2012-01-05

Dear, Jim まぼろしの世界によせて

Dear,Jim

2010年12月8日、私は一本の映画を観た。時刻はお昼を少し過ぎたところ。劇場はいわゆる独立系のシネコンで、ファッションビルの5階にある。サービスデーなのに閑散としていて、行列のないカウンターでチケットを買うとスタンプが所定の数に達したというのでポップコーンがもらえた。

私は迷わずキャラメル味を選んで、劇場が発行しているかわら版に見入っていたら、ポップコーンを渡されたスタッフに「この映画は予告編がありませんので急いで下さい」と入場を促されてしまった。

スクリーンに入ると、観客は私を含めてたったの3人。これには想像以上に驚いた。だって、今日はあなたの誕生日でしょう。誕生日だというのに、たったの3人。

私は後ろから2列目か3列目の、ど真ん中に座ってスクリーンを睨んだ。今日はあなたの誕生日だというのに、なんということ!あなたの出演する映画を観る人間がたったの3人だなんて!

そして私は思い出す。今日はあなたの誕生日でもあるけれど、きっとあなたを愛する多くの人間にとって、もしかしたらあなたの誕生日以上に忘れられない出来事が重なった日でもあるということを。

きっと、あなたはその悲しい出来事を現実的には知らないでしょう。もしかしたらどこかでそれを目撃していて、私たち以上に事実を真実として知っているのかもしれないし、案外本人に直接知らされているのかもしれないけどね。

そう、今日はジョンの命日だ。けれど私は薄暗いスクリーンの前であなたのことだけを考える。今日、あなたは67歳になった。あなたが生きていれば、の話だけどね。
すっかりおじさんになったけれど、あなたは私のパパより2つも若い。

From,N




ドアーズのドキュメンタリー映画『まぼろしの世界』を先日自宅で鑑賞したのだが、一年前に劇場で観た時の10分の1もこの映画の面白さが感じられなかった。いや、そもそも面白さの再確認という作業が間違っているのであって、この映画そのものがドアーズというバンドのおもしろおかしな一面を追求した作品ではない。むしろよくあるミュージシャンの伝記映画の部類としてはドキュメンタリーという形を取ることによって、脚色や誇張といった胡散臭さが清められ、混沌としていたアメリカの60年代を象徴する映像を随所に織り交ぜるという構成には誠実さすら感じさせる出来映えだ。バンドの内容的にもこれが限界だと思うのだが、この映画が面白いと感じるかどうかはまた別の問題である。

おそらくこの映画はドアーズのファンであれば面白いという感情は起こらないのではないだろうか。少なくとも私が映画館以外の場所で観たところでは、ただひたすらに悲しい映画であった。劇中に使われる楽曲も劇場のような場所で爆音で聴く分には最高なのだろうが、自宅の鑑賞環境では大好きなドアーズがまったく心に響いてこないのである。この映画をPVのようにただ垂れ流しするのであれば、一つのアルバムをじっくり聴くほうがずっといい。

生前のジム・モリソンの映像と対面することは最高の喜びでありながら、最大の悲しみである。私にとってジム・モリソンは神でもディオニュソスでもシャーマンでもロック・スターでもない。詩人になりそこねたロック・スターという人も時々いるが、私がジムを想うとき、詩人かぶれのゴロツキという表現がいちばんに浮かぶ。もちろん好意的な意味でだ。60年代アメリカのロック詩人といえばボブ・ディラン、ルー・リード、ジム・モリソン?やはりジムの名前がクレジットされるのはどこか滑稽な気がしてならない。

ジムは作家志望であった。いまさらことさらに言わなくても十分なほど、本人が作家・詩人として扱われることを切望していた。この映画のなかでもその意思をはっきりと伝えている場面がある。「おれたちは音楽家で作家」なぜかその言葉を言い放ったときのジムの顔は、全編とおして唯一素面に思える瞬間でもあった。

私は世界が言うほどジム・モリソンのことを神聖なロック・スターとして崇めてはいない。おそらく誰もがロック・スターに自己投影する時期が人生の節々にあるだろう。そして私にとってのジム・モリソンは、誰にも言えない、親しい友人なのである。美しく気取ったロック・スターではない。ドアーズと聞けば、ジムの奇行ばかりが表立って興味のない人間にはただのジャンキーなゴロツキの音楽としか捉えられないかもしれないが、ジムは聡明で(これはどこでも言われている)ある以上に、とても人懐っこくチャーミングなのである。それは動いているジムの映像を見れば一目瞭然で、たとえハイになっていても、隠しきれないジムの魅力なのである。ジムの父親はこの映画の公開を待たずに亡くなってしまったが、インタビューで「息子に才能があったかどうかはわからないが、少なくとも友人になりたいタイプの人間だった」と言っている。

ところで時は10年以上前にさかのぼって、私にとってドアーズはビートルズ、ビーチボーイズに次いで3番目に知った洋楽のバンドであった。村上春樹の小説を読み漁っていた頃である。確か、『ダンス・ダンス・ダンス』という長編小説に「ドアーズとプリントされたトレーナーを着た美少女」(正確にはこのような表現ではなかったが)という形で登場した。ビートルズとビーチボーイズに慣れた耳がドアーズを聴くと、おぞましい世界が開かれたかのような気持ちにぶつかる。バロック調のオルガンは美しく私の心をとらえたが、ボーカルは大嫌いであった。歌詞を強くぶちまける魔術的なバリトンがどうしても好きになれなかったのである。

ジムのボーカルが好きではない理由がわかるまで、それからいくばくかの歳月を要するが、つまり、ジムは言葉を大事にしすぎるのである。詩人であるがゆえにこのような歌い方になってしまったのだろうと推測するのだが、洋楽はたいてい歌詞を見ないと何を言っているのかわからないのだが、ドアーズに限ってはそのようなことがほとんどないのである。特に忘れられないのは『アラバマ・ソング』をはじめて聴いたとき、ジムのボーカルを耳で追うだけで、単語がひとつ残らずすべてきれいに聞き取れたのである。ジムは詩人であるがゆえに、たとえそれをメロディーにのせて歌う時もひとつひとつの単語を丁寧に扱い、聴衆に対してもまるで親しい友人との会話のように、言葉を育むことを望んでいたのではないか。それゆえ私は暴走してしまった数々のライブ(いまとなっては偉大な伝説だが)を見せられると、なんとも言えない気持ちになってしまうのである。

最後に、私の好きな『Touch Me』を載せる。ドア—ズの楽曲のなかではなんてことはないラブソングの部類である。前半は大胆だが、後半の歌詞が美しい。ジムはよくギリシャ神話に登場するディオニュソスに例えられることが多いが、太陽や雨や星や空をうたう傾向がある。古代ギリシャの哲学者たちは、暗くなりなにもすることがなくなると星を囲んで空想にふけったり、恋人同士が愛の詩をうたったりしたという。そのような場所がジムの理想とする世界だったのではないかと想わせるような、美しい歌である。なぜか今日は言いたいこととはまったく違うようなむすびになってしまったが、こんな日もいいだろう。



Come on, come on, come on, come on
Now touch me, baby
Can't you see that I am not afraid?
What was that promise that you made?
Why won't you tell me what she said?
What was that promise that you made?

Now,I'm gonna love you
Till the Heavens stop the rain
I'm gonna love you
Till the stars fall from the sky
for you and I


ドアーズ / まぼろしの世界 [DVD]
キングレコード (2011-01-26)

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