2012-01-09

フランソワ・トリュフォー、二十歳の恋 アントワーヌとコレット


1932年、パリ九区に生まれ、家庭の事情により孤独な幼少期を過したひとりの少年は、10歳をむかえる頃には家出を繰り返し、映画館に入り浸るようになっていた。少年には実父母がそろっていたが、自分は両親(特に母親)に望まれて生まれてきた子ではないのだというコンプレックスを抱えていた。国語の成績以外は落第生であった彼は14歳で学業を放棄することを誓う。そして盗みや放浪を繰り返しながら映画館に通いつめ、やがて大人(時には専門家)も負かす映画狂の少年になっていた。しかし16歳のときにシネクラブを設立するも、「放浪癖のある不良少年である」として実の両親によって少年鑑別所に送られてしまう。自分は捨て子であるというコンプレックスにさいなまれ続けていた少年は、このとき完全に親に見捨てらてしまったのである。しかし、少年はたとえ両親に見捨てられても、映画に見捨てられたのではないのだと信じていた。1949年の冬のことであった。


少年とは言うまでもなくフランソワ・トリュフォーのことである。この、現代フランス映画界の父とも呼べる彼のすべての作品を私はほかのどんな映画よりも愛しているのである。そしてフランソワ・トリュフォーというチャップリンにも似たひとりの「はみ出し者」は、その映画において、時には走り書きした手紙のなかで疾風のように、また時には書き尽くせぬ日記のようにやさしく語りかけるのである。まるでわたしたち観客をあたかも親密な友人でもあるかのように、彼の秘密をまたひとつ打ち明けてくれるのだ。


昨日のボウイの記事でたまたまジャン=ピエール・レオーのことを最後のほうに書いていたようなので、今日は『二十歳の恋』というオムニバス映画のなかから「アントワーヌとコレット」という作品を紹介する。よく考えてみると今日は成人式でもある。


少年鑑別所、脱走兵として軍刑務所への収容、批評家を経て、1959年、『大人は判ってくれない』という自伝的な映画で監督デビューをはたしたトリュフォーは、1962年に『二十歳の恋』というイタリア、フランスをはじめとするオムニバス映画の一遍として「アントワーヌとコレット」という短編を出品した。実はこの企画、日本からは石原慎太郎の名前がクレジットされており、気になって数年前に調べてみたのだが日本のフィルムだけ行方不明だそうだ。そんなに簡単に一本の映画がなくなるものなのだろうか?と疑問に思うのだが、石原だけに太陽族っぽい?青春モノなのかと想像している。


トリュフォーが出品した「アントワーヌとコレット」は、『大人は判ってくれない』から三年後という設定になっており、前作と同様に主人公のアントワーヌを演じたジャン=ピエール・レオーが再び登場している。14歳であったジャン=ピエール・レオーが17歳になったという、演じた年齢とともに成長していた彼の姿をカメラに収めているうちに、トリュフォーの頭にはさまざまなアイディアが浮かび、ジャン=ピエール・レオーを起用したアントワーヌの物語の続編がその後20年にわたって作られることになる。これについてはまた別の機会に書きたいと思う。


「アントワーヌとコレット」の物語はトリュフォーの実体験がもとになっている。この作品に限らず、トリュフォーの映画というのは、すべての作品がなんらかの形でトリュフォー自身の告白になっている。少年鑑別所をアンドレ・バザンという映画評論家の助けで出所したあと、バザンのはからいで映画批評まで書くようになったトリュフォーは、ゴダールやジャック・リヴェットら、のちにヌーヴェル・ヴァーグとよばれる革新的な風を映画界にふかせる仲間たちとシネマテークやシネクラブで行動をともにしていた。そこで知り合ったリリアーヌというスウェーデン人の女子学生に恋をするのである。



「そのころ、わたしは美しい女子大生に恋をし、ただもう、なるべく彼女の近くにいたい一心で、彼女のアパルトマンの真正面にあった小さなホテルの一室を借りて住んでいたのです......わたしは彼女の両親とすぐ親しくなったけれども、かんじんの彼女のほうはといえば、いつまでたっても、わたしを仲良しだがちょっとうるさいいとこぐらいにしかあつかってくれなかった」フランソワ・トリュフォー





レコード店で働く17歳のアントワーヌはクラシックのコンサートで知り合ったコレット(マリー=フランス・ピジェ、残念ながら昨年お亡くなりになられましたが、上品な美しさに魅了されました。ジャック・リヴェットの映画でも拝見することができ、身近に感じていた女優さんでもありました。)という名の美少女と知り合い、恋に落ちるが、コレットのほうはあまり気があるようには見えない。しかしコレットの気持ちに全く気付かないアントワーヌは、彼女の両親と仲良くなり気に入られ食事にお呼ばれされたりする。しかしコレットをデートに誘っても大学の勉強が忙しいだのと色々理由をつけられ断られるのだが、コレットのアパートの前の部屋に引っ越しまでしてしまう。(かなりストーカー体質なアントワーヌ)



