になるのだが、私は中学生の頃ポストカードを集めるのが好きで、主にレトロな感じのする60年代のファッション・シーンを切り取ったものを集めていたのだが、この映画の双子の歌のシーンを観たときはっとしたのである。あの頃大切にしていたポストカードのなかにいた楽器を持った二人の女性がそこにいたからだ。ああ、また繋がっているのだ!と飛び跳ねるほど嬉しくなり、なぜこんなにも私は回り道をしているのだろうと不思議な気持ちにもなるのだった。



おそらくこのように感じるのは私だけではないと思うのだが、この映画のドルレアックはドヌーヴの引き立て役のような気がしてならないのである。本来の彼女はもっともっと美人であるはずなのに、そばかすを描いたり意図的に彼女の美しさを打ち消すようなメイクをしているように見えるのだ。そもそも赤毛のカツラ(カツラなのか?)が似合っていないのかもしれないが、どことなく残念な部分である。それでもこの映画がルグランのスコアと、本物の美しい姉妹によって支えられているという事実に変わりはなく、そしてこの映画は何事にも代え難い私を支えてくれる希望のような存在なのだ。



2012-02-12

Eadie Sedgwick イーディ・セジウィック、Velvet Underground 「Femme Fatale 宿命の女」

イーディ・セジウィック!彼女についてなにから語ればよいのだろうか。両親ともに旧家の出身で、途方もないお金持ちの家に生まれ、恵まれた容姿、長い長い手足、細い身体でダンスが得意でリムジンを乗り回し、彼女がいくところにはいつも大勢の人だかりができていた。ケンブリッジからニューヨークへ、どこへいっても彼女は人気者だった。ウォーホールの、そしてボブ・ディランのミューズだった。

彼女もまた、60年代を体現したスターのひとりであった。ドラッグの過剰摂取による死。身体はボロボロになり精神までもが蝕まれても、イーディは美しかった。なによりとびきり可愛かった。28歳という短すぎる人生はドラッグがもたらした破滅だけではなく、なにか説明のつかないもの、セジウィック家がたどった不思議な運命の下にあったように思える。イーディはその運命から逃れるように、そしてなにかに突き動かされるかのようにもの凄いスピードで60年代半ばのN.Yアンダーグラウンドのアートシーンを駆け抜けていった。



私は60年代を輝いた美しく可憐な女性たちのなかでもイーディには特別な感情を抱いている。ほんとうに馬鹿げた話なのだけれど、誕生日が同じというだけの理由から、イーディと二人だけの秘密を共有しているような気持ちになるときがある。そんな勝手な思い込みがときには私を元気づけてもくれる。特にイーディがこの世を去った年齢に、28歳になった頃から彼女のことを考えることが多くなったように思う。

イーディは60年代のファッション・アイコンでもあったけれど、私が彼女に対する想いはファッションやメイクを真似るというような憧れともまた違っていて、失ったものを惜しむ気持ちに似ている。たそがれのなかで過去を慈しむようなとき、イーディのくしゃっとした笑顔をふと思い出したりする。会ったこともない古い友人のような不思議な感じ。

イーディがもっとも輝いていたのは22歳の頃で、「ヴォーグ」や「ライフ」にレオタード姿で登場している。上の画像は『ヴォーグ』の1965年8月号に載ったイーディ。後ろの馬はイーディ自身が描いたもの。イーディには(というか、セジウィック一族には)美術の才能もあった。馬についてはまたの機会に触れたいと思う。今日はイーディを知ることになった、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「宿命の女」について少し書きます。


*

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドはアンディ・ウォーホルのプロデュースでデビューしたことは有名ですが、自らプロデューサーを申し出たのにウォーホルはバナナのジャケット以外、何もしなかった。ヴェルヴェッツのライブを見て彼らの音が気に入ったものの、実際には音楽畑のことはさっぱりわかっていなかったというのが本当の話で、レコーディングに関してはまるっきり何もわからなかったので、指示を出すとか文句をつけるとか、そのようなことは一切なかったそうである。

