2012-02-26

活字のない世界、フランソワ・トリュフォー『華氏451』(1966年・イギリス=フランス)



近未来。活字のない世界。そこでは読書が全面的に禁じられ、本を読む者は反社会分子とみなされていた。すべてが耐火住宅になり、本来ならば火を消すはずであった「消防士」の仕事は禁止されている本を探し、それらに火をつけて燃やすこと......


数年前に母親が「昼間、BSで面白い映画をやってたわ。本が燃やされるのよ!それでみんなぜーんぶ暗記しちゃうの!華氏なんとかっていう...それが紙が燃える温度なのよ!」と興奮した様子で喋っていたことがあった。あまり映画を観ることのない彼女にしては珍しいこともあるものだと思い、私は一緒にはしゃぎたい持ちを抑え、あえて冷静に「あぁ、それはトリュフォーじゃないか」と答えたのだった。それから半年もたたぬうちに「あの映画、またやってたわよ」と母が教えてくれたのだが、ヌーヴェル・ヴァーグかトリュフォーの特集かなにかをやっていたのだろうか。残念ながら私はまだトリュフォーの作品をテレビ放映で観たことがない。ゴダールは父と一緒に『軽蔑』を観たおぼえがあるのだが。


私がトリュフォーの映画に惹かれる大きな理由は、そのどれもが本好きの人間のための映画のように思えるからだ。トリュフォーの映画では、書物を読む、手紙を書く、文章をタイプする、といった活字をめぐる行為が非常に重要な役割を果たしている。どの作品も読書好きのトリュフォーらしいユーモアに彩られ、本好きの人間であればその粋な心配りに親しみを感じるだろう。


そんなトリュフォーの書物への愛がひしひしと伝わってくるのが、この『華氏451』である。トリュフォーの監督作品としては4作目にあたる。活字が全面的に禁止された社会を描いたレイ・ブラッドベリのSF小説が原作なのだが、実はトリュフォーは大のSF嫌いであることを公言していた。同志ゴダールの映画についても近未来の都市を舞台にした『アルファヴィル』だけは好きにはなれないと言っていたほどである。にもかかわらずこの小説の映画化を引き受けた背後には様々な理由があってのことだろうと推測するが、まず間違いなくトリュフォーはこの原作の小説を面白いと思ったのだろう。

というか、この原作は相当面白いはずである。本が禁止されるということ(活字とはなにも小説や専門書や辞書ばかりではなく、活字が含まれていれば漫画や美術書なども対象になっている。主人公のモンターグ青年はイラストの吹き出し部分に台詞のない新聞?のようなものを読んで、というか見ている)それを取り締まるのが消防士という発想がすごい。そして原作の世界を見事に再現したトリュフォーもまたすごいということなのである。60年代からみた未来という設定であるから、もしかしたら今の時代を想定したのかもしれない。「いとこ」たちが出演するスクリーン、モノレール、規格化された住宅。まあ、いま観ると失笑してしまう箇所もあるのだが、殺伐としたひとつのイメージを伝えるのは十分である。

そしてなにより、本が燃えるシーンの美しさ。本を読むシーンの素晴らしさ。これらのシーンに心が動かされるということは、感情移入ではないけれど、本に愛着を覚えるからではないだろうか。もちろん映画の主人公は消防士のモンターグなのだけれど、焦点が当てられるのは本である。本が燃えるシーンを見つめているときの自分の心理を見つめ返すことによって、この映画の素晴らしさが理解できるのだろう。そして本への愛着があれば、自ずとラストシーンが美しく感動的なものになるのだ。



この映画はトリュフォー自身も失敗作とみなしていたほど、いわく付きの作品である。モンターグを演じたオスカー・ウェルナーとの確執は有名な話だが、そもそもこの主人公の役には前々作の『ピアニストを撃て』に出演したシャルル・アズナブールの名前が最初にあがり、次にジャン=ポール・ベルモンドが、ベルモンドはかなり乗り気だったのだけれど、フランスでは製作資金のめどがつかず白紙になってしまった。アズナブールが演じていればピアノの弦の下に本を隠したり、ベルモンドだったらりジュリー・クリスティーとまるで兄妹みたいに映りそうだが、そんなネタも豊富にあったのだろうなと勝手に想像している。とにもかくにも、イギリスで行われた撮影で英語が話せないトリュフォーは苦戦し、遂には誰とも話さずに日記ばかり綴っていたそうである。そんな状況下で唯一彼の救いだったのはジュリー・クリスティーの存在だったらしく、当時のインタビューを読んでみると作品についてはあまり語らず、やたらと彼女を絶賛しているものばかりである。

しかし私はこの映画をそれほど悪い作品だとは思わない。むしろトリュフォーの映画のなかでは好きなほうに入るくらいである。もし失敗作と言われる原因があるとすれば、トリュフォーの書物への愛が強すぎるために、細部にこだわりすぎてしまったことにあるのではないだろうか。先にも書いたが、本が次々に燃えるシーンの紙のアップは美しくとても効果的で、逆に空からの襲撃シーンはやたらとチープで不思議な出来映えになってしまっているように思う。もしかしたらこのような部分がトリュフォーの言う、あまりにSF的な要素を排除した、というところの意味なのかもしれない。

そしてこの映画にもやはりトリュフォーらしい目配せというのが感じられるのである。例えば、ラスト近くの床に臥せったお爺さんが子どもに暗唱させるシーンに時間を割いているあたりに、もうひとつのドラマがみえてくるのである。物語の本筋とは別のところで印象深い意味を持たせるあたりはトリュフォーはならではといった感じである。そしてラストになるのだが、書物の内容を一字一句すべて暗記してしまったいわゆる「本人間」たちがそれぞれ暗唱しながらすれ違うシーンに日本語の台詞が聞こえるような気がしているのだが、もしそうであったのなら一体誰の何の本なのか、日本語で喋っているぐらいだから日本の書物だと思うのだが、それがずっと気になっている。そしてこの映画を観終えた私はいつも、ごまんとあるお気に入りの本の中からいったいどの本を暗唱しようかなどと、本気で考えてしまうのである。


華氏451
製作年:1966年 製作国:イギリス・フランス 時間:112分
原題:Fahrenheit 451
原作:レイ・ブラッドベリ
脚本:フランソワ・トリュフォー、ジャン=ルイ・リシャール
監督:フランソワ・トリュフォー
出演:オスカー・ウェルナー、ジュリー・クリスティー ほか


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