2013-06-13

フランス映画のイメージを覆した、『ディーバ』(1981年・フランス)


中学の頃、友人たちとフランスの恋愛映画のビデオを観た。今になって考えると、フランスの映画であることを意識して観た作品はその時が初めてだったかもしれない。友人の家で開かれた鑑賞会で、自由奔放で大胆で強烈な個性のヒロインにげんなりし、早々にリタイアしてしまった私は(おそらく)コタツの上に散らばったお菓子でもつまみながら退屈な2時間をやり過ごしたのだろう。パステル調のポップな色彩の中で呼吸する美男美女の二人は紆余曲折ありながらも幸せそうに見えたが、画面を覆っている雰囲気はどこか悲しいほど重苦しく陰鬱で、救いのない物語のように思えた。

映画館もない田舎の小娘たちが挙って賛美していたその映画とは、ジャン=ジャック・ベネックスの『ベティー・ブルー』(1986年)だった。監督の名前などまるで知らなかったし気にも留めなかったけれど、フランス映画に対するどちらかといえば否定的なイメージとしてその後もずっと私はこの作品を鮮明に記憶していたのだから、『ベティー・ブルー』がポルノ映画と言われようが並々ならぬエネルギーを持った映画であることは間違いないようだ。フランス映画は辛いというあまりにも偏狭な思い込みを抱いてしまった事実は取り消せないけれど。

20代になって色んなジャンルのフランス映画を観るようになっても、『ベティー・ブルー』の印象は強烈でずっと引きずっていたように思う。たとえ恋愛映画でなくても、ヨーロッパの映画はやはりどこか鬱々としていて難解、というイメージはいつも頭の端にあった。けれどある日、そのイメージを完全に打ち破る一本の映画に出会った。その作品がフランス映画であることに本当に驚いたし、出会えたことに歓喜した。ヌーヴェル・ヴァーグの作家を彷彿させる、あまりにもフランス的な色彩感覚で捉えられた映像のなかにサスペンスとアクションとロマンスのエンターテインメント性を備え、徹底して練られたであろう愛すべきキャラクターたち、素晴らしく典雅な音楽に一気に引き込まれ夢中になった。それはジャン=ジャック・ベネックスの処女作『ディーバ』(1981年)だった。なんということだろう!私を『ベティー・ブルー』の呪縛(!)から解き放ってくれたのは、他でもない『ベティー・ブルー』を撮った張本人、ベネックスの映画だったのだ。



郵便配達員のジュール青年は、オペラおたくでオーディオマニア。ある日、大ファンである黒人オペラ歌手シンシア・ホーキンスのパリ公演に高性能のレコーダーを持ち込み、こっそり録音して自宅に帰るとその美しい歌声に涙を流していた。シンシアはキャリアの絶頂にありながらもレコーディングを拒み続けるディーバ(歌姫)であったため、彼女の歌声はコンサートでしか聴くことができない。ジュールが隠れて録音した歌声はこの世に存在する唯一のテープなのだ。このテープが原因で2人組の業者に狙われるジュール。さらには身に覚えのない不可解な事件に巻き込まれ、ギャングと警察にも追われてしまう。レコード屋で出会ったベトナム人の少女と彼女と暮らしている謎の男の助けを借りながらジュールはパリの街を逃げ回る。



青いフィルターを通して覗いたような朝靄のパリ、夜の街を疾走するジュールのバイクとジャケットの赤、メトロの壁も真っ赤だ。ベネックスの映画は配色が、特に青の使い方が本当に美しい。それは『ベティー・ブルー』でも感じたことだった。倉庫を改造したロフトに転がるスクラップされた車、壁と床一面に描かれた不気味なイラスト、ベネックスの手にかかればあまりにも異空間でガラクタにまみれたようなジュールの部屋もなぜだかとてもスタイリッシュで、独特の色使いは一度観たら忘れることができない。ミニバイクとクラシックカーを使用した疾走感のある映像も、サスペンスフルで気の抜けない物語を支えるのに一役買っている。

しかし登場するのは映像の美しさを強調するような美男美女ではなく、まるで漫画に描かれるような強烈なキャラクターばかり。主役をかすめてしまうほど脇役の存在感が濃い。万引きばかりしているベトナム人の女の子、波を止める夢を見ながら悟りの境地にいるというゴロディシュという謎の男、黒いサングラスにスーツ姿の2人組ビジネスマン、くしゃっとした個性的な顔でいつもイヤホンをつけているスキンヘッドのギャング。芸術を愛する純情なジュールはナイーヴな印象の顔立ちでありながら、おっとりした雰囲気もする美形の青年(アルフレッド・アンドレイ)。現在は監督業をしているようで、『ディーバ』以降ほとんど出演作がないのが非常に残念。



ベネックスはこの作品のなかで、シンシアに自らの信念を重ね合わせていると思われる台詞を言わせている。「商業が芸術に合わせるべきで、その反対はない」のだと。まるで作家主義を掲げたヌーヴェル・ヴァーグの監督のような気概だが、実のところ『ディーバ』は商業主義の否定とはまるで正反対のベクトルを持った映画であり、おそらくひたすら娯楽映画に邁進しようという姿勢のもとで作られた映画だ。

どんな芸術であれ作家至上主義の時代はとうに終わりを告げ、監督の一存で映画を制作するなど夢物語にすぎない。しかし面白ければどんな内容でも良いという意識のもと、CG技術を駆使した映画をバンバン作り続けるハリウッドに対し、かつてヌーヴェル・ヴァーグの作家たちが世界中を沸かせたフランス映画の人気は70年代に入って低迷し続けていた。ベネックスが用いたシンシアの台詞は、もはや商業主義に陥ってしまったハリウッドへのアンチテーゼであるとともに、しかし商業と芸術が互いに歩み寄らねばならない時代が来たことを示唆したものだろう。シンシアは言う「歌いたくて歌うが、そのためには聴いてくれる人が必要だ」と。そしてシンシアの前に自分を女神のように崇拝し芸術を愛するジュールが現れたとき、シンシアは歌を本物の芸術と理解してくれる人の存在に気付き、これまで貫いて来た信念は崩れてしまうのだ。

録音したテープを流しながら、盗んだドレスを胸に抱いて涙を流すジュール。私がもっとも好きなシーンだ。この映画はかつてジュール青年であったベネックスから、純粋に芸術を愛する現在のジュールたち(観客)への贈り物なのだ。そして、あの時代だからこそ通じる力強いメッセージと、ベネックスの信条が込められた偉大な処女作であるのだろう。



ディーバ
製作年:1981年 製作国:フランス 時間:118分
原題:DIVA
監督:ジャン=ジャック・ベネックス
出演:ウィルヘルメニア・フェルナンデス,フレデリック・アンドレイ,リシャール・ボーランジェ,チュイ・アン・リュー,アニー・ロマン


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