...私は目を閉じて波の音に耳を傾けた。海の中には無数の魚たちがいて、お互いを食べ合っている。飲み込んでは排泄する果てしない数の口と尻の穴。この世はすべて穴に尽きる。食べて排泄して性交するだけだ。—チャールズ・ブコウスキー『Ham on Rye』(1982年)
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俺はリラの門の切符切り/人がすれ違っても目にもとめない男/地下に太陽はない/妙なクルージングさ/......穴をあける、小さい穴、ほらまた小さい穴/小さい穴、小さい穴、いつもいつも小さい穴/これじゃあ気も狂うさ/銃も手にしたくなる/その銃で穴をあけるのさ、小さい穴、最後の小さい穴/それで俺は大きい穴に入れられる/そこだともう穴の話は聞かずにすむ、穴のおとはいっさいなし/小さい穴の、小さい穴の、小さい穴の...—セルジュ・ゲンスブール『Le poinçonner des Lilas』(1958年)
セルジュ・ゲンスブールのデビュー曲『リラの門の切符切り』は、ぼそぼそとつぶやく男の暗いシャンソンのようなポーズをとりながらも革新的な内容で、作家・詩人・トランペット奏者・画家・劇作家・俳優・歌手と、20以上の顔を持つボリス・ヴィアンから「アンチ・シャンソンの誕生、シャンソンはゲンスブールとともに新世紀に入る」と激賞された。
ゲンスブールはこの曲で、ひたすら切符を切り続ける地下鉄の改札員のことを歌っているのだが、地下の暗い世界で切符を切り続ける孤独な男が外の世界へ逃げ出したいと願うも、来る日も来る日も小さな穴をあけているうちについには気が変になって死の願望にとりつかれるようになり、自らの頭にピストルで穴をあけて棺桶の待つ穴に急ぐという、まるで帝政ロシア時代の小説を思わせるような内容で(ゴーゴリのようなユーモアを持っていると私は思うのだが)、さらには繰り返される穴という単語がダブル・ミーニングで性的なメタファーを孕んでいるという、一筋縄ではいかないような歌詞である。
ゲンスブールはデビュー以来このような言葉遊びを好み、プロデューサーとしてアイドルや女優たちに楽曲を提供する時も彼のスタイルは徹底していた。主に性的な内容を扱ったものが多いのだが、それはロリコン趣味のエロオヤジといったイメージを安易に連想させるものではあるが、ユーモアのなかにありったけの皮肉を込めて、ある時には過激なほど自虐的な詞も書いた。
チャールズ・ブコウスキーの小説もまた、過激で自虐的だ。おそらくブコウスキー本人は自虐的な小説を書いているという意識はまるでないと思うのだが(彼が意識的に自虐的な内容を語るときは故意に誇張してユーモアたっぷりに、そしていつでも作家としての冷静な眼差しを欠くことはない)、私にはそのように感じられる。前回の記事でも書いたのだけれど、ブコウスキーの小説は自伝的というか、ほとんど自伝だ。だからブコウスキーの小説を過激で自虐的だと感じるのだとすれば、それはブコウスキーの人生、ブコウスキーそのものが過激に満ちた存在なのであり、自虐的に振る舞うざるを得ない決定的な何かが彼の人生にはあったのだ。
ゲンスブールにも同じようなことが言えるだろう。ゲンスブールに関する書物を読んでいると(どれも永瀧達治氏の本なのだが)、ゲンスブールにもっとも近い「危ないオヤジ」としてブコウスキーの名前が挙げられている。私は偶然にもブコウスキーとゲンスブールをほとんど大差ないタイミングで知ることになったので、ゲンスブールを聴きながらブコウスキーを読むという、方や伊達男の飲んだくれ、方や無頼派の飲んだくれという危険なオヤジとの三角関係に身をまかせながら、なぜこんなにも滅茶苦茶なオヤジに惹かれるのか、もはや狂気の沙汰ともいえるの彼らの生活、彼らの人生について想い、なぜ彼の歌は、なぜ彼の小説はこんなにも美しいのだろうと、もはや時代遅れとなって久しい彼らのこと、彼らの残した作品のこと、それらに恭しくキスをして行き着くことのない想いをめぐらせることにせっせと時間を費やしてきた。そのような私もだいぶ気違いじみているかもしれない。しかしこの二人の男は無茶苦茶でいながら、脆く、繊細で内気な男たちなのだ。まるで思春期の少年の心をそのまま残して、歳だけとってしまったような男たち。要は、とんでもない男たちなのだが。そんな二人の男について思うことを、明日にでも、もう少し。
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