そのウォーホルがひとつだけルー・リードに注文をつけたのが、イーディ・セジウィックについてなにか曲を書いて欲しいというものだった。ヴェルヴェッツがファクトリーに出入りする頃にはイーディとウォーホルの関係は終わりに近づいていたそうだけれど、それが「宿命の女」という曲で、ニコがボーカルをとっている。私には「ファム・ファタール」と呼ばれるのはイーディよりもニコのほうがふさわしいように思えるのだけれど、ルー・リードによる歌詞を読むと、そこにはイーディの姿がはっきりとあらわれている。この曲を聴くと、いたずらな微笑みを浮かべた愛くるしいイーディが思い出されていつもほんの少し哀しくなる。でも、ルー・リードにしては珍しく可愛らしいバラードだから大好きでもある。





Here she comes
You'd better watch your step
She's going to break your heart in two
It's true

It's not hard to realise
Just look into her false colored eyes
She'll build you up to just put you down
What a clown

'Cause everybody knows (she's a femme fatale)
The things she does to please
She just a little tease
See the way she walks
Hear the way she talks

You're written in her books
You're number 37, have a look
She's going to smile make you frown
What a clown

Little boy, she's from the street
Before you start you're already beat
She going to play you for a fool
Yes It's true

'Cause everybody knows (she's a femme fatale)
The things she does to please
She just a little tease
See the way she walks
Hear the way she talks


彼女がやってくる
足元に気をつけたほうがいいぜ
彼女はお前の心臓を真っ二つに切り裂いてしまう
本当さ

難しくなんかないさ
彼女の偽りに彩られた瞳をのぞきこんでみな
彼女ったらお前を持ち上げてやりこめるつもりだぜ
なんてピエロなんだ

みんなが知ってるんだ (彼女は宿命の女)
喜ばせるためにしてることさ
彼女は小さないたずらっこ
ほら、彼女の歩き方を見てみろよ
なあ、彼女の話し方を聞いてみろよ

君のことは彼女の本に書いてあるぜ
37ページだよ、見てごらん
彼女は君を困らせるために微笑むんだ
なんてピエロなんだ

かわいい坊や、彼女はストリートの女の子
始まる前から君はすでにお手上げさ
彼女は君をからかって遊ぶだけ
本当だぜ

みんなが知ってるんだ (彼女は宿命の女)
喜ばせるためにしてることさ
彼女は小さないたずらっこ
ほら、彼女の歩き方を見てみろよ
なあ、彼女の話し方を聞いてみろよ





イーディ―’60年代のヒロイン
ジーン スタイン ジョージ プリンプトン
筑摩書房

イーディ写真集 girl on fire (P‐Vine BOOKs)
メリッサ・ペインター&デイヴィッド・ワイスマン
ブルース・インターアクションズ

Velvet Underground & Nico
Velvet Underground & Nico
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The Velvet Underground
A&M (1996-05-07)

2012-01-25

60s幻のフレンチ・ヴィンテージ・シネマ『アイドルたち』



アントニオーニがスウィンギング・ロンドンの真っただ中にある若者のムーブメント描いた『欲望』を発表した1966年、フランスではのちにお洒落なカルト映画として発掘され、シネフィルはもとよりフレンチ好きが乱舞した一本の映画が密やかに撮りすすめられていた。その名も『アイドルたち』である。日本では約40年の時を経て、2005年に初公開された。公開当時のフレコミは「オシャレでキッチなヴィンテージ・シネマ」であった。

この映画はもともと監督でもあるマルク’O(通称マルコ)が興した劇団の出し物として、サルトルら実存主義者が集った有名なサンジェル・マン・デ・プレの中心に、66年に期間限定で設けられた劇場で上演された舞台「アイドルたち」を映画化したものである。舞台「アイドルたち」は半年の上演中、演劇界にとどまらずパリの文化人たちの話題を独占し、新聞にも文化現象として取り上げられるほどの人気であった。映画の撮影も円形舞台の劇場で行われ、俳優もおなじく劇団で演じていたビュル・オジエ、ピエール・クレマンティ、ジャン=ピエール・カルフォンの三人が出演している。

