いきなり脱線するが、ものすごい映画に出会ってしまった時の感激というのは言葉にするのは難しい。もちろんここでいう、ものすごい映画とはほとんど個人的な感性や主観に左右される題材を扱った作品のことだけれど、ようするに好みの問題ということなのだが、わたしのなかでジャック・リヴェットという監督の作品はどれも(といいながら全作品を観たわけではないのだけれど)、昨日書いたジャック・タチの『ぼくの伯父さん』に匹敵するほど摩訶不思議で幸福な映画体験をもたらしてくれる。
ジャック・リヴェット傑作選という3枚組のDVDがあって、現在は廃盤になっていて通常価格の2倍ほどの値段がついているのだが、私はこの三つの作品を近所のTSUTAYAで、もはや購入したほうが賢明かもしれないと思いながらもしつこく幾度となく借りていたのだが、あるとき気付いたらいつのまにか棚から消えてしまっていて、それ以来観ることができないでいる。ある日なにかの拍子に無性に観たくなる映画というのが必ずあって、そういう映画というのは、面白いのだけれどはっきり言ってわけがわからないものが多い。どこが面白いのかと聞かれると答えに困るのだが、本人もよくわからないのだけれど面白いのである。映画というものは、もちろん小説だって音楽だってそうだが、二度と同じものは観られない。観るたびに以前には気付かなかった発見がなにかしらあるからだ。その時の体調や気分によってもまるで違うものに感じられることがある。いつ観ても面白い映画というのはそういうもので、面白い映画は何度観ても面白いのである。ジャック・リヴェットの映画とはまさにそのような類いの映画である。
ジャック・リヴェットの作品は時代こそ異なるがその舞台はほとんどパリである。しかしリヴェットの撮るパリというのは日本人がフランス・パリに抱いているような「洗練された」「お洒落な」というイメージとはまるでかけ離れている。この『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(1974年)や、同じくジャック・リヴェット傑作選に収録されているビュル・オジエ親子が共演した『北の橋』(1981年)、舞台俳優志望の若者たちを主人公にした『彼女たちの舞台』(1988年)もパリが舞台になっているが、通りを彩るカフェとかまばゆい光に取り囲まれた建築物といった観光パンフレットに見るような美しい風景は登場しない。おまけにパリの空はいつもどんよりと曇って灰色だ。しかしリヴェット映画のパリはごみ散らかっていようが建設現場だろうがとても魅力的なのだ。もちろんそこに付属する登場人物たちの魅力というのがパリの街を魅惑的に見せる要因のひとつなのかもしれないが、リヴェットの作品に出てくる街こそが本来のパリの姿なのだろうという感じがする。そして、長回しのスタイルで捉えた風景をバックに繰り広げられる即興演出の面白さがわたしをいつも夢中にさせる。上の動画は『北の橋』のもっとも象徴的なシーン。
「たいていの場合 物語はこんな風に始まった」という字幕からはじまる『セリーヌとジュリーは舟でゆく』の冒頭は、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』のパロディになっている。公園のベンチで魔法の本を読んでいる図書館員のジュリーの前を、派手な緑色のボアを首に巻き、肩から荷物の入った大きな袋を下げた女(セリーヌ)が慌てたように駆けて行く。セリーヌは大きな袋からサングラスを落とし、続けてスカーフを落とし、ひとやすみしたベンチに人形を置いて逃げ去って行く。ジュリーはセリーヌの落とし物を拾いながら追跡を始めるが、セリーヌは追いかけるジュリーの存在に気付いていながらも大胆な行動をとる。ジュリーもまたセリーヌに気付かれていると分かりながらもこっそりと隠れたふりをしてみせる。まるで追跡ごっこを楽しむような彼女たちの表情を見ていると、てっきり赤の他人とばかり思っていた二人の関係性が非常に気になりだしてくる。しかし二人は「他人か?友人か?」という目で物語を追いかけてみても、どうやらそうでもないらしい。追跡ごっこのはてにセリーヌはある建物に入り、宿泊カードを書くよう求められる。彼女はそこで職業の欄に「魔術師」と書く。われわれはそこで魔法の本を片手に呪文を唱えていた冒頭のジュリーを思い出し、奇妙な追跡ごっこはセリーヌの職業が魔術師であることに関係があるのだろうと予想する。しかしシーンが変わってもこうした私たちの疑問は一切説明されないまま物語は進んでしまう。ちなみにこの台詞のない導入部だけで30分近い時間を消費しており、はっきり言って退屈である。しかしこの何も起こらない退屈な感じをやりすごせる人間だけがリヴェットの魔法にかかることができるのである。
この作品はストーリーがあってないようなもので、結末もあってないようなものである。物語として成り立たない映画というのはとにかく前衛的でこれまでにない面白いこと、かっこいいことをやってやろうという気迫が伝わってくるような、人間味に欠けた嫌らしい印象のものが多い。けれどこの映画は私たちの生きるごく普通の生活の延長上にあらわれた物語である。あるときは立ち止まり、道を踏み外したり、堂々巡りな日常からふらりと脇道に入って行くと、この映画のような夢物語にばったりと出くわしてしまいそうな、そんな予感を抱かせる物語なのだ。空想か現実かわからない世界を主人公が行ったり来たりするという話はさほど珍しいものではないけれど、この映画は空想と現実を区別して考えるような謎解きを最初から必要としていない。
記憶鑑賞会のできるキャンディや、四大(水、空気、地、火)で作った魔法の薬、魔除けの恐竜の眼といった子どもじみた装置が空想と現実をつなぐ役割として登場するが、それらもまた現実の中に取り込まれた夢物語の一部でしかない。こうした夢物語の装置がさらに夢物語な出来事を呼び起こすこの物語は、基本的に「空想/空想」の二重構造から成り立っている。もちろん現実がなければ空想世界も存在しないわけだが、この映画を観ていると現実が空想を作り出すのではなく、「空想/空想」の二重構造、もしくは空想の連鎖によって現実が見えてきたり、われわれの意識が元の場所に戻ってくるというような不思議な感覚になってくる。
こういう物語を何をすることもなくだらだらと眺めていられたら最高に幸せだろう。よくわからないが、そのよくわからない「謎」で三時間以上の映画を作ってしまうのだから、やはりこの作品には面白い以上のなにかがあるのだと思う。私はそれが何であるのかを探し当てようとして、いつもこの映画を観ているのだ。上映時間が三時間を越える作品でありながらその長さを感じさせず、映画が終わってほしくない、いつまでもこの世界に留まっていたいと思わせるような不思議な魅力を持っている。それがジャック・リヴェットの、ごみ散らかったパリの魔法なのかもしれない。
セリーヌとジュリーは舟でゆく
製作年:1974年 製作国:フランス 時間:192分
原題:CELINE ET JULIE VONT EN BATEAU
監督:ジャック・リヴェット
出演:ジュリエット・ベルト、ドミニク・ラヴリエ、マリー=フランス・ピジェ、バルベ・シュローベル、ビュル・オジエ
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