トリュフォーは郊外のアセチレン工場の近くの土曜クラブにもリリアーヌを連れて行ったようだ。彼女はよく付き合ってくれたようだが、トリュフォーの口説きにはついに心を動かされなかった。トリュフォーは剃刀で手首を切って自殺しようとさえした。血まみれのベッドに倒れているトリュフォーを発見したのはリリアーヌだった。傷は深くなかった。リリアーヌは「きわめて冷静に」沈着にトリュフォーの傷の手当てをした。それから数日後、彼女はトリュフォーに何も言わずにバカンスに出かけてしまった。『トリュフォー ある映画的人生』より



そんな悲しい恋の顛末が描かれた「アントワーヌとコレット」だが、アントワーヌの言動が独りよがりでおかしく、終始かわいらしい初恋といった感じである。一方、自殺未遂を起こしたトリュフォーは初めての失恋の痛手にたえられず、突如入隊を決意していた.......。トリュフォーの人生のほうがドラマティックで映画のような話である。トリュフォー関連の話は一度書き出すときりがないので、またの機会にしようと思う。



フランソワ・トリュフォー DVD-BOX 「14の恋の物語」[I]
ポニーキャニオン (2003-11-06)

2012-01-08

デヴィッド・ボウイ

今日はおそらくまともな内容が書けないだろうということを最初に断っておく。1982年生まれの自分にとって、83年における活動とその来日時にボウイが日本人に与えたイメージと後の影響力を考えれば、83年のボウイ・フィーバー(ものすごい陳腐な言い方で申し訳なく思う)を経験していない自分には彼についてなにかを書くなど、その資格はほとんど持ち合わせていないと自覚しているので、それでも好きなアーティストという枠には収まらないボウイのことをどのように書いてよいのか非常に迷っている。


正直なところ、私はボウイについてそれほど多くのことを知っているわけではない。いくら大好きだとはいえたったの十年弱にすぎないのであるから、語るといってもせいぜいお気に入りのアルバムについて一言か二言書ける程度だろう。2004年の、美しさ衰えぬ50代のボウイを拝見することもかなわなかった。


と、言い訳じみた話ばかりしていても仕方がないので、こんなちっぽけな場所でああだこうだと嘆いている今も、ボウイが音楽界にもたらした革新的な偉業は消えることはなく、いつのボウイも美しいという事実に勝るものはないのだから、個人的な想いをいくつか綴ることにしたいと思う。


好きな映画、好きな音楽、好きな芸術家、その他諸々の好きなもの。私の場合、それらすべてが文学から始まっていると言える。そしてボウイを知るきっかけとなったのも文学からであった。それは20歳ぐらいの頃に阿部和重という映画学校出身の面白い純文学作家を知ってからであるが、寡作で知られる彼の小説なかに『プラスティック・ソウル』という名のついたものがあったからである。これについては阿部和重本人が、白人がやるソウル・ミュージックだと揶揄されていたボウイからとったのだとインタビューで答えており、そのことが私の興味をボウイに向かわせたのであった。(阿部和重についても後々書くことになるだろう)


また初心者のようなことを書いて申し訳ないのだが、ボウイといえばアルバムごとにサウンドとそれに付随するような形で容姿を変化させ続けきたことがまず一番に言われる。そしてボウイのファンは一番好きなアルバムを選ぶという過酷な選択を強いられるのであるが、一番好きなアルバムは...などと言っているようでは、まだまだボウイの音楽を十分に聴き込めていないのだとも痛感している。どのアルバムを一番に挙げるかによってその人の性格まで透けて見えるようだと言う人もいるけれど、どのアルバムもその時代その当時のボウイの精一杯の意識を体現した作品なので私はあまりそのように考えることはない。けれど、やはり一番好きなボウイのアルバムについて、ブログなどに書かれている文章を読むのは相手がどこの誰か知らなくとも楽しい。





そして今の私は絶対に『LOW』である。このアルバムは私が勝手に別名「穴」と名付けているアルバムでもある。なぜなら、一曲目の『Speed of Life』を聴くといつも不思議の国のアリスのごとく、穴に落ちていくような感覚をおぼえるからである。一曲ごとに場面が変わる。ホテルの一室、遊園地、サーカス小屋、宇宙、暗く凍てついたワルシャワの街路、このイメージはそのときどきによって変化するが、ボウイのアルバムのなかでは多彩なサウンドのみならずもっとも視覚野を刺激する作品なのである。そして最後には眠りに落ちるようなアルバムである。実際に私はこのアルバムをかけて眠ることが多い。


