2012-01-10

映画、春にして君を想う 小沢健二、春にして君を想う

小沢健二の楽曲に『春にして君を想う』という歌がある。この曲が収録されたシングルは1998年1月に発売されたが、その翌月のテレビ出演を最後に、小沢健二は十数年にわたり表舞台から姿を消す。もちろんファンのあいだでは最後のシングルとして重宝されていたが、大げさに解釈すれば死期を匂わせるような内容の歌詞であったために胸を痛めるファンも多く、2010年にライブ活動を再開するまで長年にわたり、様々な憶測を語るのに恰好の要因のひとつにもなっていた。




邦題『春にして君を想う』という1991年のアイスランド映画がある。おそらく小沢健二はこの映画を観ていたのだろう。原題は『Born natturunnar』で、ほとんどの国が「Children of Nature」と原題そのままのタイトルを使用しているのだが、日本では『春にして君を想う』という抒情的なタイトルがあてられた。これはオープニングに登場する農夫たちの合唱の歌詞から取ったもののようである。私は三、四年前にこの映画を観たが、その時点ではこの作品全体をうまいぐあいに覆っている不気味で陰鬱な雰囲気が、どこか青臭い感じのする邦題とどうもしっくり噛みあわないでいた。


しかしこの映画はとても不思議な映画で、後から後からじわじわと心地良い安堵感がやってくるのである。それは癒し、一種のカタルシスとでも言うべきなのだろうか。スピード感もなければ会話にすら躍動感はなく、派手さとは一切無縁であり、格別きれいな映像だともいいがたいのだが、まるで数日前に観たような気さえするほど、忘れられない映画のひとつとなっている。『春にして君を想う』という邦題は今では何にも代え難い美しいタイトルであると確信している。


この映画は年老いた男女のロード・ムービーである。妻に先立たれ、アイスランドの農村で一人暮らしをしていたゲイリという名の老人が長年守り抜いて来た農場を捨て、都会に住む娘夫婦のもとに身を寄せることを考えるのだが、突然の同居が快く受け入れられるはずもなく、仕方なく老人ホームに入所する。そこで偶然に再会した幼馴染みのステラが「死ぬ前に故郷に帰りたい」と言い出すのであった。


老いるということは子供に還るということなのだろうか。子供に還るということは原初の状態、つまり自然に還ることを意味するのだろう。この映画の要は原題にもある通り、アイスランドの自然美だ。可憐な草花、澄みきった水面、透き通るような月といった神秘的な自然描写。もちろんただ単に美しいというわけではなく、鬱蒼とした植物やごつごつとした岩場だとか、人間の手が入らない作り込まれた感じのなさが現地の厳しさを物語る。


そしてこの土地の晴れることのない深い霧はどこか不気味で陰鬱な雰囲気を持っている。それはこの作品が子供時代を過ごした故郷へ戻る物語であると同時に死に向かう物語であるということの象徴なのかもしれず、美しい風景を見たときに感じる物悲しさが全編をとおしてひしと伝わってくる。


老人には何かが起こりそうな気配というのがあまり感じられない。強いて言えば真っ先に思い浮かぶのは「死」という象徴的な出来事だが、老人だろうが若者だろうが死期というのは誰にもわからない。しかしもっとも「死」に近い存在という意味で「死」は老いにつきまとう。この映画は何かが起こりそうだけれども、 主人公が老人であるために劇中で起こりそうな「何か」というのはつねに死の気配を孕んでいる。逆に言うと「死」以外には何も起こりそうにないということもできる 。


老人ホームを抜け出した男女が新しいスニーカーを買い、車を盗難し、故郷の土を踏みたいという気持ちに突き動かされて行動する姿というのは見ていてとても滑稽で不思議な感じがする。老人ホームを抜け出して逃亡するというのは非常にドラマチックではあるのだが、ゲイリが孫の没頭する世界が理解できずに困惑していたように、ゲイリとステラの逃亡劇もまた我々とは別の世界で起きた出来事のように思えるからだ。そのように感じるのは我々が老人を社会から隔絶された存在だと位置づけてしまっているからなのかもしれないし、逃亡中のゲイリとステラが捜索願が出されたという報道をラジオで聞いても、そんなの私たちにはおかまい無しよ、というふうに世間を遠く離れたもののように切り離してしまうのも、普段の老人に対する無関心というものが社会にはあるからだろう。


そういった社会に不安や絶望を抱えながらも、強い意志を持って「死」に向かう老人の姿を、この映画はアイスランドの厳しい自然を脇に据えながら力強く描いている。終盤になるにつれてファンタジックなシーンも導入されていくのだが、はじめのほうにも書いたようにこれは還るべき確固たる場所を求める旅、子供に、自然に還る旅ということを考えると、現実を超越したものが出て来てもおかしくないのではないかという気になってくる。


ラストに登場するブルーノ・ガンツの天使はヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』を知らない人間が見るとなんだかよくわけのわからない終わり方になってしまっているのだが、ヴェンダースの映画が果たして後世まで残るかそのあたりは謎ですが、自分が老いを感じたときふと思い出すかもしれない、そんな印象深い映画であります。


というわけで、映画の内容を反映させて小沢健二の『春にして君を想う』を聴くといつもとはまた違った響きがするようで、「老いることをおそれないのだ、だってそれはこどものように無邪気なことだもの」と彼は歌っているようでもありました。





凍える頬も寒くはない
お酒をちょっと飲んだからなあ
子供のように喋りたいのだ
静かなタンゴのように

君とゆくよ 齢をとって
お腹もちょっと出たりしてね?
そんなことは怖れないのだ
静かなタンゴのように

薄紅色に晴れた町色
涙がこぼれるのは何故と
子供のように甘えたいのだ
静かなタンゴのように

君は少し化粧をして
僕のために泣くのだろうな
そんなことがたまらないのだ
静かなタンゴのように

薄緑にはなやぐ町色
涙がこぼれるのは何故と
子供のように甘えたいのだ
静かなタンゴのように

子供のように甘えたいのだ
静かなタンゴのように


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ブロードウェイ (2004-03-05)

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