おそらくこの小説に出会っていなければ、このブログで扱っている内容とは一切無縁であっただろうし、そもそも今の私を形成するあらゆる事柄はほとんどこの小説に影響されたといってもよい。ここ数日というもの相変わらず偏頭痛がひどいのだが、この小説について書くのはいったい何度目になるだろうと思いながら、荒れ狂った本棚から文庫本を引っ張り出してみる。
私はとにかく影響を受けやすいタイプの人間で、ヒトラーが同じ誕生日だと知った時にはとてつもないショックを受けたものだが、その一方で、自分が特別な人間であることの証明になるのではないかと、ヒトラーと誕生日が一緒だということをことあるごとに周囲に喋りまくっていた。もちろんここでは自分以外の4月20日生まれについてはまるで問題にしないというのが暗黙の了解といわんばかりに前提としてあるわけだが、このどうしようもない自意識でうまくやっていけていた十代の頃を振り返ってみると、自信家でアイドル気取りのいびつな恰好をした小娘が何を根拠に自称特別足りうる存在で、ある人曰く明朗活発に暮らしていたのかまるで不思議でならない。今のわたしにとって過去というものは少なくとも良き思い出というよりひとつの脅威になりつつあるのだが、結局のところ大人になったと言えばよいのか、早い話が、自分は特別な人間でもなんでもないという事実を受け入れることがこんなにも困難で苦痛をともなう経験だということを否応にも思い知らされているところである。私もまた、ろくでなしのジレッタントにありがちなストーリーを歩んでいるというわけだ。
阿部和重の『アメリカの夜』(1994年)という小説はそんな私の姿を生き写しにしたようなばかばかしくおかしな面白い話で、長いあいだ私のバイブルだった。もちろん今でも大好きで、さきほど数年振りに読み返してみたのだが、二十代前半の頃に夢中になった時ほどの、この作家について行くぞと思わせるような情熱はもはや薄らいでいたものの、やはり面白い小説だった。強いて言えばおびただしいほどの文学作品の引用というやりかたで文学に近づいていきながらも、裏では文学的な気取りを極力おさえようという、いかにも新人賞に応募するような、真新しいことをしてやろうという素人っぽさが露骨にあらわれていたぐらいのものだった。もはや承知のとおり、『アメリカの夜』というタイトルはトリュフォーの映画からとったものだが、応募時は『生ける屍の夜』というタイトルだった。阿部和重は映画学校出身なのだが、もちろんいつか映画を撮るつもりで脚本を書いていたのである。しかし彼のいうところの脚本が回りくどくどんどん長くなってしまい、それならばという感じで小説を書くようになってしまった人である。
この小説の主人公である中山唯生に自分自身の姿を重ねる人は多いのかもしれない。よくある若者の自分探しの物語だが、誰よりも「特別な自分」であることを証明するためにこの主人公はブルース・リーの模倣をしたり、既存の小説の主人公にならって気違いになってみようとする。十代の頃であれば誰もが経験したであろう憧れの人物の髪型を真似てみたり、ファッションや立ち振る舞いを真似してその人物になりきったところで、そのことが友人と自分の差異を引き延ばすわけでも、自分を一段高い場所へと導くわけでもなく、結局は「特別な存在」にはとうていなれないという虚しさを募らすだけなのだが、中山唯生はそのことを十分に理解していながらも馬鹿馬鹿しいほどせっせと「特別な自分」の証明を試みようとする。なにがそこまで彼を駆り立てるのかといえば、理由は単純で、秋分の日が「特別」な意味を持った一日であるという情報をある小説から得た彼は、秋分の日生まれである自分が「特別な存在」となるためには春分の日よりも秋分の日が勝っていることを証明しなければならないと思いはじめたからである。このあたりはまさしくヒトラーと同じ誕生日だということになにか「特別」な啓示を受取ったような気でいた私と大差なく、最初から最後までまるで自分のことが書いてあるような小説だと思ったのだ。
というわけで阿部和重はずっと私の文学的アイドルの頂点に君臨している作家なのだが、この小説でトリュフォーはもちろん、ゴダール、アンナ・カリーナの名前を知り、映画の世界に足を踏み入れ、プルーストを読み、ドン・キホーテを読み、バロウズを読み、彼のほかの作品も読んでいくうちに60年代のサブカルチャーにも興味を持つようになっていったのである。阿部和重の小説はどうも男子校の雰囲気が強く、女性の読者が少数だと言われているのだが(おそらくそれは嘘である)、なぜだか私は彼の小説も彼のことも大好きで、同じ東北の出身というあたりにどこか共感するものがあるのかもしれないし、どことなく胡散臭い感じのする部分が好きなのかもしれない。そういえば阿部和重はコーネリアスが好きで、この『アメリカの夜』は既存の文学からのおびただしい引用で彩られている小説なのだが、コーネリアスのサンプリング音を駆使した作風をどこか感じさせるものである。阿部和重はデビュー当時に文学界のフリッパーズ・ギターと呼ばれていたそうだが、小沢健二に例えられた人物はいったい誰なのか私は知らないのである。ご存知の方がおればぜひ教えて下さい。
ところでいま読んで初めて気がついたのだが、ストーンズの『悪魔を憐れむ歌』の邦訳が引用されていて、この部分から感じたのはこの小説は中山唯生の延々と続く自己紹介のようなものだということだ。それは、『悪魔を憐れむ歌』が「自己紹介させてください/私は財産家で贅沢屋の男です/私は何世紀も生きてきました/大勢の人の魂と信仰を奪いました〜」という歌詞にはじまる6分半にわたるルシファー大魔王の曲であるのと同じで、饒舌な語り手が間髪を入れずひたすら喋り続けているのである。この小説を読むときに必ずはまりこむ文学的な要素を完全に無視した阿部和重の文体のスピード感のなさ、しかしそこにくっきりとあらわれる滑稽なリズム感が何かに似ているとずっと思っていたのだが、おそらく『悪魔を憐れむ歌』を聴いているのと同じような作用をもたらしているのだろうということがわかった。もちろん『悪魔を憐れむ歌』が滑稽だというわけではなくて、曲の冒頭から最後までずっと規則正しく刻まれるビートに思わず体を揺らさずにはいられない曲である。そして阿部和重の小説も一度そのビートに乗るとおそろしいほどのドライヴ感に身をさらすことができるというわけである。
もしも阿部ちゃんがこれ一作で断筆していたら、ある種のトリックスターに祭り上げられていたかも・・・
返信削除ってくらいの胡散臭さ満載!(笑)
僕的には「ジョジョ」に出てくるイカれた敵キャラ的な印象があります。
阿部ちゃんはもう20年も書いているじゃないか、ところで映画のほうはいつ撮るんだい?と突っ込みながらこの記事を書いたのですが、まさか文学畑のおなごと再婚するとは思いませんでした。まあ、さらに胡散臭さが増したような気もしますけれども。私は「ジョジョ」は知らないのですが、道化役といった感じなのでしょうか。
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