ところで私の記憶では、80年代に日曜のお昼に生放送されていたたけしのスーパージョッキーのオープニングに『Speed of Life』が使用されていたような気がしていたのだけれど、検索をかけてもそのような内容はヒットしないので、一体どこではじめてこの曲を聴いたのかいっこうに謎が解けないでいる。






さて、最後になるが、上の写真はおそらくマニッシュ・ボーイズという名前のモッズバンドに在籍して活動していた、まだ10代の頃のボウイである。特別めずらしい写真ではないが、私はベッドの脇のコルクボードにこの画像を引き伸して印刷したものを貼っている。その隣には『二十歳の恋』に出演したときのジャン=ピエール・レオーの写真がある。私のすきなものである。

ボウイは私のアイドルに違いないが、とても不思議な存在だ。彼の顔、佇まいはそれがどんなに退廃的な時期であってもひじょうに美しいが、同時にグロテスクであり、胡散臭さすらおぼえる時があるからである。美と醜が共存しているような人なのである。

私は以前、ギリシャ神話を読みながら、登場する神々に性格や特徴の似たロック・スターを当てはめて読み耽っていたことがあったが、ボウイはどちらかというと神の側ではなく人間の側に近い人物なのだった。多くの誘惑に負けては過ちを認めて立ち上がり、さらに負けては再起するを繰り返すような、ひじょうに人間臭い人物のように私にはうつるのである。そしてやがて神としてむかえられるような、そのような人間だと思うのだ。

今日はボウイ65歳の誕生日である。

2012-01-07

彼女のいじらしいハミングはいつだって魔法のようだから

昨夜の予告どおり、今日は私の十年来のミューズとして心の核に君臨し続けておられる歌姫について付随する想いを綴りたいと思う。なにやら宗教めいた香りの漂う表現になってしまったが、今もなお聡明で可愛らしい方なので、今日は私の文体もいつもより柔らかな口調になりそうな気がしてもいる。

2000年代に入り、歌姫という言葉が幅広い意味であらゆる分野の女性歌手にあてがわれたが、今ではだいぶ使い古され、記号化された無機質な言葉のようでさえあるわけだが、さらに時代を遡ると、90年代前半にどこからともなくふらりとあらわれた歌姫がひとり、いたのであった。世間は彼女のことを「渋谷系の歌姫」とさかんに紹介したがっていたが、私自身(当時11-12歳)が渋谷系と呼ばれるものを渋谷の文化として体験しておらず、彼女の歌も渋谷系という名のつくモノのひとつとして聴いていたわけではなかった。そもそも渋谷系という言葉を知っていたかどうかすらあやしいところである。そしてそのころ渋谷系の王子と呼ばれていた小沢健二は「オザケン」として、襟の大きなシャツを着て、ブラウン管の向こうからいささかの胡散臭さをふりまいていた。(小沢健二のこのイメージは十年後に私のなかで激変する。もちろん素晴らしく良いものにである)

カヒミ・カリィを知ったのはアニメ「ちびまる子ちゃん」である。『ハミングがきこえる』(さくらももこ作詞、小山田圭吾作曲による)が「まる子」のオープニングを飾っていたのだ。同世代の人間と好きな音楽の話をしてカヒミ・カリィの名前を挙げると、たいていの相手は「ちびまる子ちゃん」のオープニングを連想するらしい。しかも、まる子の歴代のオープニングでは「ピーヒャラピーヒャラ」の次にこれを記憶している人も多いらしく、歌詞も覚えていてモノマネで歌えるという器用な方もなかにはいる。けれどカヒミが好きという友人はまわりにいなかったので(案の定、声がちょっと苦手という子もいた)学校ではカヒミ好きを公言することを封印していた。



そして私が動いている彼女を見たのは、「まる子」の放送の合間に流れていた森永ハイチュウのCMである。真っ赤なパッケージのハイチュウの山に寝転がって短い台詞を喋るのだが、彼女のウィスパーヴォイスは不思議なトーンを放ち、片言の日本語のように聞こえ、画面下に出現する「カヒミ・カリィ」というテロップも手伝い、国籍不明な佇まいであった。そして私は名前と歌声しか知らない彼女に淡い憧れを抱くようになる。

