2000年代に入り、歌姫という言葉が幅広い意味であらゆる分野の女性歌手にあてがわれたが、今ではだいぶ使い古され、記号化された無機質な言葉のようでさえあるわけだが、さらに時代を遡ると、90年代前半にどこからともなくふらりとあらわれた歌姫がひとり、いたのであった。世間は彼女のことを「渋谷系の歌姫」とさかんに紹介したがっていたが、私自身(当時11-12歳)が渋谷系と呼ばれるものを渋谷の文化として体験しておらず、彼女の歌も渋谷系という名のつくモノのひとつとして聴いていたわけではなかった。そもそも渋谷系という言葉を知っていたかどうかすらあやしいところである。そしてそのころ渋谷系の王子と呼ばれていた小沢健二は「オザケン」として、襟の大きなシャツを着て、ブラウン管の向こうからいささかの胡散臭さをふりまいていた。(小沢健二のこのイメージは十年後に私のなかで激変する。もちろん素晴らしく良いものにである)
カヒミ・カリィを知ったのはアニメ「ちびまる子ちゃん」である。『ハミングがきこえる』(さくらももこ作詞、小山田圭吾作曲による)が「まる子」のオープニングを飾っていたのだ。同世代の人間と好きな音楽の話をしてカヒミ・カリィの名前を挙げると、たいていの相手は「ちびまる子ちゃん」のオープニングを連想するらしい。しかも、まる子の歴代のオープニングでは「ピーヒャラピーヒャラ」の次にこれを記憶している人も多いらしく、歌詞も覚えていてモノマネで歌えるという器用な方もなかにはいる。けれどカヒミが好きという友人はまわりにいなかったので(案の定、声がちょっと苦手という子もいた)学校ではカヒミ好きを公言することを封印していた。
そして私が動いている彼女を見たのは、「まる子」の放送の合間に流れていた森永ハイチュウのCMである。真っ赤なパッケージのハイチュウの山に寝転がって短い台詞を喋るのだが、彼女のウィスパーヴォイスは不思議なトーンを放ち、片言の日本語のように聞こえ、画面下に出現する「カヒミ・カリィ」というテロップも手伝い、国籍不明な佇まいであった。そして私は名前と歌声しか知らない彼女に淡い憧れを抱くようになる。
カヒミ・カリィ。魔術的な響きを持つミステリアースな名前、溜め息のような欠伸のような猫の鳴き声のような蚊の羽ばたきのような歌声、可憐で聡明な容姿、すべてにおいて完璧な一目惚れであった。こんなふうに書いてしまうとちょっと狂信的な気もするけれど、彼女はもうずっと私の憧れの女性のひとりである。アクサン、セディーユ、慣れない綴り字記号にうっとりした十代の頃は、歌詞カードの中から意味もわからぬままフランス語を書き写していた。彼女の活動に影響されて第二外国語には迷わず仏語を取った。(ここまでしておきながら仏語の上達とは無縁のまま現在に至る)
カヒミは小柄で、歌声だけでなく普通に喋っているときの声もか細くて聞き取り難いくらいだけれど、声のイメージから儚げな女性をイメージすると、それは彼女にはあまり似つかわしくないような気がする。彼女は強く気高くて美しい人だ。凛々しさをたたえた大きな瞳は彼女の意思の強さをあらわしていそう である。ライフワークからは知的でクールな印象を受けることもあるけれど、彼女のインタビューや文章からは特別なバリアを張ることのないチャーミングな人柄が垣間見えたりする。そして、結婚されてからは言葉の節々にやさしさや柔らかさをまとった「色」が感じられるようになった気がしている。以前はカヒミ・カリィといえ ば白か黒、どちらか一色の人というイメージがあった。
カヒミ・カリィは正体不明だがなんだかとても趣味の良い人、という勝手なイメージが良くも悪くも90年代から現在もそのまま徹底して一人歩きしているような人かもしれない。しかし最近では定期的に更新されるブログを見ると、昔の彼女からは想像もつかなかったようなライフスタイルを提示していて、ほっとしたような寂しいような、複雑な気持ちでながめてしまうこともある。それでもカヒミはこれからも私の一部を負ってくれるのだろうと思う。だって、彼女のいじらしいハミングはいつだって魔法のようだから。その声で私は少女の気持ちを取り戻す。私はまだまだ甘い砂糖菓子の溶ける世界でくたびれたぬいぐるみを抱いていたいのかもしれない。
最後に『Girly』の可愛らしい歌詞カードを。これを見た瞬間(渋谷系のCDの作りってほとんどがそうなのだが)やっぱりカヒミはお洒落な人!というイメージが決定的になる。映画『カラスの飼育』に登場する「Porque Te Vas」のカバーも大好きで、今も時々当時を想い出しては聴いている。
さて、明日は語ることもためらってしまうほど美しい、世界一見目麗しきロック・スターでトリック・スターでスーパー・スターのお誕生日です。
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