2012-01-06

マルティン・ シュリーク 映画、文学にも演劇にも表現できないものが従える魔術的なメディアとは

昨日の記事はまるでとんちんかんな人間が書いたような内容である。さらに今日の更新について予告するのを忘れていたので、一日中何について書こうものかと真面目に考えてしまっていた。やはり前日にある程度の内容を決めておくべきなのだろう。これでは毎日更新するという目下の課題を安易に放り投げてしまいそうである。あまり考えすぎてもいけないので今日は私の好きなあるヨーロッパ映画について書く。


スロバキアの鬼才と称されるマルティン・シュリーク(Martin Sulík / 1962-)は映画を「文学にも演劇にも表現できないものが従えられる魔術的なメディア」として1990年頃から活動をはじめた人物である。詩的で幻想的な映像美、独自の哲学を盛り込んだスタイル、その感性は多くの国際映画祭で絶賛されており、日本では2003年に「マルティン・シュリーク・不思議の扉」と題された上映会で三本の映画が初公開されている。





今日、ここで紹介するのはその三本のなかから『私の好きなモノすべて』(原題:Všetko čo mám rád / 1992年)という人生の岐路に立たされた、言わば中年男の自分探しのような映画を紐解きたい。実はこのブログの表題を「私の好きなモノすべて」と名付けようかと迷ったほど大好きな作品で、いちど別の場所でもこの映画について書いたことがあるのだが、今日はそれに加筆するかたちでこの映画について考えてみようと思う。


どういった流れで聞いた(もしくは読んだ)話なのかすっかり忘れてしまったが、ゴダール映画における言葉の氾濫について、ゴダールは実際のところ文学が好きでたまらなく、本当は作家になりたいのだが小説が書けないので仕方がなく映画を撮ることにした、という見解をされている方がおられた。デビュー作『勝手にしやがれ』の脚本を担当したのはゴダール自身ではなく同志のトリュフォーに助けられて、というのは有名な話であるが、もしゴダールが映画(映像)よりも文学(言葉)を重んじているという見解がある程度あたっているのであれば、映画(映像)には限界があるが文学(言葉)には限界が、不可能がないということになる。映画は二流芸術で文学は一流芸術という一般論には私も同意するが、なぜ今ここでゴダールの話を持ち出したのかというと、マルティン・シュリークが映画を「文学にも演劇にも表現できないものが従えられる魔術的なメディア」とした理由は一体どんなものであるのか考えてみたいからである。


映画『私の好きなモノすべて』は2〜5分ほどの長さで区切られた断片の積み重ねで構成されている。21の断章すべてに表題がつけられており、鈴の音とともに新たなシーンが始まる。ちょうど連続する短編小説を読んでいるような感じだと言えばその様子が伝わるだろうか。ちなみに21の断章を書き出してみると

1「夜明け」2「断食」3「屋外のペンキ塗り」4「息子」5「気球のある風景」6「マッチの女」7「ヘーゲルによる世界」8「父」9「寝ること」10「ジョイスの言葉」11「古い世界の肖像」12「カトリック教」13「ヨーロッパ中心への旅」14「結婚記念日」15「家族写真を撮ること」16「奇妙な優しさ」17「ソロー、カント、ゲーテ」18「将軍」19「断食をやめること」20「あなたは何が欲しい?」21「僕に音楽を演奏して」となる。


この映画のなかでもっとも私の興味を引いたのは、音楽も台詞もない風景のみを導入した断章がいくつかあることだった。1「夜明け」3「屋外のペン キ塗り」5「気球のある風景」などがそうだ。1の「夜明け」はまさしく夜明けの映像そのものである。湖の水平線に現れた太陽の姿が映し出されるだけだ。オレンジ色の光に染まる湖水を魚が飛び跳ねたり主人公が泳いだりしている。素晴らしい眺めではあるが、約2分間も同じ調子の映像が続くとこれが 意外と長く感じるものなのである。


そこでふと考えついたのは、もしこれが文学だったならこの2分間にわたる「夜明け」の断章を、作家によっては原稿用紙数枚分にもおよぶ風景描写が可能なのだろうなということだった。映画を文学に置き換えたとき、間違いなく映像は作家にとっての文体である。小説家は言葉を使って世界と対峙し、文体によって世界に解釈を与えなければならない。同じようにほとんどの映画は映像を拠りどころとし、映像によって世界を決定付ける。小説家にとっての文体がそうであるように、映画における映像は作家の個性的基盤である。そういう意味で、マルティン・シュリークの文体は対決すべき世界に解釈を与えることに成功しているのではないか。


マルティン・シュリークが提示する詩的な映像は、その大部分をスロヴァキアの美しい自然が負っている。美しいというのはあまりにも陳腐な表現だがこれほど ノスタルジーをおぼえる田園風景はないだろう。私たちは感情を揺さぶられるような美しい風景に出会ったとき「言葉では表現できない」などと都合の良い言い 回しを用いることよくがあるが、マルティン・シュリークの幻想的で繊細な映像は、それが魔術的な効果なのかどうかはわからないが、その美しさを言葉で捉えたいという欲望に駆られてしまう。


この映画は非常に淡々としていて表情を変えることがない。人物の往来は頻繁に行われているにもかかわらず、台詞が極端に少ないように感じられる。おそらく全編をとおして一番喋りまくっているのは主人公のトマスがインタビューを行っている作家の爺さんである。おまけにこの爺さんはヘーゲル、ジョイス、ソロー、カント、ゲーテといった錚々たる思想家たちの言葉を並べ上げ、喋りまくっているだけだ。トマスはそれら作家の言葉を収集することをライフワークとしていて、いつ か自分も本を書きたいと思っているような人間なのである。


この映画は、誰かの借り物である言葉をちりばめることによって、監督自らがディレッタントにすぎぬ自分をさらけ出しているような、恥ずかしいほど強烈に文学的嗜好が表現された映画なのだ。うまく表現できないのがもどかしいのだが、文学を離れて映像を経由しながら結局は文学に戻ってきたような映画、私にはそのように感じられるのだった。


マルティン・シュリークの映画は、『私の好きなモノすべて』(Všetko čo mám rád / 1992)『ガーデン』(Záhrada / 1995)『不思議の世界絵図』(Orbis Pictus / 1997)の三作が今のところDVDで鑑賞可能である。しかしまだまだ知名度は低いようである。2004年に発売されたDVD-BOXも現在は廃盤になっており、前述の作品以外は今日まで日本で劇場公開されていない。数年前に『地図にない国の風景』(Krajinka / 2000)という作品がシネフィル・イマジカで放送されたようだが私は未見である。
明日は私の核とも言えるべき歌姫について書く。


ここは私の場所じゃない
私のものが一つもない
必要なのよ
私の箪笥と 私のベッドと 私の本と
私のものを隠しておける壁が


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