当時、流行の最先端を行く革命的な演劇と絶賛された舞台「アイドルたち」の人気を考えれば、映画化も失敗などするはずがないと思われて当然であった。事実、映画化の際には大勢の俳優やクリエイターたちがマルク’Oのもとに売り込みに来たと言われている。クレジットにはのちに『ママと娼婦』を撮るジャン・ユスターシュの名前もあるではないか(!)しかし映画『アイドルたち』は興行的には失敗する。なぜなら本国フランスでは68年の五月革命の最中に初公開され、観客は激減、というかガラ空き状態であった。しかし伝説は伝説として残り、40年後、カルト映画の印を押されて舞い戻って来たのだ。

この映画はマルク’Oによる知的で前衛的な社会風刺を主軸に、60年代にごまんと生まれたアイドルを消費者産業の犠牲者として祭り上げ、虚像としてのアイドルの真の姿やアイドルを生み出す者たちへの揶揄を、回想シーンと奇妙な寸劇、圧倒的なパフォーマンスで辛辣に描き上げている。しかし40年という時を経て、ヤラセが横行している芸能界のくだらなさを暴かれても、観ているほうはすでに芸能界の裏側などそのほとんどがヤラセであるとわかっているものだから、今さら感の漂う内容になっている。こうして映画『アイドルたち』はマルク’Oの意図するところとはまったく別の方向に、カルトでキッチ、特にわが日本ではおシャレなヴィンテージ・シネマとなってしまったのであった。

おそらく60年代フランスのポップ・カルチャー、もしくはファッション・デザインに興味のない人にとって、『アイドルたち』は実にくだらない映画である。くだらなすぎると言っても良いだろう。現在、マルク’Oの思惑とはまったく異なるベクトルを向いてしまったこの映画は、アヴァンギャルドなファッションと、3人のアイドルたちによるぶっ飛んだパフォーマンスのほかに観るべき内容はほとんどない。ちなみに衣装を担当したのはブリジッド・バルドーの衣装デザインを手掛けていたジャン・ブキャンである。




イェイェ全盛期にあったフランスの歌謡界をマルク’Oは批判的に見ており、劇中のパフォーマンスで歌われるイェイェの歌詞も彼自身がイェイェのくだらなさ象徴するかのように、まさにテキトーに書いたそうで、「タツノオトシゴは靴をはけない」とか「大嫌いな婆さん、爺さんが死んで喜んでいる」というような内容をアイドルに歌わせている。するとアイドルクラブの事務所のマネージャーが不謹慎でばかげているからそういう歌詞の歌はやめなさいとアイドルを叱る。「不謹慎でばかげている」これはマルク’Oの本心であろう。

私が面白いと感じるのは、ビュル・オジエが演じるジジのモデルにもなった当時のアイドル、フランス・ギャルに楽曲を提供し、プロデューサーとしてフランス歌謡界に君臨していたセルジュ・ゲンスブールは、そもそもポップスなど二流にすぎないと皮肉った態度をとり続けた人物でもあり、歌詞がくだらなければくだらないほど曲は売れるという確信のもと、一見のなんの意味もなさないような歌詞を書いてアイドルに歌わせていたのであった。しかし実際にはダブル・ミーニングで別の意味をほのめかしていたり、アイドルそのものへの皮肉が込められていたりと、イェイェの裏側とも言うべきプロデューサーの思惑があったのだ。おそらくマルク’Oはこのことに気付いておらず、イェイェを理解不可能なやかましい歌程度にしか思っていなかったようである。彼が映画のなかで唯一失敗し、見落としていた点があるとしたらそこであろう。




しかし主演の3人によるパフォーマンスがすごい。歌もド下手ながらほぼトランス状態でメロメロな踊りもかなりぶっ飛んでいるのだが、特に小柄で可愛らしいビュル・オジエの全身を駆使したパフォーマンスは爽快ですらある。歌も本家のフランス・ギャルと互角という感じであるところもまた面白い。初めて観たときはフレンチ・ポップ好きの私も若干の拒否反応を起こしたが、回を重ねるごとに中毒性が増し、今では拍手を送っている有様だ。