カヒミ・カリィ。魔術的な響きを持つミステリアースな名前、溜め息のような欠伸のような猫の鳴き声のような蚊の羽ばたきのような歌声、可憐で聡明な容姿、すべてにおいて完璧な一目惚れであった。こんなふうに書いてしまうとちょっと狂信的な気もするけれど、彼女はもうずっと私の憧れの女性のひとりである。アクサン、セディーユ、慣れない綴り字記号にうっとりした十代の頃は、歌詞カードの中から意味もわからぬままフランス語を書き写していた。彼女の活動に影響されて第二外国語には迷わず仏語を取った。(ここまでしておきながら仏語の上達とは無縁のまま現在に至る)




初めて買ったCDはまだ小山田圭吾がプロデュースしていた頃の『Girly』である。まずはキュートなタイトルにロック・オン!(余談ですが私の携帯のメールアドレスは変更するときには決まってこのカヒミ界隈をうろついています)彼女の容姿が好きだったので、ジャケットに顔が大きく出ているものを選んだ。このジャケットはゲンスブールの『メロディー・ネルソン』のジャケットのパスティーシュ。ぬいぐるみを抱いたキュートな姿のジェーン・バーキンで有名。もちろんそんな背景を知るよしもなく、さらには収録されている『LOLITA GO HOME』がゲンスブールの楽曲のカバーであることにもまったく気付かずに、そのまま十年近い歳月をすごした。のちにゲンスブールに興味を持って色々と調べていくうちに、実は自分が気付いていなかっただけで彼の曲を何度も何度も聴いていたという事実を知って驚き、そしてとても嬉しくなんとも言えぬ誇らしい(!)気持ちになる。
当時13歳?か14歳の私。カヒミ・カリィについてはほとんど何も知らないのに、小山田圭吾の名前は知っていて、彼がソロデビューした際にミュージックステーションでタモリに「一人なのにコーネリアスなの?小山田圭吾でいいんじゃない?」と突っ込まれていたのをなぜだかずっと覚えていた。しかし肝心な(?)、二人が恋人同士であるという事実はずっと知らずにいた。彼女のCDは近所の今はなき中古屋さんですべて揃えていった。運良くそこの中古屋さんには当時発売されていた彼女のCDがすべて置いてあったので、好きなジャケットから選んで買い揃えていった。CDは幾度となく聴いたけれど、彼女に興味はありながらも音楽雑誌まで手に取るようなことはなかったので、あのとき必死になって読み漁ってたらもっと早くゲンスブールやフレンチ・ポップ、ソフトロック、もちろん音楽だけではなく60年代〜70年代の素敵な映画の世界についても深く知ることができたのに、そう思うととても残念でならない。だから私はその時間を取り戻す為に、30代を目前にしてまさに十代の頃のような必死さで未だなまぬるい時に浸りながらこのようなブログをせっせと書いてしまっているのだろう。


カヒミは小柄で、歌声だけでなく普通に喋っているときの声もか細くて聞き取り難いくらいだけれど、声のイメージから儚げな女性をイメージすると、それは彼女にはあまり似つかわしくないような気がする。彼女は強く気高くて美しい人だ。凛々しさをたたえた大きな瞳は彼女の意思の強さをあらわしていそう である。ライフワークからは知的でクールな印象を受けることもあるけれど、彼女のインタビューや文章からは特別なバリアを張ることのないチャーミングな人柄が垣間見えたりする。そして、結婚されてからは言葉の節々にやさしさや柔らかさをまとった「色」が感じられるようになった気がしている。以前はカヒミ・カリィといえ ば白か黒、どちらか一色の人というイメージがあった。


カヒミ・カリィは正体不明だがなんだかとても趣味の良い人、という勝手なイメージが良くも悪くも90年代から現在もそのまま徹底して一人歩きしているような人かもしれない。しかし最近では定期的に更新されるブログを見ると、昔の彼女からは想像もつかなかったようなライフスタイルを提示していて、ほっとしたような寂しいような、複雑な気持ちでながめてしまうこともある。それでもカヒミはこれからも私の一部を負ってくれるのだろうと思う。だって、彼女のいじらしいハミングはいつだって魔法のようだから。その声で私は少女の気持ちを取り戻す。私はまだまだ甘い砂糖菓子の溶ける世界でくたびれたぬいぐるみを抱いていたいのかもしれない。



最後に『Girly』の可愛らしい歌詞カードを。これを見た瞬間(渋谷系のCDの作りってほとんどがそうなのだが)やっぱりカヒミはお洒落な人!というイメージが決定的になる。映画『カラスの飼育』に登場する「Porque Te Vas」のカバーも大好きで、今も時々当時を想い出しては聴いている。



Girly
Girly
posted with amazlet at 12.01.08
Kahimi Karie
CRUE-L RECORDS (1994-06-25)


さて、明日は語ることもためらってしまうほど美しい、世界一見目麗しきロック・スターでトリック・スターでスーパー・スターのお誕生日です。