ポーランドが生んだ鬼才、クシシュトフ・キェシロフスキ(Krzysztof Kieślowski-1941年〜1996年)は、『デカローグ』『ふたりのベロニカ』『トリコロール』といった傑作を次々に発表したあと、創作の絶頂期にありながら96年に心臓発作で急逝してしまった。54歳の若さだった。10代の頃にお父様を結核で亡くされたキェシロフスキは、父親の虚弱体質を受け継いでしまったことを口にこそ出さなかったが、生涯にわたり気にかけていたように思われる。
私はキェシロフスキの作品はどれも後追いだけれど、長編映画はすべて観ることができ本当に幸せだと思う。その早すぎる死がとても悲しく残念でならないけれど、なにものにも代え難い時間を与えてくれるキェシロフスキの映画をこれから先もきっと何度も観返すに違いない。
キェシロフスキはロマン・ポランスキーやアンジェイ・ワイダを世に送り出したポーランドの名門、ウィッチ映画大学出身。政治と無関係ではいられなかった戦後のポーランドでドキュメンタリー映画から始めた人だった。いくつかの短編を撮ったあと劇映画に転じ、習作のつもりでテレビドラマの制作に携わっている。共産党政権下のポーランドでは劇場映画の監督と認められるにはいくつかの手順を踏む必要があり、まずはテレビ用の映画を撮るのが通常のやり方とされていた。映画産業は国が統轄し、制作に介入することが可能な時代。共産党による検閲が存在していたけれど、検閲官の目をごまかすことはそれほど難しいことではなく、むしろ国から制作費があてがわれたため、資金の確保や市場の心配といった問題とは無関係に映画を作ることができたのだという。
そしてなにより熱心な観客がいたのだった。検閲官の手を逃れることのできた言葉の意味を観客は正確に読み取ることができたし、監督と観客が一体となって検閲官という敵に立ち向かうような雰囲気があった。検閲制度があったおかげで映画は国民に夢を与えることができた、そんな時代だ。当時についてキェシロフスキは、検閲制度によって自由が大幅に制限されたのではなく、簡単に映画を作ることができるいい時代だった、と語っている。いくらパリが、西側の生活条件がよくても、ポーランドなしの人生は考えられない、とも。*
キェシロフスキの作品の何が私を夢中にさせるのか、あらためて考えてみると自分でもその理由はよくわからない。初期の長編は個人を描いているとはいえ、背景には政治的色合いが濃く垂れ込めているので正直なところ心底おもしろいとは言いがたい。けれど、ポーランドについて、共産党についてよくわからない者が観てもわからないなりに最後まで淡々とみせてしまうのもひとつの魅力だろう。そしてキェシロフスキを世界的地位に押し上げることとなった『デカローグ』『ふたりのベロニカ』『トリコロール』、これらの崇高な映画はとてもじゃないけれど書き尽くせない。思い出すたびに胸が震えてしまう。
キェシロフスキの作品はそのどれもが物語ではなく感情を扱った映画だ。私が彼の映画に惹き付けられる一番の理由もそこにあるのかもしれない。そして、人生のもっとも大切な瞬間を切り取っている。もっとも大切な瞬間、とは生涯を通じて一番決定的な時間という意味ではなく、その人物にとってのいま現在、その時、ということだ。だからキェシロフスキは愛するという感情を描いた。しかしキェシロフスキの映画が恋愛映画なのかどうかは定かではない。おそらく答えは「ノー」なのだが。ロマンティシズムに陥りかねない状況をギリギリのところでバランスを保ちながら浮遊しているような感覚、とでもいえようか。
キェシロフスキの映画とは一体何なのであろう?キェシロフスキの映画は、はっきりいって結末などどうでもいいように思われる。なぜなら結末は観ている者にすべて委ねられているからだ。感情の生まれる過程を描いているのに、感情が生まれる背景についてはほとんど説明されることがない。つまり、キェシロフスキは物語そのものを描くことを拒否し、点景をパズルのピースのようにちりばめ、観る者がそれぞれの解釈でそれぞれの好きなように物語を構築することが可能な映画を撮った。これは特に『ふたりのベロニカ』と『トリコロール』にみられる方法で、ただの幻想かおとぎ話ではないのかという批判も聞かれた。しかし私はキェシロフスキのこの2作を観てはじめて、自分がなぜ映画を観るのか?という問いの答えを見出すことができた。そして、これまで無知だったポーランドの歩んできた歴史、その複雑な背景について感心を持ち、なにかを感じ得ることができたのもキェシロフスキとの出会いからだった……。
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