パフォーマンスに負けず劣らず、そのネーミングセンスにもロクでもない魅力を感じさせる。コケティッシュな「狂乱ジジ」、元ストリートの不良だった「短刀のチャーリー」、元占い師の「魔術師シモン」!個人的には落ち目アイドルである魔術師シモンの存在感が一際輝いて見えた。知的でまともなことを喋っておきながら、腐った卵の割れた匂いで未来を占うとか、やってることは相当胡散臭いというあたりがこの映画のどうしようもない魅力をそのままあらわしたかのようである。どちらにしろ、若者たちは反体制を掲げつつも、なんでもありのノーテンキな、まさにあの時代の雰囲気たっぷりといった感じの映画ではあります。バンドによるガレージぽいサウンドも素晴らしい!サントラがないのが残念ではありますが。

映画のなかで、アイドルとは神のような神聖な存在でなければならない、人々の願望を形にする存在でなければならない、と言うのだが、60年代のアイドルたちは実際に若者たちの見本となるような絶大な影響力を持っていたことは確かなのだ。残念ながら?現在そのようなアイドルは少なくとも日本にはおらず、いたとしても心のなかでひそかに自分のヒーローを崇めるだけだ。いわれてみれば、わたしの愛するアイドルたちは皆60年代に青春時代をおくり、活躍した方々である。もはや60年代そのものが現在からみれば底知れぬエネルギーに満ちあふれた輝かしい羨望の時代となりつつあるのかもしれない。





それにしても若き日のビュル・オジエの可愛いこと!可愛いのに演技派で個性派で、多くの作品に異なったイメージを残されている。年を重ねられた今も好きな女優さんの一人です。


アイドルたち
製作年:1968年 製作国:フランス 時間:108分
原題:Les Idoles
監督:マルク'O
出演:ビュル・オジエ、ピエール・クレマンティ、ジャン=ピエール・カルフォン ほか


アイドルたち―フレンチ60sのすべて
INFASパブリケーション







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キングレコード (2006-05-10)

2012-01-19

60sスウィングするロンドンを切り取った、アントニオーニの『Blow Up』(欲望)


イタリア映画史上もっとも前衛的な作風で世界のアートシーンを魅了した鬼才、ミケランジェロ・アントニオーニが手掛けた1966年のイギリス映画『Blow Up』(引き伸ばしという意味だが、なぜか邦題が『欲望』)は、一度観ただけでは素人には理解し難い抽象的な内容にもかかわらず、60年代なるものに憧れを抱いている私はこれを何度も何度も繰り返し観ては、スウィンギング・ロンドンの風が吹き荒れる真っただ中にワープしてチェルシーを闊歩したつもりになって、当時のポップ・カルチャーに想いを馳せている。思えば、大好きなジェーン・バーキンに出会ったのはこの映画であった。

この映画はあくまでもアントニオーニの目線で描かれた60年代半ばのロンドンであって、当時の若者のムーブメントに彩られてはいるけれども、ビートルズもいなければツィギーもいない。ただ、観る者に多くの謎を投げかける映画である。主人公に関するデータすら売れっ子カメラマンであること以外最後までほとんど不明(DVD等のパッケージの説明書きには一応、主人公のトーマスという名前で紹介されているのだけれど、劇中で彼の名前は一度も明かされない)というように、観た人間の数だけそれぞれの解釈が可能な大胆で面白い映画とも言えます。

主人公の行動原理や登場人物たちの関係性が全く見えてこないので、おそろしく退屈な映画だと嫌う人もいますが、私自身もはじめて観た時はつまらない、退屈な感情しか湧き起こらず、逆にそんな自分の馬鹿さ加減にもうんざりしたので、そのように感じる人の気持ちもよくわかるのです。今では自分なりにこの偉大な謎多き作品を咀嚼して大好きと呼べるまでになったけれど、これを一番好きな映画だと言うようではただの芸術かぶれのようで気が引けますし、さらに人に勧めるのも抵抗がありますが、強烈なインパクトで映画史に残る印象的なシーンがいくつか登場するので、今日はそのことについて少し書いていきます。


この映画のもっとも有名なシーンは、当時世界最高峰とも言われたスーパーモデル、ヴェルーシュカをデヴィッド・ヘミングスが激写し、しまいにはぞんざいに扱うというエキサイティングな撮影風景である。二人のセックスを彷彿させるような展開になっており、カメラを離した途端、一気に興ざめするヘミングスとは対照的に余韻にひたるヴェルーシュカ。この温度差ったらない。

ヴェルーシュカはドイツとポーランド、ロシアの混血で、父親は100以上の部屋を持つ屋敷に暮らすドイツの伯爵でもありました。しかし父親はヒトラー暗殺未遂で処刑され、母親もナチスによって投獄されるという悲惨な幼少時代を送っている。20歳前後の頃、アメリカに渡りモデルを始めます。ヴェルーシュカの飾らないライフスタイルはヒッピーたちに支持されました。彼女のモットーでもある自然回帰ともとれるようなボディペイントを施し風景に同化させるようなアート作品『ヴェルーシュカ:変容』を発表しています。


そして公開当時、カンヌで物議を醸したというジェーン・バーキンのヘアヌードが拝めるのである。まだゲンスブールに出会う前の19歳のバーキンは、先にフランスで活動した経歴を持つジリアン・ヒルズとともにモデル志望の女の子役で出演。ミニのワンピにカラータイツという出立ち。これがまた最高に可愛くて、わたしはこれで彼女に一目惚れしてしまったのでした。

問題のシーンは3分間にわたって繰り広げられる脱がせ合いごっこです。このあたりはもうめちゃくちゃで、演技なのか素なのかほとんどわからない、裸になりながらキャーとかギャハハというはしゃぎ声がメイン。バーキンだけ死にものぐるいの本気モードで相手に襲いかかっているあたりに女優魂を感じます。このあたりからもう大物ぶりを発揮していたのでしょう。


最後は映画史に残る重要なシーンというよりは、ロックファンにとって貴重な映像となるヤードバーズのライヴシーンです。末期を迎えつつあったバンドの最後の勇姿と言ってさしつかえのない映像となっておりまして、ジェフ・ベックとジミー・ペイジによるツインギターを見ることができます。ギターを破壊するパフォーマンスは当時そのようなパフォーマンスで話題になっていたザ・フーにならってのもので、監督からぜひギターを破壊してくれとの要求があってのことでした。




ライヴシーンの出演も当初はザ・フーに依頼していたというのはよく聞かれる話でありますが、昨年SMJから出たサントラの解説によると、監督はザ・フーの前に秘かにヴェルヴェット・アンダーグラウンドに出演依頼をしていたということです(!)ウォーホールからビザと労働許可の問題で引き受けられないと断られたそうですが、もしこのライヴシーンがヴェルヴェッツのでものであったなら、この映画はまったく別物になっていただろうと思います。イギリスを舞台にNYのアヴァンギャルドなバンドであるヴェルヴェッツの出演など素人にはほとんど思いつかないのですが、しかもまだデビューしていない彼らのことをアントニオーニがどこまで知っていたのか疑問ではありますが、そのような先見の明を持っているあたりはさすがとしか言い様がありません。

それにしても棒立ちの観客が愚かな群衆心理にしたがって破壊されたギターにたかるというのは、この映画のなかではもっとも解釈を与えやすいシーンではないかと思います。壊れたネックは熱狂的なファンの集うライブハウスの中では絶対的な価値を放つけれど、一歩ライブハウスの外に出てみれば壊れたギターはただのガラクタでしかない。



この映画は真実とは何か?という実に平凡な問いかけをテーマに掲げているように思います。それは美女と暮らす画家が抽象画を描いていることに対して主人公が奇妙な目で見ていることや、白塗りの若者たちがボールもラケットも見えないパントマイムの仮想テニスを披露するシーンに象徴されているようにも見えるのです。


私はアントニオーニの作風というのは現代人の病(やまい)を反映させた結果のように感じているのです。アントニオーニの映画は大概にして人があまり出てこないのだけれど、人がいて然るべき場所に人がいないというような、作り込まれた感じが観客に与える虚無感こそ、まさにアントニオーニが描こうとしたもののひとつであっただろうと思います。

この『欲望』はそのような彼の作風とはまた異なるもので商業的につくられた映画であるから、ただ単純に楽しむべき映画で、そういう映画とは愛される映画なのだとも思っております。





欲望
製作年:1966年 製作国:イギリス・イタリア 時間:111分
原題:BLOW UP
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
出演:デヴィッド・ヘミングス、ヴァネッサ・レッドグレーヴ、サラ・マイルズ、ジェーン・バーキン




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ワーナー・ホーム・ビデオ (2010-04-21)